第28話 心が欲しい機械の音色

 坂井先生は最初、よく聞こえなかったようで私を見て微笑むだけだった。私はもう一度、ハッキリと「オーディションやり直させてください」と大きく言った。練習の声すらかき消すほど、私の声は音楽室全体に響いた。


 そこでようやく、坂井先生に意図が伝わったのだろう。怪訝な表情で、私を見た。


「やり直し? もう一度、やりたいの?」

「はい。イベント近いのに、急だっていうのは分かってます。でも、どうしても一度、弾かせてもらいたいんです。それで、判定してもらいたいんです。私のピアノが、演奏が、どこまで通用するのか」

「うーん、けど、喜美きみさん……佳代子かよこさんのことを考えると手放しでいいよとは言えないかしら。だって佳代子さんだって本番に向けて一生懸命練習してるんだもの。今になってオーディションをやり直すっていうのは、本人的にもよくないと思うの」


 坂井先生の言葉を聞いて、大人にとって、私たち子供は平等に守るべき対象であることを理解する。先生の言い分は分かる。だから、これ以上強く出ることができない。


「先生、やらせてあげて」


 これ以上食い下がるのは……と悩んでいたところに、倉石さんがやってくる。


「そいつ、前のオーディションで手抜いてたから」

「そうなの? 喜美さん」

「い、いやっ、手を抜いていたというか」


 坂井先生の視線が睨むようになったので、慌てて弁解する。しかし倉石さんは「絶対手抜いてた」と譲らない。


「喜美先輩! ちょっといいっすか」


 倉石さんが音楽室の端っこで練習をしていた佳代子さんに声をかける。私はドキッとして、背筋を伸ばす。気付いた佳代子さんが、倉石さんと私を交互に見て「どうしたのー?」とにこやかに近づいてきた。


「喜美がオーディション、もう一回リベンジしたいそうなんっすよ。どうっすか」

「え? オーディションをもう一回?」

「こいつ手抜いてたんで。この前のはほとんどノーカンなんっすよ」

「ふーん、白亜はくあちゃんが、やりたいの?」


 佳代子さんの不自然なほど丸い瞳が、私を見る。私は頷いた。


「じゃあいいよ! 伴奏者同士、一緒に頑張ろうって言ったのは私だもん! こうやって互いに高みを目指すのって、すごくいいことだと思う! ねぇ! みんなも協力してもらってもいい?」


 佳代子さんが部員全員に声をかける。


「白亜ちゃんが、もう一回オーディションしてほしいんだって! 今度こそ私に勝つぞって張り切ってるの! 私は白亜ちゃんのその気持ちにちゃんと応えてあげたい! みんなも、ちょっとだけ、付き合ってくれないかな!」


 佳代子さんの沸騰させたお湯の中に、私がまるごと放り込まれるのを想像する。出汁ってこういう風に出るんだ。じっくりと、ぐつぐつ、内側から、滲んでいくんだ。


 他の先輩たちも快く承諾してくれた。興味津々な様子で、みんなが教壇の前に集まってくる。


「これでいい? 白亜ちゃん」

「は、はい。ありがとうございます」

「いいよー、お礼なんて」


 佳代子やさしー、と野次が飛ぶ。私はギュッと唇を噛んで、ピアノに向かう。


「あ、白亜ちゃんが後でいいよ。流れ的に、そうでしょ? あと、こういうのは後攻の方が有利なんだよ。前回は私が後攻もらっちゃったから、もしかしたら私がオーディションで勝っちゃったのってそのせいなのかもしれないでしょ! だから、今度は白亜ちゃんが後攻ね!」


 遠回しに、逃げるなよ、と言われているかのようだった。有利な状況なんだからね、と釘を刺されているようにも感じる。


 もう、言い訳はできない。佳代子さんはこれが、私に恥をかかせる絶交のチャンスだと思っている。そして同時に、私を気遣うことで自らの株をあげている。同じ伴奏者としての上下関係を、佳代子さんはここで部員全員の前でハッキリさせるつもりなのだろう。


 この人は狡猾だけど、頭がいい。私にはそんな真似きっとできない。だから少しだけ、彼女が羨ましく思える。


「曲はなんでもいいよ。イベントでもクラシックからアニソンアレンジまで幅広く演奏するわけだし。まぁ私は無難に、クラシックで行こうかな」


 佳代子さんが椅子に座って、鍵盤をぽろん、と鳴らす。


 その頃にはすでに部員全員が教壇の前に座って演奏を聴く態勢になっていた。


 佳代子さんが選んだ曲はショパンの『子犬のワルツ』だ。


 オクターブの和音が出てこないので技術的にはそこまで難しくはないが、速いパッセージが続くので滑らかな運指が要求される。


 ピアノ未経験者でも知っているその曲は、知識がない人でも音を感じやすい。ただ、コンクールなどでの審査が入る場面では、音が乱れる可能性が高いこの曲はあまり選ばれることはない。


 だけど、この場にいる人たちは審査員ではない。あくまで、音楽が好きな人の集まりだ。子犬のワルツの朗らかで明るい曲調を聞けば自然とリズムに乗り、曲を聴き終わったあとに良い印象を抱きやすい。些細なミス程度では、減点になりづらいだろう。


 加えて、近くで見るからこそ目に入る、指の動き。速く動かせばそれだけ、知識がない人でもなんとなくすごいということは感じ取りやすい。


 佳代子さんの曲選びは完璧と言わざるを得ない。曲を聴いてる人の中にはもう、身体を揺らしてリズムとメロディを味わっている人もいる。


 五分ほどで演奏は終わった。佳代子さんの演奏は、私から見ても上手だった。


 佳代子さんは、私がピアノをやっていた間も、ずっと練習していたのだろう。


 全員の拍手に照れ笑いのようなものを浮かべると、佳代子さんはピアノから離れる。


「はい、じゃあ次、白亜ちゃん」


 呼ばれて、立ち上がる。


 だんだん、緊張してきた。掌に汗が滲む。


 どうしよう。


 ここでもし、佳代子さんに勝てなかったら、私、いろいろ最悪だ。


 佳代子さんに因縁を付ける、やな後輩だって思われたらどうしよう。実際、この場にいる誰もが私を見ていた。


 あれだけ言ったんだから、自分から喧嘩ふっかけたんだから、さぞ上手いんだろうな。そういう視線。


 みんなの前で演奏するのはこれが初めてじゃない。伴奏入りで練習するとき、佳代子さんとは交代で弾いていた。特に、それで周りから上手だねと言われたことはなかった。


「かましてきなよ」


 倉石さんが私の背中を押す。


 私は前によろめいて、その勢いのまま、椅子に座った。


 鍵盤と向き合うと、小さい頃のことを思い出す。


 私たちの生活には、音はあれど音楽はない。車が走る音、鳥が鳴く音。家族が食器を洗う音、雨が降る音。これだけの音と過ごしているのに、曲を奏でられるのは、この鍵盤を指で押したときだけ。


 合図はない。私が演奏を始めたら、そこからオーディションは開始される。


 私が選んだのは、ブラームスの『ピアノソナタ3番第一楽章,op5』だ。


 ふーっと息を吐いて、思い切り、鍵盤を押し込んだ。


 始めの音が肝心なこの曲の出だしを、なんとか切り抜ける。


 佳代子さんが演奏した『子犬のワルツ』とは違い、この曲は静かに始まる。


 それはまるで、行き詰まった人間が、迷いながらトボトボと街路樹を歩くような旋律だ。


 次第に音は増え、何かをひらめいたかのようにテンポが上がる。かと思えば、また暗闇に飛び込んだかのように静かになる。


 母はよく、作曲家の気持ちになれと私に言い聞かせた。


 曲とはその人が人生を賭けて作りあげるものだ。その人が何を感じ、何をその曲に込めたのか、それを理解しなければ完璧な演奏はできない。


 私はそれが、昔はよくわからなかった。


 だって、ブラームスも、ショパンも、ずっと昔の人だ。そんな人の気持ちなんか分かるわけないし、確かめようだってないじゃないか。


 だから母の言葉には頷いておきながら、私は作曲者の気持ちを分かろうとはしていなかった。


 倉石さんが言うには、私とブラームスは似ているのだそうだ。恩師であるシューマンの妻、クララを好きになってしまったブラームス。そして、家族同然に私を育ててくれた、沙希さんを好きになった私。


 ブラームスは内向的だったと言う。自分を出さず、自分を知られたくない。そんな彼は、シューマンが亡くなったあと、クララに自分の気持ちを打ち明ける。


 なぜ?


 黙っておけばいいのに。


 シューマンが亡くなってから告白するなんて、なんていうか、意地の悪い。


 まるで空き巣だ。


 愛人を失ったクララの悲しみに入り込むような、ずる賢い手口だ。


 もしかしたら、そう思う人もいるのかもしれない。


 だけど、私には分かる。


 ブラームスがなぜ、クララに想いを伝えたのか。


 それはきっと、前に進むためだ。


 ブラームスも、私も、恋というものに縛られている。それはもしかしたら、禁断の恋と呼ばれるものなのかもしれないけれど、それでも、人を好きになるその気持ちだけは、他の人と変わらない。


 だからこそ、苦しい。


 きっとブラームスは、恩師であるシューマンにも大きな信頼を置いていただろう。シューマンの家で暮らしていたブラームスは、毎日のようにクララの手料理を味わったのだそうだ。


 だからクララとの間にも、シューマンと変わりない、絆のようなものはあったはずだ。


 決して、恋だけじゃない。でも、恋があるのは確か。下心があるのは確か。だけど、大切にしたい。悲しんでほしくない。


 善と悪の狭間を、私も、ブラームスも、ずっと、長い間彷徨い続けている。


 ブラームスが作ったこのピアノソナタにも、そういった、葛藤や迷いが現れている気がする。


 だから、感情を込める。


 泣いてしまいそうなほど、苦しい夜もあった。好きになんかならなきゃよかったと何度思ったことか。そんな思いを隠しながら、平然と接する自分を、人間のフリをした化け物だと何度揶揄したことか。


 誰か助けて、そう叫びたいのに、誰にも相談できない。そんな悩みを抱えながら、雨の中を全力で走る。


 演奏しながら、そんな自分が想像できた。


 そっか、これが、母の言っていた演奏なのだ。


 楽譜に沿って鍵盤を叩くのではない。


 曲には作曲家の人生がまるごと詰まっている。圧倒的な才能が抱えた、平凡すぎる悩み、葛藤、それらが生み出す荒波に身を任せながら、音楽の海を泳ぐ。それが演奏だ。


 母はよく、クラシックを聴いて泣いていた。それは、きっと、音楽というのは必ず伝わるものだからだ。


 ブラームスの悩み、人生、そこに私自身の過去と、苦悩と、涙を乗せて、音色にする。そうすれば、それを聴いた誰かに必ず私と、ブラームスの想いは伝わる。


 全国ピアノコンクールで弾いたときは、まるで機械のようだと言われた。私はそれを、マイナスな意味にしかとらえていなかった。


 だけど、どうしてだろう。このピアノソナタを弾いていたら、忘れていた母との思い出がたくさん蘇ってくる。


 ――審査員さん言ってたよ。まるで、機械が人間の気持ちを理解したくてもがいているような演奏だったって!


 そう、母は誇らしげに笑っていた。

 

 大切な思い出も、ブラームスは思い出させてくれる。もし、私の演奏を聴いて、私と同じ気持ちになってくれたら嬉しい。


 私の演奏は、クライマックスに差し掛かる。


 最後はブラームスの葛藤が晴れ、雨雲の去った目映い空の下を、傘を投げ捨て走り回るような旋律。


 底抜けの明るさではないのに、なぜかその人の迷いが吹っ切れ、進むべき未来へ突き進むような、そんな温かさと、思わず顔がほころんでしまうような微笑ましさのある、クライマックス。


 そこに、今の私の感情を乗せるんだ。


 倉石さんの言っていた通り、私はもしかしたら手を抜いていたのかもしれない。


 この部活での演奏はいつだってそうだった。だってこれは伴奏だから。ピアニストとしてじゃなくて、あくまで合唱の伴奏なんだから。


 奏でる音色は控えめに、主張は少なく。そう思いながら演奏していた。


 だけど、今は違う。伴奏者としてじゃなく、一人のピアニストとして。母の音楽を継いだものとして、音を奏でたい。


 視界がぼやける。意識も薄い。


 それなのに、弾けている感覚だけが指先から伝わってくる。


 最後はまるで、お辞儀をするような、礼儀正しく、だけどちょっとだけ子供みたいな、そんな旋律でこの曲は終わる。


 演奏を終えて、鍵盤がびしょ濡れなのに気付いた。


 涙だったらどうしようと目を触ったが、そこは濡れていなかった。


 変わりに、前髪が額に張り付いていた。


 これが汗なのだと、そこでようやく理解した。


 これで、私の演奏は終わり。


 みんなの反応は、どうだろう。


 顔をあげるのが怖い。


 佳代子さんのときはすぐに拍手が鳴ったのに、私のときは、しんとしたままだ。


「うそ」


 誰かがそう言った。それが合図だった。


 一斉に拍手が鳴り「すごいすごい! 何!? 今の!」「え、これドッキリじゃないよね? プロレベルだよこんなの」と歓声があがる。


 意を決して、顔をあげる。


 そんな気はなかったのに、佳代子さんと、目が合ってしまった。


 その目が真っ赤に充血していることに気付き、私は慌てて、顔を伏せた。

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