第29話 ――さあ選べ。

 その後は大変だった。


 先輩たちからもみくちゃにされ「なんでそんな上手なの」「今まで隠してたの!?」と問い詰められ、私はどう答えればいいか分からず目を回すばかりだった。


 助け舟を出してくれたのは倉石くらいしさんだった。倉石さんが「喜美きみ文子ふみこ」と母の名前を出すと「うそ!? もしかして、娘さん!?」わあっと場が盛り上がる。


 私の母を知っている人は思いの他多く、すごく好きで、CDも持ってるという人もいた。私は恥ずかしさと誇らしさに板挟みになりながら、意味もなくぺこぺこと頭を下げた。


「また私の居場所を奪うんだ」


 突如聞こえた、地の底を這うような鈍重な声。


 その主は佳代子さんだった。


「ずっと、バカにしてたんでしょ」


 拳を握り、全身を震わせた佳代子さんが、真っ赤な目で私を睨む。


「ば、バカになんて……」

「してたんでしょ!!」


 佳代子さんは動物が威嚇するときに出すような、金切り声をあげて音楽室を出て行った。その場にいた全員が、呆気にとられた。


「ど、どうしちゃったんだろう」

「あんな子だっけ……?」


 きっと佳代子さんは、この合唱部ではずっと良い子で過ごしていたのだろう。だけど、私ににとって、あの姿こそ見慣れた佳代子さんの姿だった。なんとなく、懐かしささえ覚える。


 そんなこともあったせいで、今日の部活は空気がずっと異様だった。


 浮かれたような、だけどふざけられない、どんよりとした空気。結局、部活が終わるまで佳代子さんは帰ってこなかった。佳代子さんの荷物は、同じクラスの先輩が家まで届けてくれることになった。


 オーディションの結果は後日、佳代子さんのいるときに話し合うとのことだ。


 帰り道、私はまた質問攻めに遭うのが嫌で、こっそりと見つからないように音楽室を抜け出した。


 しかし、そんな姑息な私を、倉石さんは見逃さなかった。


 後ろから足音がしたと思ったら、背中をバシっと叩かれた。


「超気持ちよかった」

「く、倉石さん」

「見た? 先輩のあの顔。悔しくてたまらないって顔だった」


 涙ぐむ佳代子さんの、自分の歯すらかみ砕いてしまうんじゃないかという悲痛な表情。思い出すと、まるで私が悪いことをしたかのように思えてくる。


 他に方法はあったんじゃないか。せめて佳代子さんがいない場所でやれば、傷つけずに済んだんじゃないか。そう思ってしまう、思わせることができるのが、佳代子さんだった。


「あと、やっぱ、よかったよ。喜美の演奏」

「本当?」

「ママがスカウトするのも納得。小学生の頃、ジュニアコンクールで聴いたときよりも上達してる。ううん、技術的な面より、どっちかというと、音楽へ向き合い方が変わった。そんな気がする」


 倉石さんが、並びの良い歯を見せて笑う。


「本気だったでしょ」

「……海外へ行ける実力があるのかどうか、確かめたかったの」

「そういうこと。今日、ずっと目が据わってたから、何事かと思った」

「わ、私、そんな目してた?」

「猛禽類みたいだった」


 言われて、思わず目をごしごしと擦る。


「あの、倉石さん。私」

「海外に行くんでしょ。さっき聞いた」


 下駄箱で靴を履き替えて、顔をあげる。すでに外は夕暮れどきになっていた。


 一斉に帰り始める生徒に交じって、私と倉石さんは校門へ向かう。


「正直、意外だった。喜美、そこまで音楽のこと好きじゃなさそうだったから」

「えっと、好きか嫌いかで言ったら、好きだよ。でも、どっちかっていうと理由は音楽以外にあって……」


 私は、自分が今置かれている状況を包み隠さず倉石さんに話すことにした。こんなに簡単に心を許してしまえるのは、きっと倉石さんは良くも悪くも正直だからだと思う。


 悪いことは悪いって言うし、良いことは良いって言う。それは偏見や、常識に囚われた意見ではなく、あくまで倉石さんによる個人の尺度。不純物が入っていない、透き通った判定を、倉石さんは必ずくれる。


 だから沙希さんが好きということも打ち明けられた。


「そうなんだ」


 沙希さんのお父さんが病気で、長くないこと。それなのに沙希さんは実家に帰ろうとしない。それは、私という存在のせいでもある。私を一人にできないから、沙希さんは実家に帰らない。私を連れて行けば、転校は免れない。全部、私が足枷となっているせいで、沙希さんは今、大事な決断ができなくなっている。


 だから私が、音楽を学びたいと、自分の意思で、海外に行けば、沙希さんはきっと私を止めない。私がいなくなれば、沙希さんも心置きなく実家に帰ってお父さんと最期のときを過ごせる。


「だから、行きたいの。海外」


 校門を抜けたそこは、もう私と倉石さんの別れ道だ。決断はいつだって、急がなければならない。そのときを逃してしまったら、もう遅いから。


「ちょっと遠回り」


 しかし、倉石さんは私の家がある右でもなく、倉石さんの家がある左でもない。そのまま真っ直ぐ進むことを選ぶ。


 私はビックリしたけど、黙って倉石さんに付いていった。


「喜美はやっぱり、見えない敵と戦ってる」

「見えない、敵?」

「本当に海外に行きたい?」

「え、うん。だってそれしか、ないよ。沙希さんは私がいるから、身動きが取れなくなってる。私がいなくなりさえすれば、沙希さんは――」

「それ、誰が言ったの?」

「え?」

「喜美がいるから身動きが取れないなんて、誰が言ったの?」


 そんなの、決まってる。沙希さんだ。


「一字一句、違わず言われた?」

「そういうわけじゃないけど、話し合って、分かったの。この人を縛り付けているのは私なんだって」

「それが、見えない敵だって言ってるんだよ」


 どういうことだろう。


 夕陽に照らされた倉石さんの表情は、まるで彫刻のように陰陽がハッキリとしていた。


「言われてもいないのに、言ったことにして架空の敵を作らない方がいい」

「敵なんて作ってるつもりはないよ。私に残されてるのは、もう、これだけで」


 そこまで言ったところで、倉石さんが手を振り上げた。その手は、拳を握っていた。


 つ、ついにボコボコにされる!?


 わあっと私は自分の頭を抑える。ぽこっと、軽いパンチが頭に当たった。


 私の頭を叩いた倉石さんの右手は、中指と薬指だけが、プルプルと震えている。


「あたし、指が動かなくなったとき、音楽から離れようって思った」


 普段とは違う帰り道で、倉石さんはいつもより少しだけ、感情のこもった声色で語る。


「だって、ピアノができなくなったからって他の音楽分野に映ったら、事情を知らない人は思うでしょ。あいつは、ピアノで実績を残せなかったから、他の分野に逃げたって。それが死ぬほど悔しかったから、あたし、もう音楽には関わりたくなかった。音楽が大好きなのに」


 倉石さんの語り口からは、悔しさが滲み出ていた。


「でもさ、それって、誰にも言われてないんだよ。言われてもないのに、思われてる、絶対思われるってあたしは意固地になってた。そのせいで、だいたい四年くらい、人生を無駄にした」


 無駄な人生なんてない、と思ったけど、倉石さんの性格なら、何かに打ち込まなかったその数年を、無駄と言い切ってもおかしくはない。


「それじゃあ倉石さんは、どうしてまた音楽をやる気になったの?」

「あたしよりピアノが上手で、指もきちんと動く同い年の奴が、ピアノをやめてたから」


 倉石さんが、わざとらしく私を睨む。


「すぐに分かったよ。中学のとき、県のコンクールに行ったらそいつは出てなかった。ピアノ教室をやってる知り合いの先生に聞いたら、もうやめたんだって、教えてくれた」


 私のことだ、とすぐに分かった。無意識に、指を動かしてしまう。


「あのね喜美、あたしは喜美に、才能があるなんて思ってない。だって才能って、生まれたときから、持ってる能力のことでしょ。たかが数年ピアノやって、その数年の中で上手な演奏ができたって、それは才能じゃなくて噛み合いでしょ。あたしだって、小さい頃からあやとり上手っておばあちゃんに言われてたけど、それは才能なんだって思ったことは一度もない」

「でも、じゃあ、才能って、なに?」

「喜美は数学、好き?」


 私は首を横に振る。


 方程式とか、因数分解とか、中学のときからずっと嫌いだった。図式を見るだけで頭が痛くなる。数学は、学校の授業の中でもっとも憂鬱な時間だ。


「あたしも嫌い。でも、世の中にはね、その数学を学校卒業してもずっとやり続けて、大人になってもあの小難しい数字と向き合ってる人もいる。それはやらされてるんじゃなくて、やりたいって思ったから。あの数学を、もっとやりたいって思う人がこの世にはいる。これが才能だって、あたしは思う。たかだか数学の点数が数年よかっただけで、それを才能とは呼ばないでしょ?」

「それは、そうかも」

「だからそれと一緒。喜美のそれは才能と言わない。喜美はただ、ピアノが上手なだけ。だからあたしは、付けいる隙はそこしかないって思った」

「隙?」

「あたし、ずっと喜美と比較されてピアノしてきた。あんなに上手な子がいるのにって。うちのママは自分の理想の音楽を追究してる。だから娘にも、自分の理想を奏でてほしかったんだと思う。コンクールに出るたびに、あたしは喜美、あんたに負け続けてきた」


 そんなこと知らなかった。元々、私はコンクールに出たときも、緊張するから他の子の演奏は聴かないようにしていたのだ。


「あたしを負かし続けてきたあのピアニストが、ピアノをやめた。だからあたしは、もう一度音楽の世界に戻ろうって思った。喜美にはない才能が、自分にはあるって気付いたから」


 ピアノはもう弾かない。そう決意した日の、指先の冷たさが蘇る。


「指を使わなくてもできる合唱をあたしは選んだ。喜美みたいに、最初から上手なわけじゃなかったけど、楽しかった。……一生やりたいって思えた」


 倉石さんの、記号が見えなくなるほどのメモを残した楽譜を思い出す。この合唱部で、誰よりも真摯に、そしてひたむきに合唱というものに向き合っているのは倉石さんだ。


「そして気付いた。ピアノから逃げたんだろ、実績を残せなかったからだろ。そんなことを言ってくるやつがいるに違いないって作り出した、見えない敵は、どこにもいなかった。あたしは後悔した。なんでもっと早く、合唱を始めなかったんだろう。あの無駄に過ごした四年間はなんだったんだろうって」


 全く知らない道に出る。ちょうど交差点に差し掛かって、信号で足を止めた。


「あたし、喜美には後悔してほしくない」

「倉石さん……」

「音楽では、ピアノでは、敵だったかもしれないけど。あたしも喜美も、家族に恋をした同士だもん。その点では、あたし、味方でいたい」


 優しい声だった。倉石さんが、私の手を握る。


「喜美は、海外に行って、ピアノを弾き続けられる? 自分のためじゃなくて、喜美のママを説得する手段として、音楽を続けられる? 厳しいレッスンに耐えられる? それだけの日々に、価値を見いだせる?」


 倉石さんは、一生合唱を続けたいと言った。


 なら、私は? ピアノを一生続けたい?


 そうは、思わない。


 今日のオーディションで、私の実力は証明できた。私の演奏を聴いた先輩の中には、プロレベルだと言ってくれる人もいた。


 だけど、続けたいとは思わない。沙希さんとのわだかまりが解けた後には、また、弾かなくなる。そんな気がした。


 もちろん、また弾くこともあるかもしれない。ただ、それはやはり、何かの手段としてで、ピアニストとして人生を送ろうとは、考えられない。


「こう思われるに違いない、これしかないはず。そうやって見えない敵は作っちゃダメ。戦うのは、見える敵とだけでいい。喜美、あんたが今戦わなきゃいけない敵は誰?」


 私の手を握る力が、強い。


「ママはああ言ったけど、プレッシャーに思わなくてもいい。大人ってみんなあんな感じだから。自分の理想を後世に残したくて、時々宗教じみた勧誘をしてくるときがある。でも、大事なのは喜美の意思だから。ママにはあたしから言うから、喜美の本当の気持ちを教えて」


 倉石さんの真剣な瞳が、私を射貫く。


 私は、海外に行く。行くしかない。それしか手立てはない。そうすれば沙希さんは、実家に心置きなく帰れる。


 それは、誰が言った?


 どこで聞いた?


 ただ私の中で、命が宿るように、ひっそりと、生まれたものじゃないか?


「見えない敵と戦うな」


 もう一度、倉石さんが言う。


 私がそのとき思い出していたのは、沙希さんと過ごした毎日だった。


 私のすべては沙希さんと共にあった。


 家にいるときにすることなんか、食事をして、お風呂に入って、歯を磨いて、テレビを観て、寝るだけだ。たった、それだけのことの繰り返し。


 そんな機械的な毎日が楽しくて、胸がいっぱいになっていたのは、沙希さんが一緒だったからだ。


 海外に行ったら、沙希さんとは暮らせない。沙希さんの居ない生活を、私は果たして、楽しく過ごせるだろうか。その毎日に、価値を見いだせるだろうか。


 ……無理だ。


 沙希さんがいない生活を想像しただけで、胸が苦しくなる。


 でも、だから離れたくないというのは、私の我が儘だ。


 沙希さんに幸せになって欲しい。私のことなんか、二の次だ。


 ……違う、違うでしょ私。大人ぶるな、良い子ぶるな。


 思い出さなきゃ。


 私が選んだのは、どっちだったんだっけ。


 家族としての幸せか。


 それとも、破滅か。


 選んだのは、破滅の方だったはずだ。


 破滅してでもいいから、私のこの気持ちを、家族愛という絆で終わらせたくなかった。だからあの夜、涙ながらに私は沙希さんに告白したんじゃないか。


「……海外なんか、行きたくない」


 そうだ、人間のフリをした化け物。


 化け物のくせに、他人の幸せを願うな。


「離れたく、ない……」


 欲望に塗れこともあったくせに。


 毎日あの人のことを考えて、想像の中で好き勝手してたくせに。


 今更、あなたさえ幸せならそれでいいって?


 家族ならそれでもいい。だけど、そうじゃない。


「一生、沙希さんと一緒にいたい」


 名前を付けたはずだ。


 長い間、私の心の中で腐臭を放っていたその感情。


 甘酸っぱい成果にしてあげたくて、名付けたんだ。


 ワガママで、自分本位なそれは。


 紛れもなく『恋』だったはずだ。

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