第30話 剥き出しの心

「ならそれを言えばいい。言って、互いの妥協点を探れば海外に行かなきゃなんてぶっとんだ考えなんかしなくてすむ」

「そうだよね……私、焦ってたのかも。倉石くらいしさんのお母さんには、申し訳ないけど」

「うちのママも気にしないよ。スカウトも仕事のうちだから、日本に帰ってくるたびに誰かには声かけてるんだ」

「そうなの?」


 それなら少しだけ、罪悪感は和らぐ。


「言葉にすれば、気持ちっていうのは必ず可視化される。それでもダメだったら、足でも組んでやればいい」


 倉石さんが得意気に、つま先を見せてくる。


「そうすれば、嫌でも敵は沸いてくるから、そいつらをしらみつぶしにしていけばいい」

「それはしないけど……でも、ありがとう倉石さん。私、沙希さきさんともう一度話してみる」

「人の心を読むなんて大人でも無理なんだから、うちらがやることじゃない。自分の本音と願いは、隠すだけ損だから」


 オーディションの前と同じように、倉石さんが私の背中を叩いた。 


 その勢いのまま、青になった信号を渡る。


 四つに分かれた交差点。私は真っ直ぐ、沙希さんの待つアパートへと向かった。




 沙希さんはテーブルに突っ伏して眠っていた。


 規則正しい寝息が聞こえてきて、そばにはミルクココアが置いてある。この日常を手放したくない。思いは次第に強くなり、私は沙希さんの肩をゆすった。


「……白亜はくあちゃん」


 顔をあげた沙希さんは、ぽーっとした目のまま、私の名前を呼ぶ。「はい」と答えると、沙希さんはミルクココアを飲みきってから、遅れて「おかえり」と微笑んだ。


「沙希さん、あの、お話があるんです」


 前のめりになりすぎて「ただいま」を言うのを忘れた。でも、今言いたい。


 沙希さんはバツが悪そうに目をそらした。


「昨日の続き?」

「はい。私、あの」

「するの?」


 鎖骨のあたりを指でなぞり、顔を赤くしながら私を見上げる沙希さん。昨晩の、いわば未遂のようなものを思い出して、私まで顔が熱くなる。


「する、じゃなくて、話、です。ただの」

「え、あ」


 勘違いに気付いたのか、沙希さんが頼りない声をこぼして俯いてしまう。


 もし、ここで「してもいいんですか」と聞いたら沙希さんはなんて答えるだろうか。


「行きたい場所があるっていう話、したじゃないですか」

「うん。でも、白亜ちゃんが遠くへ行く必要はないんだからね。そうだったら、わたし、絶対実家には戻らないから」


 子供のように頬をむくれさせる沙希さんが、ちょっと面白かった。私の表情の変化に気付いたのか、沙希さんは何か言いたそうに口を開いたが、また黙りこくってしまった。


 海外へ行く、その計画は一旦ナシにした、私の答え。それは本当に、答えと言っていいのかどうかは分からない。だけど、そこまで難しい問題ではない気もしていた。


「遠くへは行かない。もちろん、転校もしません。衣食住も保証されていて、いつでもまたここに帰ってこられる場所があるんです」

「そんなところ、あるの? だって、おばあちゃんの家は九州でしょ? それとも、わたしの実家? ダメだよ。転校しないにしても、毎日新幹線で二時間だよ?」

「はい、現実的じゃありません。でも、新幹線だって、飛行機だって、乗る必要ないんです。沙希さん、私――」


 これから行くべき場所、身を置く場所。それを告げると、沙希さんはさっきまで赤かった顔を、今度は真っ青にして立ち上がった。


 予想はしていた。このアパートに助けを求めてやってきたとき、沙希さんに事情はすべて話したから。あの家のことも、あの家で何があったかも、沙希さんは全部知っている。


「それが、最善だって私は思うんです」

「ダメ! 白亜ちゃん、どうして白亜ちゃんが辛い思いをしなきゃいけないの? 我慢しないでいいんだよ。白亜ちゃんは、私のことなんか気にしなくていいの!」

「気にしますよ! しょうがないじゃないですか、好きなんだから!」


 悲しくも切なくもないのに、なぜか涙が零れそうになる。好きな人に好きと言うのは、どうしてこんなに勇気が必要なのだろう。


「沙希さんは私を、まだ家族として扱っているのかもしれません。血は繋がっていなくても、本当の子供のように育ててくれているかもしれません。わかってます、本当に感謝してます。でも、違うんです。私は、沙希さんの、ことをっ、大好きでっ!」


 心に隠していた風船に、穴が開いてしまった。弾ける気持ちは、止められない。


「恋、していてっ!」

「白亜ちゃん……」


 私は、沙希さんの手を両手でギュッと握った。


「分かりますか、沙希さん。私、沙希さんと手を繋ぐだけで手がぷるぷる震えちゃうんです」


 怖い。


 でもそれは、恐怖、怯えの類いではない。


 心の中で何度も思い描いたその人に、直接触れている。その現実に、打ちひしがれているから、震えるのだ。


「家族相手なら、震えたりしません」


 こうしている間に沙希さんの手も震えてくれないかと期待したが、沙希さんの手は静かに、優しく、私の頼りない小さな手を包み込むだけだった。


「沙希さん、私、海外に行くつもりだったんです」

「え?」


 沙希さんの目が丸くなる。


「実は、倉石さんのお母さんが海外で交響楽団をやっていて、生前の母と仲が良かったそうなんです。その伝手で、私の演奏も聴いたことがあって、それで今回、たまたまお会いする機会があって、そのときにスカウトされたんです」

「す、すごいことだよ。それって」

「はい。私には、私の弾くピアノには、それくらいの価値があると、言われました。特に、伝説のピアニストである母から直接ピアノを教わっていたのも、大きいらしくて」

「……分かるよ。梢の家で弾いてたときも、白亜ちゃん、すごく上手だった。でも、なんとなく、わたしたちのことを気にしながら弾いてるなって気もしてた。……音が大きくならないように、力抑えて弾いてたよね」


 私は頷く。


「海外へは、行かないの?」

「はい。行きません」

「それは……」

「沙希さんと離れたくないからです」


 ここからは、私の本音と、ただのワガママな、独りよがりの願いだ。


「私は、母からピアノをずっと教わってきました。私と母の間には、ピアノしかありませんでした。それに加えて、交響楽団へのスカウト、周りからの期待。たくさんのものを、思いを、受け取りました。でも、そのどれと比べても捨てられないものが、沙希さんなんです」

「わたしのことなんか、捨てちゃいなよ。白亜ちゃんはピアノを弾くべきだよ。白亜ちゃんのお母さん、すごい人なんだよ。音楽に疎い、わたしでも知ってるくらい。だから白亜ちゃんは、お母さんと同じ道を行くべきだよ」

「いいえ、私は沙希さんを選びます」

「どうして!?」

「だから!」


 お互いの大きな声がぶつかり合う。


「あなたのことが、好きだから……っ!」


 何度、何度言えば分かってくれるんだ。


「それくらい、好きだから! だからっ、捨てられるんです。母との思い出も、教わったピアノも、音楽の道に進むチャンスも、全部捨てでも、あなたを選びたい……」


 沙希さんの手を握ったまま、私はその場で崩れてしまう。


「離れたくないんです。あなたと」


 床に黒いシミができていく。大粒の涙は、頬を伝うと一直線に落ちていった。


 それでも手は離さない。震える手に、力を込める。


「……白亜ちゃん」


 沙希さんの声が、頭上から降りかかる。しかし、顔をあげることはできなかった。


 呼吸を整えながら、沙希さんの言葉を待つ。


「言ったはずだよ。あの夜に、白亜ちゃんの気持ちは、ちゃんと、受け止めた。恋なんだって、女性同士だけど、家族同士だけど、そうなんだよね。大丈夫だよ。ごめんね、心配させて」


 背中を撫でられて、また泣きそうになる。


「でもね、これだけは言わせて。わたし、貴文たかふみさんとね、白亜ちゃんの未来を約束したの」

「私の、未来?」

「うん。白亜ちゃんが、これから楽しい時間を過ごして、かけがえのない思い出をたくさん作って、立派な人間、素敵な女性になれるように、わたしが支えますって、貴文さんと約束しちゃったの。だから、白亜ちゃんのこと、わたしはたぶん、これから何度も、自分の子供のように見ちゃうことがあるかもしれない」

「……はい」

「でも、それと同居させてもいいのなら」


 沙希さんの手が、私の頬に触れる。それだけで「顔をあげて」って言われているみたいだった。


「わたしも、白亜ちゃんの気持ちに応えたい」

「沙希さん……」

「でも、だから、考えたい。真剣に。昨日はごめんね、白亜ちゃん。恋っていう感情の正体っていうか、仕組みがわからなくて、ああいうことをするっていうのが、答えだと思ったの。でも、違うよね。白亜ちゃんのさっきの言葉を聞いて、わたしもちょっとだけ、気付けた気がするよ」


 空けた視界に、沙希さんの顔が映る。私を見る温かい視線は、やはり、ズルイなと思う。頼もしい、甘えたい、そういう気持ちの上に、かわいい、綺麗、と上乗せされる。


 まつ毛長い。目おっきい。髪の毛さらさら。唇つやつや。顔ちっちゃい。今更言うことでもない感想が、ぽつぽつと生まれてくる。


 これはきっと、これからもなくなることはないのだろう。沸騰するたびに、生まれ、消えることはない。


「そういうことでも、あります」

「え?」

「し、したい……です」

「そ、そっか」


 目が合ったまま、互いに固まった。


 沙希さんは深く息を吸う。


「分かった。わたし、実家に帰るよ。白亜ちゃんとのことも、考える時間が欲しいから」

「はい」

「白亜ちゃんは、大丈夫? もう、家の人には話をしたの?」

「じ、実はまだなんです。でも、大丈夫です。だって、戻るだけなので」

「嫌なことされたら、すぐに言うんだよ。我慢しないで。何かあったら必ずわたしに連絡してね」

「分かりました」


 どんなことよりも、安堵する。沙希さんが、実家に帰ってくれる。


 お父さんと、最期を過ごしてくれる。


 私も、私にも、あのとき、こんな風に言ってくれる人がいたら。


 お見舞いに行きなさい。お母さんと一緒にいてあげなさい。


 そう言い聞かせてくれる人がいたら、こんなに、後悔せずにすんだのかもしれない。


 でも、過去は変えられない。そんな人はいなかった。それが現実。


 私は母が病と闘っている間も、母から逃げ続け、お見舞いにも行かず、ピアノを弾かず、最期の会話も、母を悲しませ、傷つけるだけのもので終わってしまった。


 意識があったのかどうかは分からない。私と話したあと、指で2拍子を叩きながら、涙を流していた母の光景が脳裏に焼き付いて離れない。


 沙希さんには、私と同じ思いをしてほしくない。


「行って、話してきてください。たくさん」

「うん」

「本音や願いは、隠さずに」

「そうだね」

「今日の、私みたいに」


 これで、私の言いたいことはすべて言った。包み隠さず、見えない敵を作らず、目の前の、戦うべき相手とだけ、正面から戦った。


「あの、沙希さん」

「なあに? 白亜ちゃん」


 いつもの調子で、笑いかけてくれる沙希さん。私に名前を呼ばれることが心底嬉しいというような、満面の笑み。


「私、可愛いですか」

「うん。何度も言ってる。可愛いよ」

「魅力、ありますか」

「もちろん」

「大人の余裕で躱してないですか。これは、叶う恋ですか」


 沙希さんは少しだけ口をとがらせて、「そうだよ」と言った。


 私には、その言葉だけで充分だった。

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