第31話 鋭利な逃げ道
出発当日、
私が荷造りをしているときも、何度も「やっぱりやめる?」と聞いてきた。しかし、もうあちらに話は通してしまったので、今更止めることにはできない。
リュックにはシャンプーなどのトラベル用品を詰め込んで、母の物だったキャリーバッグに着替えを入れてある。セカンドバッグに財布と、スマホの充電器が入っているのを確認して、最後に沙希さんからこのアパートの合鍵を受け取る。
「あれ、このキーホルダー」
「なくさないように。この前、デパートで見つけたの。可愛いかなって思って」
鍵には、ジェル加工されたトリケラトプスのキーホルダーが付いていた。デザインはかなりデフォルメ化されていて、くりっとした目が可愛い。沙希さんのセンスが、私は好きだ。あざとくないというか、本心から可愛いと思っていることが伝わってきて、こちらまでほっこりする。
「はい、可愛いです。これがあればなくしません」
「忘れ物があったら、戻ってきたらいいよ。一応、ブレーカーは落としていくけど、用事があったらブレーカーあげれば電気も点くし」
「沙希さんは、明日出発ですか?」
「うん、荷造りはもう終わってるから、明日の午前の新幹線に乗って帰るんだ」
私はすでに靴を履き終えて、あとはドアを開けるだけの状態だ。
玄関から見渡す部屋の内装は、私が学校から帰ってきたときに見る景色のままだ。
入ってすぐの場所に全身鏡があって、その向かいに冷蔵庫がある。お風呂とトイレを挟んだ廊下の先にリビングがあって、ウッドカラーのドアを開ければ、そこに沙希さんがいる。 起きてるかな、寝てるかなって心を躍らせながらリビングに入るときの心持ちは、今でも簡単に思い出せる。
「それからこれ、あちらの親御さんに渡してね。お世話になるわけだから、失礼のないように」
沙希さんからお菓子の入った紙袋を受け取る。
本当にこれから、あの家に行くんだ。だんだんと実感が沸いてくる。でも、大丈夫。
「私は、いつまでも待てるので。沙希さんは、心ゆくまでお父さんとの時間を楽しんできてください」
「そうだね。でも、一ヶ月経ったら、戻るよ。たぶん、そうなるから」
「そんなの分からないですよ。何か奇跡が起きて、病気が治ることだってあるかもしれません。病は気からと言いますから、沙希さんと一緒にいるうちに、沙希さんのお父さんだって病気なんかやっつけてきっと元気になりますよ!」
そういう奇跡は、いくらでも信じたっていい。何かのきっかけになるのなら。
沙希さんは小さく頷くと、私の頭にそっと手を乗せた。
「ありがとう。いってらっしゃい、
入学式のとき、頭に乗った桜の花びらを沙希さんが取ってくれたことを思い出す。私はあのとき、ちゃんと高校生として生きていけるか不安だった。
沙希さんを好きなくせに、それを頑なに恋と呼びたくなくて、恋することが悪いことだと思っていた。そんな葛藤や善人のフリをした正義感に溺れていた自分を、人間と仲良くなりたい怪物だと揶揄することで、手と手を取り合って生きていけない自分を正当化していた。
あの頃の私は、随分と、私のことが嫌いだったのだと、今になって他人事のように思う。
「行ってきます、沙希さん」
ドアを開けて、地面を蹴った。駆け出した外の世界は快晴で、青い空の下を私は駆ける。
階段を降りて、部屋のある方を見上げる。
沙希さんが小さく、手を降ってくれていた。
チャイムを押すと、家の奥から襖を開けるような音が聞こえた。
この家に来るのは、およそ二年ぶりだ。懐かしいとは思わない。むしろ、また来てしまったという後悔が胸に渦巻いている。
沙希さんの前だから意気込んではみたものの、やはり足踏みしてしまう。どうしてチャイムを押してしまったんだろう。もうこれじゃあ、逃げられない。
ドタドタと、足音が聞こえて、こちらに近づいてくる。
つま先を立てて、背筋を伸ばす。ガラス戸に移った私は、ひどく不格好だった。
「ああ、来たの」
私を見ると、
沙希さんが実家に帰っている間、住ませてもらう場所。それには、佳代子さんの家が一番最適だと、私は結論付けた。
佳代子さんの家は学校からも近いし、沙希さんの危惧する転校は必要ない。
先週、沙希さんと話した後日に、私は佳代子さんに事情を話した。オーディションの件もあってか、佳代子さんは私を見るやいなや嫌悪感を剥き出しにした。こっちまで聞こえるわざとらしい舌打ちに気が滅入りそうになったが、沙希さんが実家に帰っている間だけ棲ませてもらえないかと話をしたら、両親に聞いてみると佳代子さんは言ってくれた。
承諾を得られたのはその後日だった。
絶対に一悶着あるものだと思っていたから、トントン拍子の進展に、私は少し困惑していた。
今日の佳代子さんの私服はフルーツカラーでまとめられていて、オレンジ寄りのピンクキャミソールに、ほっそりとしたペンシルスカートの清楚なコーデだ。
私が知っている佳代子さんの私服は、もっと暗い色が多かったように思えるが、今は明るい印象を受ける。しかし、佳代子さんの口調は、服装とは裏腹に暗い。
「あ、あの。佳代子さん、今日は」
「外で挨拶しないでよ。近所の人に見られたらどうするの」
どうすると言われても、どうなるのだろう。近所の人に見られたら。
「お母さんもお父さんも、夜になったら帰ってくる。あがっていいよ」
「は、はい」
「荷物、それだけ?」
「着替えとシャンプーとかさえあれば、いいかなって思って」
「軽装だと、なんで? って思われるよ」
「どういうことですか?」
「そんな荷物で来られるほどの問題で、うちに来たのかって。それならうちじゃなくてもいいじゃないかって。荷物をたくさん持ってくれば、きっと大変な事情なんだろうなって相手も思ってくれるでしょ」
そんなところまで、考えが及ばなかった。私がいつまで立っても靴を脱いであがらないことに苛立ったのか、佳代子さんはわざとらしくため息を吐いた。
「荷物は仏壇の部屋に置いて。使うものだけ、私の部屋に持ってきて」
「え、佳代子さんの部屋に、ですか?」
「当たり前でしょ、それしか部屋がないんだから。ああそっか、元々は、あんたの部屋、か」
胸がキュッと、締め付けられる。
高校生になったら明け渡してくれると約束されていた佳代子さんの部屋は、私がこの家に転がりこんだときに私の部屋として使われるようになった。そのせいで、佳代子さんは私がいなくなるまで、ずっとお姉さんと一緒の部屋だったのだという。
佳代子さんの居場所を、私が奪ったのだ。
そのことを遠回しに言われているのだと思うと、苦しくなる。直接悪口を言われるより、こうやって気付かされる方が辛い。どうしてなんだろう。そして佳代子さんは、それが上手だ。
仏壇の部屋に荷物を置き、スマホと充電器、それと財布を佳代子さんの部屋に持っていく。
「なんで財布も持ってくるの?」
「え、だって、必要なものなので」
「盗まれるって思ってる? これからお世話になる家で」
「そ、そんなこと思ってないです……」
「思ってるから、持ってくるんでしょ。なんにも考えてないんだね」
淡々とした指摘に、私は平謝りすることしかできなかった。
これからずっと、佳代子さんと一緒の部屋で過ごすのかと思うと、気持ちが落ち込んだ。
佳代子さんの部屋は私がいた頃とは違い、たくさんのポスターや、クラシックのレコードやCD。有名曲の楽譜が並べられたカラーボックスや実用書の入った本棚と、多くの物が置かれていた。どれも佳代子さんの趣味なのだろう。
並べられたCDケースの中に、私の母のCDもあった。「あっ」と思ったが、怖くて佳代子さんには言えなかった。
どこに座ればいいかわからずに部屋の真ん中で立っていると、佳代子さんが座布団を投げつけてきた。
「突っ立ってないで、どこ座ればいいですかとか、聞けないわけ? これから一緒に過ごすんでしょ? 普通、そっちが気遣う方だと思うんだけど」
この人を前にすると、言うべき言葉が喉の奥から出てこなくなる。言葉や、血液までもがドロドロに滞った感覚に陥る。
たぶん、私は根本的にこの人が苦手なのだと思う。
私が座布団に座ると、佳代子さんは何かを吐き捨てるように言って部屋から出て行った。うまくは聞き取れなかったが、おそらく、私に対する愚痴か、何かだと思う。しっかりしてよ、みたいな風だったようにも聞こえた。
私は陽が落ちるまで、身を縮めて部屋で大人しくしていた。
ポケットに鍵が入っていることに気付いて手に取る。くりっとした目のトリケラトプスが、私をじっと見つめる。
ダメだ。やっぱり、ちゃんと言わなきゃ。
私はきっと、佳代子さんに嫌われている。
でも、何が嫌いなのか、どこが嫌いなのか。何も分からない。想像でなら、いくらでも要因は浮かぶ。だけどそれは、あくまで私の頭の中で生まれただけの、見えない敵にすぎない。
これから長い間、あの人と同じ家で、同じ部屋で過ごすのだ。
佳代子さんの部屋は、多くの物が音楽関係のもので占められている。その中にある、私の母の演奏が収録されているCDケースを手に取った。中を開けると、ディスクは入っていなかった。
ふと、勉強机の上にコンポが置かれているのが目に入って、電源を入れる。再生ボタンを押すと、聞き馴染みのある曲、ヨハネス・ブラームスの『ピアノソナタ第三番』が流れた。そしてコンポの画面には『07.喜美文子』と表示されている。
コンポに入っているということは、佳代子さんはこの曲を、最近聴いたということだろうか。
窓の外がすっかり暗くなった頃、佳代子さんが部屋に戻ってきた。
音楽を再生するコンポを一瞥して眉をしかめた佳代子さんが、私の名前を呼ぶ。
「お母さんたち、帰ってきたから。挨拶して」
「は、はい!」
これからお世話になるのだ。挨拶はちゃんとしなければならない。
まるで逃げるようにこの家を出て行ったくせに、また戻って来たのだ。それなりの誠意と感謝は、見せなければならない。
私は仏壇の部屋に行って、佳代子さんのご両親に渡す用の紙袋を探す。
「って、あれ?」
ない。
沙希さんから受け取った紙袋がない!!
アパートに忘れてきた? それなら、すぐ沙希さんから連絡が来るはず。
行きの電車に、忘れてきただろうか。その可能性がもっとも高い。
「なにしてんの、行くよ」
「あ、え、っと。すみません。ちょっと、あ、あれ。紙袋」
私は頭が真っ白になっていた。せっかく沙希さんが用意してくれたのに。これじゃ佳代子さんのご両親に渡すものがない。
「菓子折?」
「は、はい。沙希さんから、来るときに用意してもらったんですけど」
「さきさん」
佳代子さんが、沙希さんの名前を確かめるように呟く。
「なんだ、用意はしてたんだ」
「もしかしたら、電車においてきちゃったのかもしれません。ど、どうしよう……」
「てっきり、親子共々常識がないんだと思ってた。これからお世話になる家に、手土産の一つもないなんて人間としてマナーがなってなさすぎるよね。でも、そう、あんたがウスノロなだけか」
無いのは分かっているのに、カバンの中を探し続ける。探すフリをしているだけで、本当は、ただの時間稼ぎだ。こうしている間に、どうすればいいか、考えている。
頭上から、佳代子さんのため息が聞こえる。私のそういう、ズル賢い思考も全部読み取られているのだろう。心臓がバクバクする。また、厭味を言われたらどうしよう。
非が私にあるとき、佳代子さんは決まって、私が一番言われたくないことを言う。それが怖い。
「これ使って」
すると、佳代子さんが私の足元に、紙袋を一枚投げてくる。中身を見ると、そこのはフィナンシェやマドレーヌなどが入っていた。
「さっきデパートで買ってきた。どうせないんだろうって思って」
佳代子さんは「早く取れ」と言わんばかりに、紙袋を蹴った。私はその紙袋を持って、佳代子さんのご両親がいる居間へと向かう。
「あ、あの。佳代子さん……ありがとう……」
「あんたがちゃんとしないと、あんたの親も、非常識な親だって思われるんだよ」
私に背中を向けながら、佳代子さんは言う。その通りだと、私は思った。
居間に入ると、佳代子さんのご両親が、私をにこやかに迎え入れてくれた。まるで、過去のことなんかまるで無かったかのように。
私は頭を下げて、用意していた謝罪と、お礼を述べる。口が渇いて、ときどき舌を噛みそうになる。チリチリと、煤を吸ったかのような喉の痛みに耐えながら、最後まで言い切る。
「これから、お世話になります」
そしてもう一度、深く頭を下げる。
視界に、佳代子さんのつま先が映った。
ご両親の「いいよいいよ、自分の家みたいに使ってくれていいから」という声に顔をあげる。
腕を組んだ佳代子さんが、どう形容していいのか分からない細い目で、ジッと、私を見ていた。
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