第32話 それは小さな繋がりの音
「この子ったら勉強もしないでピアノばっかり弾いてるのよ。
「だってほら、白亜ちゃんなら分かるでしょ? ピアニストってそう簡単になれるわけじゃないし、ピアニストになれる人って小さい頃からいろんなコンクールで入賞してる子じゃない。佳代子は別にそういうわけでもないのに、まだピアニストになるんだって意気込んでるの」
「は、はぁ」
「けど来年は受験でしょ? 夢を追い掛けるのはいいことだけど、勉強の方も、ねぇ。やっぱり現実も見たほうがいいと思うのよ」
私はそのとき、どうしてこの叔母さんが、この家に私を快く招き入れてくれたのかが分かってしまった。
私を、利用しているのだ。
きっと将来の話のような改まってする話題は、これまで正面切って言えなかったのだろう。だから私という舞台装置を用意して、それとなく佳代子さんに言い聞かせる。
計算高いのは、親の血筋なのかもしれない。
「もう、お母さん。白亜ちゃんにそんなこと言ったってしょうがないでしょー? 勉強だって頑張るよぉ。はい、もう話は終わり! 行こ、白亜ちゃん!」
そして佳代子さんも、こうやって何度も、将来の話をはぐらかしてきたのだろう。薄気味悪いほどの可愛い声を作って、私の手を引く。
逃げるように居間から出て、佳代子さんの部屋に戻った。
さっきのこともあって、話しづらい。
ピアニストに、なりたいんですか?
なんて、聞く勇気は私にはなかった。
夕ご飯に呼ばれるまで、私たちは無言だった。私はスマホで、
そんなことを考えている間、佳代子さんはずっと机に座ってノートを広げていた。赤本が見えたので、おそらく受験に向けて勉強しているのだろう。
叔母さんは佳代子さんに勉強しなさいと促しているように見えたが、佳代子さんは普通に勉強している。言われたから、私がいるから、たまたまそうなのかもしれないけど。それならさっき「ちゃんと勉強してるよ」って言えばよかったのにと、思ってしまう。
食卓には、おでんと焼き魚が並べられていた。叔母さんと叔父さん、それから私と佳代子さんで向き合って座る。お姉さんがいたはずだけど、と聞く前に叔母さんが「あの子は東京に行ったのよ」と教えてくれた。
「東京大学なんだけどね」
「え、すごい」
素直にそう思った。叔母さんは満足そうに笑うと、おでんを私によそってくれた。
昔、この家にいたときとは全然違う温かさがある。
「受験のときはピリピリしちゃったけど、受かってよかったわよ本当に」
そういえば、あのときはお姉さんは受験期間だったのか。
たしかに、この家の空気は今と違って張り詰めていた。
だから私は、煙たがられていたのか。娘の大事な時期に、よその人間が入ってきたものだから。無碍にすることもできずに私を迎え入れたものの、やはり途中で邪魔になり、私の方から出て行くよう仕向けたのだと、予測が付く。
ただ、見えない。見えないものと戦っても無駄なだけだ。
聞かなきゃ。なんで私にあんな嫌がらせを続けたのか。どうして今は、こんなに優しくしてくれるのか。
「あ、あの――いたっ」
しかし、口を開いた瞬間、隣の佳代子さんに太ももをつねられた。佳代子さんは煮卵を箸で割りながら「私の自慢のお姉ちゃんだよ~」と誇らしげに言った。
「佳代子、あなたも、お姉ちゃんほどとは言わないけど、ちゃんとした大学に行くのよ?」
「もちろんだよお母さん。……でも私、音大も気になるんだぁ」
でも私、の前に大きな間があったように聞こえた。見ると、佳代子さんは笑っているが、私の太ももをつねった手が震えている。
「ええ? 無理に決まってるでしょう? 音大っていうのは、音楽のエリートが入るところなのよ。あなたみたいに趣味でやってる人がいくところじゃないの」
「そ、そうだよねっ! 言ってみただけ」
「それこそ白亜ちゃんは音大に行くんでしょう?」
「いえ、私は行きません。あまり、その道には興味がなくて」
「あらー! もったいない! 白亜ちゃんのピアノは叔母さんもコンクールまで聴きに行ったことがあるけど、とってもお上手だったわよねぇ! 全国大会だって出たんでしょう?」
「ま、まぁ」
「ほらぁ、佳代子。こういう子が、ピアニストになるの。白亜ちゃんですら、なるのは難しい職業なのよ。なりたくてもなれない人がたくさんいるの。そんな博打みたいな道を選ぶより、堅実に大学に入る方がいいに決まってるんだから。お姉ちゃんを見てみなさい。毎日自分の学びたいものを学んで、とっても楽しそうよ」
「私が学びたいのは、音楽だよ」
佳代子さんの言葉は、多分、叔母さんにも届いていたと思う。それでも叔母さんは、聞こえないふりをして、私に「おかわりは?」としゃもじを差し出してくる。
「いえ、大丈夫です」
その間、叔父さんはずっと無言を貫いていた。我関せずと言った様子で、ある程度食べると自分の部屋に戻っていった。
そんな叔父さんを見て、叔母さんも呆れていたが、すぐに話を戻す。
「あの人もね、昔はプロ野球選手を目指していたのだけど」
話の行く先は、その時点で分かってしまった。
この家の食卓では、こんな会話が延々と繰り返されているのだろうか。これまでも、ずっと。
ご飯を食べて部屋に戻る。お姉さんの部屋はどうなってるのだろうと佳代子さんに聞いたら、今は物置になっているのだと言う。
お姉さんの部屋は、たしかこの部屋の隣にある。昔住んでいたとき、何度かお姉さんの部屋に入ったことがあるから覚えている。
「ああ、そこに荷物、置く?」
佳代子さんはなんだか元気がないように見えた。
「仏壇の部屋、そういえばお客さんがたまにくるから」
「あ、そうなんですね。ならそうします」
仏壇の部屋から荷物を、今は物置になっているというお姉さんの部屋に運び込む。
「掘り起こさない方が良いよ」
「え?」
向かっている途中、佳代子さんに言われた。
「聞こうとしたでしょ。前、ここに住んでたときのこと。ご飯が少なかったり、洗濯してもらえなかったり。あれ」
佳代子さんの口からあのときのことが出るのが意外で、私は驚いてしまった。
「お母さんは無かったことにしようとしてるの、あれは。そういうの、空気で感じ取らないと『分からない奴』って思われて、見下されるよ」
「す、すみません」
そうだったんだ。
全然、気付けなかった。
一度したことをなかったことにして当たり前に接するなんて、私には、到底思いつかないことだった。
お姉さんの部屋は言われたとおり、完全に物置と化していた。部屋は埃っぽいし、周りは段ボールや、使わなくなった椅子や本棚が放り投げられている。
そして目を引いたのが、部屋の真ん中にある、大きなグランドピアノだった。
この家にピアノがあるのは私も知っている。昔は、よく佳代子さんが演奏していて、私の部屋にまで音が聞こえてきた。
ピアノだけには埃が被っていなかった。佳代子さんはカバーを取ると、鍵盤を蓋を上げた。
「その辺に置いておきなよ。並べておかないと、ゴミかと思われて捨てられるよ」
そういえば荷物を置きに来たんだった。当初の目的を思い出して、着替えが入っているリュックを部屋の隅に置かせてもらった。ちら、と佳代子さんを見る。佳代子さんはタオルで、鍵盤を拭いていた。
「言っておくけど、夜は弾いちゃダメだから。近所迷惑だし。お母さんが怒る」
私の視線に気付いたのか、佳代子さんが拭いた鍵盤を指でなぞりながら言う。
「昼はお客さん来るから、そのときもダメ」
「え、じゃあ、いつ弾けるんですか」
そんなこと言われたら、あとは朝くらいだ。でも、朝にも叔母さんはいるだろうし。
「弾くなってことだよ。分からないの? 遠回しに、私が弾かなくなるのを待ってるの。あんたにした手口と同じ」
「でも、佳代子さん、毎日家で練習してるって言ってましたよね。オーディションのときも。だから、あんなに弾けたんですよね」
「なにそれ、皮肉? そういうの言えるようになったんだ」
「あ、いえ。そういうんじゃ……」
「そんなの、こうするに決まってるでしょ」
そう言うと、佳代子さんは段ボールを取り出して、入り口のドアに貼りだした。ものすごい量だった。思えばすでに、壁には段ボールがびっしりと貼られている。ゴミが立てかけられているのかとばかり思っていた。
「これで多少の防音にはなる。あと、今お母さんはお風呂に入ってるから、この瞬間なら弾ける」
佳代子さんは、ボロボロの椅子に座って、演奏を始める。
五分ほど弾いていたが、どこかの部屋から、ガラガラッと戸が開く音がした。お風呂の扉の音だとすぐに分かった。
「こら! 佳代子! 何時だと思ってるの! やめなさい!」
壁がドン! と叩かれて、そこで佳代子さんの演奏は止まる。すると叔母さんは、わざとらしく足音を大きく立てて廊下を歩いて、居間の戸をピシャ! と閉める。
ああ、思い出した。この家の居心地の悪さ。
生活音が、うるさいのだ。階段を上る音、食器を洗う音、廊下を歩く音。何もかもが、配慮がなくて、まるで他人を威圧するかのように、存在を主張するかのように物音を立てる。
戸を閉める音に、何度私も身を竦めたことか。
佳代子さんはピアノの蓋を閉め、段ボールを剥ぐと部屋から出た。私も慌てて後を付ける。
戻った佳代子さんの部屋に、赤本とノートが広がっていたのが、それこそ皮肉に思えた。
「あんたはいいよね」
「え?」
「周りに恵まれてて」
佳代子さんが机に向かって、ペンを走らせる。だけど、本当に問題を解いて、答えを書いているようには見えなかった。真っ白なノートになんでもいいから、ぐちゃぐちゃに線を引いているような手の動きだ。
「いろんな人から、愛されてて」
私は、周りに恵まれている……と思う。自覚はある。
沙希さんも含めて、私はいろんな人に助けられてきた。
「ほんと、ムカつく」
佳代子さんがそう吐き捨てるも、いつもの迫力はなかった。なんだか、泣き出しそうな子供のように、か弱く感じた。
「……羨ましい」
「私なんか、運がよかっただけです」
父が沙希さんと出会ってくれて、沙希さんが、私を見つけてくれた。ただそれだけで、私が何かしたわけではない。
「だから、蹴落としてやりたかった」
パキッと、佳代子さんの握っていたシャーペンの芯が折れる音がした。
「私と同じ息苦しさを、味合わせてやりたかった」
――私と同じ。
その言葉と、先ほどの食卓での光景が重なる。
この人は、きっと毎日、優秀な姉と比べられて生きてきたのだろう。その苦しみは、私には計り知れない。だけど、これだけは言いたい。
「じ、自分がされて嫌なことは、他人にはしちゃだめなんじゃないですか」
言うには勇気が要った。だけど、もし、沙希さんがこの話を聞いていたのなら。あの人ならそう言うと思う。小学校のときいっちばん最初に習ったよ、と自慢気に胸を張る沙希さんが想像できた。
「……お風呂、入ってくる」
佳代子さんはトボトボと、部屋を出て行ってしまった。
――そっか、家にピアノがないんだもんね。イメトレくらいしか練習ができないんだ。
――母子家庭ってお金に余裕がないんだ、大変だね。
いつかの佳代子さんの言葉を思い出して、恥ずかしさのような、妙な感覚を覚える。それはきっと、共感に近いのだと思う。私も同じように、そうやって虚勢を張り、自分の心を守っていた時期があったから。
どうせこの恋は叶わないから、恋なんかじゃないと決めつけて、好きという気持ちはあくまで家族に抱くもの。そうでなくてはならない。そう思えるように、努力しなければならない。
そう思い込むことで、心に膜を張っていた。
無防備な心を野放しにしていたら、ちょっと触れられただけで激痛が走って泣いてしまいそうになるから。
佳代子さんも同じだったのかもしれない。
この家で、ずっと息苦しい思いをしてきた。
だけど、それを表に出したらその辛い思いと苦しい気持ちが剥き出しになってしまう。
だから虚勢を張ることで、守っていたのだ。
自分だって、同じくらい息苦しかったくせに。
そのやり方は、正しいとは言えない。
自分の都合で他人を傷つける、間違った手段だ。
でも、だからって、心の底から恨むことはできなかった。
ピアノを奪われてでも、弾き続ける。
貪欲で、泥臭い、そんな姿勢は、私にはないもので。
「……羨ましい」
私が一番欲しいものだったから。
もし、倉石さんの言う通り、続けられる胆力こそが才能だと言うのなら。
――ピアニストになれる人って小さい頃からいろんなコンクールで入賞してる子じゃない。佳代子は別にそういうわけでもないのに、まだピアニストになるんだって意気込んでるの。
私たちは、分かり合える気がする。
……そんな気がした。
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