第5楽章
第33話 紗にもならないわたしの過去
新幹線から降りると、懐かしい地元の香りがしてふと昔のことを思い出した。
駅のホームにはコンビニがあって、仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生が各々買い物をする。この辺りでは唯一新幹線が通っている駅なので、時間を潰すための雑誌や漫画がたくさん揃っているのが特徴で、わたしもよく買って帰っていた。とはいっても、わたしは活字が読めないので、もっぱらファッション雑誌だった。
お母さんは小説を読みなさいと言うけれど、わたしは言うことを聞かなかった。
そんな馴染みのコンビニで、先輩が万引きをしているところを目撃したことがある。
あのとき、わたしは注意するどころか、興味があって近づいた。先輩はわたしを見ると驚いていたけど、事情を話すと、駅の裏で待つ仲間のところに連れて行ってくれた。
先輩たちはみんな髪色が奇抜で、身体の至る所にピアスを開けていた。耳には開けたことがあるけど、舌や首は、怖いなぁって思っていたら、先輩の仲間がピアッサーを持って近づいてきた。
皮膚の柔らかいところを狙って開けていく様は、まるで梅雨に繁殖するダニみたいだと思った。真っ赤に腫れたお腹、それから唇に銀色の輪っかをくぐらせる。
消毒してあるのとか、いろいろ気になることはあったけど、鏡に映った自分を見たら、なんだかどうでもよくなってきた。
それからは、その先輩たちとよくつるむようになった。深夜にゲームセンターに集まって、吐きそうになるようなアルコールの香りと、むせかえるような煙に包まれながら、朝まで遊んだ。
警察が懐中電灯を持って追い掛けてくるときが、一番盛り上がる。未成年のわたしたちが、体中に穴を開け、銀色の輪っかを通したわたしたちが、きちんとした大人に喧嘩を売る。そのスリルがなによりも楽しかった。
先輩が三万円もする香水を使ってて、どこで買ったんですかと聞いたら「買ってないよ」と言われた。その先輩はわたしをデパートに連れて行った。「ここならいくらでも手に入るよ」と、やり方を教えてくれた。
先輩が店員さんに声をかけて、店の入り口まで誘導する。その間にわたしがカウンターの中に入って、ショーケースから飾られた香水を取って外まで走る。
手はず通りにカウンターまで入ったところで、わたしはその光輝く、宝石みたいな香水を見て手を止めてしまった。
きっとこの香水は、誰かの心を豊かにしたくて、香りを振りかけることでキラキラした一日を送ってほしいと心から願った人が、作ったのだと気付いた。
この香水は、何か、大切な日のために、お金を握りしめて買うものなんだ。
そう思ったら、手が伸びず、わたしは何も持たずに店の外に逃げてしまった。
一週間後、その先輩が、わたしが取れなかった香水を持ってきてくれた。先輩はわたしのために、とってきてくれたのだと言う。
ダメだよ、と言えればよかった。だけどわたしは、罪悪感より嬉しさと、こんな高価な香水を付けられる! という充足感に満ちていた。
あのとき、わたしは確かに幸せだった。
だけど、その先輩たちと縁を切ろうと思ったのはその数日後だった。
隣の街で、ひったくり事件が多発していた。狙われるのは特に高齢の方で、被害はまたたくまに広がり、わたしの学校まで通達が来た。
先輩たちは、ある日突然、大金を手に入れたみたいにブランド物のバッグを身につけるようになった。そのときのわたしは、きっとまたどこかのデパートから取ってきたんだろうと、遠目で眺めていた。
ちょうどバトミントン部の地区大会が近づいていたので、わたしはその日は部活に出ていた。終わったのは夕方ごろだった。夕暮れのなか、わたしは一人で歩いていた。
すると、後ろから「
カバンは先輩の趣味にしては色合いがお年寄りっぽく、中を見ると通帳と札束が入っていた。
多発しているひったくり事件は先輩たちの仕業なのだとすぐに分かった。
どうすればいいか分からず、その場で呆然としていると、先輩たちが来た方角に人だかりができているのが見えた。
走って行くと、おばあちゃんが一人、足を押さえて蹲っているのが見えた。立ち上がれないほどらしく、通り過ぎた人たちも「大丈夫ですか?」と声をかけている。
心配になり、わたしも声をかける。すると、おばあちゃんはわたしの持っているカバンに気付き、目を丸くした。そして、その場で泣き始めた。
おばあちゃんは何度も「ありがとう」と繰り返し、わたしに抱きついた。おばあちゃんは、わたしがこのカバンを、ひったくりから取り返してきたのだと勘違いしたのだろう。
わたしはカバンを返し、救急車を呼んだ。おばあちゃんは携帯を持っていないとのことだったので、家族との連絡が取れるまで、わたしが病院まで同行することとなった。
救急車の中でも、おばあちゃんは何度もわたしを呼んで感謝した。
違うんです。これは、わたしの知り合いの仕業なんです。
そう言うべきだった。
だけど、わたしは怖くて言えなかった。
いえ、大丈夫ですよ。と、どの顔で笑うんだと言うような作り笑いで、おばあちゃんのしわしわの手を握った。
これから病院に行くんだと思うと、部活終わりの汗が急に気になり出した。
わたしは救急車のはじっこで、カバンからあの香水を取り出して、自分に吹きかけた。おばあちゃんがそんなわたしの様子を見ていて「あら、素敵な香水ね」と笑った。
その瞬間、なんだか虚しくて涙が出てきた。
この香水を作った人は、こんな悪人に香りを付けるために作ったんじゃないのに。
おばあちゃんは結局、軽い打撲だったようだった。カバンをひったくられたとき、無理に追い掛けたせいで転んでしまったのだそう。あのカバンには今月の生活費と入院している旦那さんの治療費が入っていたのだと、おばあちゃんはまた、わたしに泣いて感謝した。
ああ、もうやめようと思ったのは、それがきっかけだった。
しかし、先輩たちは、離れようとしているわたしの空気を察したのだろう。逃げないか、告げ口しないか執拗に監視するようになった。やたら高級なコスメや服など、物を贈られたがわたしは断った。
それでも、逃げることはできず、塞がりかけていたピアスの穴を、また開けられる。おそろいの、銀の輪っか。これがわたしの身体に付いている間は、決して逃げられないんだ。わたしはようやく、もうどうしようもないところまで来ていることに気付いた。
怖くて逃げたい。でも、逃げたらもっと怖いことになる。
板挟みになったわたしは、その恐怖をかき消すために家にあった風邪薬を一気に飲み込んだ。都合良く意識を失うことはなく、ただただ苦しいだけだった。血が足りなくなるような感覚。胸が冷たくなり、吐き気がして、何度もトイレで戻した。吐瀉物で汚れる自分の顔は本当にひどくて、ああ、わたしはちゃんと不幸なんだと思うことができた。
トイレで倒れているところをお父さんに見つかって、わたしは救急車で運ばれた。あの日いた救急隊員の人がいたらどうしようと思ったけど、幸運にも見知った顔はなかった。
わたしは入院することになった。病院の先生、看護師さん、お父さん、お母さん、病院の先生と、代わる代わるわたしの元に来る中、退院間近になった昼頃、
わたしの担任であった貴文さんは、わたしを見ると心底ホッとしたようで、その場に崩れ落ちた。
今回の件で、バトミントンの大会には出られなくなったと報告を受けた。せっかく県大会に進んだのにと貴文さんは残念がっていたが、わたしはどうして担任がわざわざ見舞いになんてくるんだろうと、不思議だった。
先生っていうのは、あくまで仕事で、わたしたちに優しく、厳しくするのは学校の中でだけだと思っていた。だけど、そんな曖昧で、ちょっと遠い存在だからなのかもしれない。
わたしはお母さんとお父さんにも言えなかった悩みを、貴文さんに打ち明けた。
貴文さんは驚きはしたものの、わたしの話には口を狭まず、静かに相槌を打って、何度も頷きながら真剣に聞いてくれた。
先輩たちのしていること。その中に、わたしもいたこと。やめなよって言えなかったこと。そして、あの集団から、もう逃げられないかもしれないということ。
話していたら、怖くなって、泣いてしまった。
泣きじゃくるわたしの頭を、貴文さんは何度も撫でてくれた。
後日、わたしは貴文さんに連れられて、あのデパートに来ていた。
知り合いが香水を万引きしたこと、それを知っていながら、その香水を使ったこと。全部を店員さんに伝えた。そのときの店員さんは何の事かわかっていないようで、オーナーを呼びに行った。やってきたオーナーはわたしの持っている香水を見てすぐに察したような素振りを見せた。
怒られるかも、このまま逮捕されちゃうかも。怖かったけど、貴文さんがそばで「大丈夫、思ってることを全部伝えて」と言ってくれた。
わたしはさっき店員さんに言ったことを、もう一度伝えた。
このお店は本当に素敵な場所で、いろんなところがキラキラ光っている。いるだけで、幸せな気分になる。このお店で働く人、商品を作る人、それから、買う人。いろいろなことを考えだしたら、涙が止まらなかった。
こんな素敵な香水を、万引きしたものだとわかっていながら、使ってしまいました。本当にごめんなさい。わたしは泣きじゃくりながら、何度も謝った。
ぐずぐずになって、話すこともままならなくなって、どうしようって思っていたら、貴文さんがわたしの前に出て、店員さんと話を始めた。
事務所で待つようにと言われ、わたしは店員さんに連れられスタッフ用の出口に向かった。引率する店員さんは気まずそうにしていた。
それから二十分ほど経つと、貴文さんがやってきた。手には湯気が立ち上るお茶があった。
もうオーナーとは話を付けたらしい。貴文さんは香水を手に持って、わたしに「これ、どうする?」と聞いてきた。
もしかしたら、貴文さんが、お金を払ってくれたのかもしれないとわたしは思った。だからこの香水はもうわたしの物。そういう意味なのだろう。
わたしは首を横に振った。
それからデパートを出て、貴文さんと一緒に近くのゴミステーションに行って、香水をゴミ袋に入れて捨てた。三万円もする、香水だ。
「あとは先生がなんとかするから」
貴文さんのその言葉で、わたしは救われた気がした。
そのときだったと思う。わたしが貴文さんを好きになったのは。
高校を卒業して、先生と付き合うことになるまではあっという間だったように思える。
結局、先生のおかげでわたしはあの先輩たちとつるむことはなくなった。あの人たちがどうなったかは知らないけど、時々すれ違えば挨拶する、それくらいの関係のまま、フェードアウトすることができたのはよかった。
正式にお付き合いをして二年。先生と同棲することが決まって、初めて、先生の住んでいるアパートにお邪魔した。
「こんにちわ、
前の奧さんとの子供がいると話には聞いていたから、驚きはしなかった。
だけど、いざ目にすると、強烈な不安が胸中を襲う。
貴文さんと生きていくということは、これから、わたしがこの子を育てなければならないということだ。まだ高校も出ていない、小さな、この命を、わたしは大切にしなければならない。
本当に、できるのだろうか。
あんな過去があったわたしだ。
悪いことを悪いと知っていながら、なんの注意もできなかった私。あげくのはてに、その罪で出来た香りを、身体に吹きかけ幸せに浸っていた。
そんな、まがいものの幸せを疑いもせずに受け入れていた私が。
――誰かを幸せになんて、できるのだろうか。
そんな、まだ昔とは言えない、ちょっと前のことを思い出す。
先輩が万引きしていたコンビニは、もう潰れてしまっていた。代わりに、オシャレなカフェが出来ていた。
お父さんがコーヒー好きだったことを思い出して、アイスコーヒーを買って、駅を出る。
懐かしい地元の空気を肺いっぱいに吸い込んで、わたしはこれから、お父さんに会いに行く。
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