第34話 多問自答


 お父さんの大事にしていた畑は、前に見たときより小さくなっていた。キャベツや大根があった場所にはブルーシートがかけられていて、今はミニトマトがちょこんと生えているだけだった。もうすでに収穫できる頃合いだろう。一つ摘まんで、口に運ぶ。


 懐かしい酸味が、往生際の悪いわたしの背中を押してくれた。


 よし、行こうと、自分の家の玄関を他人行儀に開ける。


 お父さんは、リビングの大きなチェアに腰掛けて新聞を読んでいた。あらかじめ連絡はしておいたので、あちらも驚きはしなかった。


「いつ着いたんだ」


 お父さんはまだこちらを見ていない。それなのに、なんでわたしが来たって分かるんだろう。不思議だったけど、わたしはカバンを襖の前に置いて「さっき。コーヒー買ってきたよ」と袋からアイスコーヒーを取り出した。


 そこで初めて、お父さんがわたしを見た。大きな縁の眼鏡で見えにくいけど、目の下には大きなくまができていた。しかし、それ以外はとくに変わりはない。強いて言えば、ちょっと痩せたくらいだろうか。


 寝たきりになって、弱々しい姿になっているとばかり思っていたから、身体の緊張がそこでフッと取れた。


 お母さんは今、趣味のヨガ教室に行っているらしい。時計を見ると、まだ夜ご飯には早い時間だった。


「お父さん」

「なんだ」

「わたしの部屋って、そのまま?」

「ああ」


 本当は聞きたいことがたくさんあった。


 ねぇ、なんの病気なの? いつからなの? もっと早く見つけられなかったの? 怖い? 悲しい? 辛くないの?


 でも、それを聞いてしまったらわたしも、そしてお父さんも、全部が終わりな気がして聞けなかった。


 わたしは自分の部屋に行き、内装を見渡した。この家を飛び出た頃と変わらない様子に、ため息が出る。別に、物置代わりにでもしてくれていいのに。


 卒業アルバムや、昔の写真などが押し入れの中からたくさん出てきた。なんとなく昔の自分が気になって数ページめくってみる。クラス名簿の欄に、今が楽しくて仕方がないというような、満面の笑みのわたしが映っている。我ながら、ちゃんと笑えている。


 このときは、いろいろあった。


 あの先輩たちから離れたわたしは、香水の代金を支払ってくれた貴文さんにお金を返したくて、バイトを探した。効率がよく稼げるバイトは基本的に時間帯が夜だった。


 わたしは先輩がバイクを買うとき、身分証を偽って使っていたのを思い出した。他校の卒業生が少年院に入ったとか、消息不明になったとかいう人の身分証を有料で売っていて、先輩たちはその人から偽の身分証を買っていたのだ。わたしも一枚、職質されたとき用にと顔写真が似ている身分証を譲り受けていた。


 それを使って、夜の仕事に就いてみた。


 仕事の内容自体はそこまで可もなく不可もなくといった感じで、お客さんの態度などによってそれは左右された。ただ、それは特に接客業なんかだとありがちなことだと思うので、こんなものだろうなと割り切ってはいた。


 わたしの身分がバレたのは、そのお店に入っていくところを、お父さんに見られたからだった。お父さんは夜に出かけるわたしを不審に思い、後を付けたのだと言う。お父さんはその場でわたしの腕を掴み「この恥さらしめ!」と怒鳴った。


 それは同じ場所で働く他の人にも失礼だと思ったわたしは、言い返した。「放っておいて!」と怒鳴り返すも、お父さんは力尽くでわたしを店から連れ出して車に乗せた。


 車の中でも、お父さんは「なんて奴だ、信じられん!」と顔を赤くしながら怒っていた。


 だけど、わたしは納得がいかなかった。


 以前のわたしは、たしかに悪いことをしていたかもしれない。だけど、今回は何も悪いことなんかしていないじゃないか。


 わたしは、貴文さんにお金を返したくて、働く場所を探しただけなのに。たくさんお金を稼げば、他の、あの先輩たちが万引きしたお店に、お金を返して回れると思ってあそこを選んだのに。


「いいか、あんなところで働くやつはな、社会の落ちこぼれなんだよ!」


 そこで、わたしの我慢も限界だった。


「人の前で怒鳴れるお父さんの方が落ちこぼれだよ! 失礼かもって少しでも考えたら!? いっつもいっつも、自分が正しいみたいな顔して!」


 そこからは、正論かどうかなんて関係ない。相手が一番傷つく言葉を選んでやろうというだけの、醜い罵倒のしあいだった。


 お父さんは車を路地に停めてまで、わたしに言い返してきた。


「お前みたいなやつはもう、うちの娘じゃない! 出て行け!」


 出て行く当てなんかないのに。それはきっと、わたしも、お父さんも分かっていた。


「ああそう! こっちだって願い下げ! お前だってわたしのお父さんなんかじゃねーよ!」


 思い切りドアを閉めて、車のドアを蹴って、窓だって割ってやろうかと思ったけど、それは踏みとどまった。わたしは知らない道をズカズカ進んでいく。少しして振り返ると、お父さんの車はまだ停まっていた。早く消えろよ、と心の中で思って、わたしはその場から走って逃げて、こずえの家に転がり込んだ。


 わたしは別に、お父さんのことが嫌いなわけじゃない。


 自分の両親だし、できれば好きでいたいし、嫌いになんかなりたくない。


 だけど、あのとき、あの一瞬だけは、お父さんのことが本当に嫌いだった。


「畑にトマトがあるんだ。いるか?」


 一階に降りると、お父さんがわたしを待っていたかのようにタイミングよくチェアから立ち上がった。手元には、空になったコーヒーカップが置かれていた。


 お父さんは、畑仕事をするときにいつも被っていた麦わら帽子を被った。わたしは野菜を入れる用の紫色のカゴを肩にかけてお父さんに付いていく。


 お父さんはもしかしたら、わたしとトマトを穫るために、とっておいたのかもしれないと思った。手でもぎ取られていくちっちゃいトマトを見ながら、わたしにもこんな小さい頃があったんだと感傷に浸る。それと同時、このお父さんにも、小さい頃があったんだと思うと、なんだか悲しくて泣きそうだった。


 それからは夕方まで、お互いにリビングで、相撲や落語の番組を観ながら時間を潰した。


 ビックリするくらい、ゆったりとした時間で、自分が来た目的を忘れそうになる。


 夜は帰ってきたお母さんとお寿司を食べに行った。お父さんも歩いて同行したけど、食べる量が明らかに少なかった。三皿だけ食べて、あとはずっと箸を進めるわたしの様子を見つめるお父さんが、とても弱々しく見えた。


 夜もたいしたことはせずに、お風呂に入って、十時には床に就いた。自分の部屋で寝るのは五年ぶりだ。


 高校を卒業して、すぐに地元を離れたわたしは、この家に未練はなかった。


 貴文たかふみさんは元々、臨時でこっちの学校に来ていただけで、一年も経たないうちにわたしの学校からいなくなってしまった。やたら早く戻りたがっていた様子を思い出す。あれは白亜はくあちゃんを放っておきたくなかったんだと、今ならようやく理解できる。


 貴文さんは白亜ちゃんを本当に大切にしていて、いつも電話をかけて安否を確認していた。


 父親が娘を大切に思うというのは、貴文さんだから、なのか。それとも、誰だってそうなのか、わからない。


 お父さんはわたしを、娘だとは思わないと言った。お父さんは、こんな親不孝な娘を育てて、どう思っているのだろう。後悔しているだろうか。


 それから三日後、お父さんと裏山でゼンマイを穫りに行くことになった。山用のトラックを用意して、お父さんの隣に乗った。


「ねぇ、お父さん」

「なんだ」

「貴文さんとのこと、まだ怒ってる?」

「どうしてそう思う」

「ずっと、反対してたから」


 お父さんは無言で山を進んだ。


 道路が途切れているところでトラックを停め、わたしたちはそこで降りる。


「苛立ったんだ」

「え、何に?」

「お前、悪い奴らとつるんでいたんだってな」


 わたしはあの先輩たちと遊んでいたことを、お父さんには話していなかった。だから言われて、驚く。


「どうして知ってるの?」

「あの男に聞いたんだ」


 お父さんは貴文さんのことを「あの男」と呼ぶ。


「どうして私に相談しなかったんだ」


 お父さんはわたしに背を向け、ゼンマイが生えている茂みに向かって歩き出した。その背中が、なんだかそっぽを向いている子供みたいに見えた。


「だって、悲しませたくなかった」

「悪いと思いながら悪いことをするな」


 もしあのとき、貴文さんではなくお父さんに相談していたら、どうなっていただろう。お父さんのことだ、わざわざわたしたちが集まっているところまで来て「うちの娘をお前らみたいな不良と一緒にするな!」とか言い出しそうだ。そんなことを言ったら先輩たちや、その彼氏たちが黙っておくわけがない。ひどい目に合わされる可能性だってある。


 何度考えても、やっぱり、お父さんには言えなかった気がする。


 ゼンマイをカゴいっぱいに採り終わると、今度は柿の木がある場所までトラックを走らせた。


 柿の木には猿がたくさんよじ登っていて、お父さんが一喝すると、猿たちは驚いて森へ消えていった。


「じゃあお父さん、一個、相談してもいい?」


 お父さんに改まって話を聞いてもらうなんてことは、これが初めてだった。だから、やり方が分からなくて、脈絡もなく言ってしまう。


 お父さんは足を止めた。あの日、わざわざ車を停めてわたしを罵倒したときのように。


「言ってみろ」


 その真っ直ぐな眼差しは、あの頃よりも鋭さが衰えている。


 わたしは猿の消えていった森の中を見ながら、言う。


「白亜ちゃんに、告白された」


 悪いと思いながら悪いことをするな。


 そんなお父さんの言葉に、該当するものはわたしの中にもう一つある。


「家族としてじゃなくて、普通の、恋……みたいな意味で」


 親にこんな話、しかも恋の相談をするのは、自分で思っていたよりもすごく恥ずかしかった。


 驚くだろうなと思っていたが、お父さんは顔色を変えずに、眼鏡の縁を指であげた。


「そうか」

「うん。それが、悪いことだなって、わたしは思ってて、でも、悪いと思いながら、続けてる……」

「悪い? どういうところがだ」

「恋が永遠じゃなかったとして、もしその恋が終わったら、失敗しちゃったら、わたしと白亜ちゃんは離ればなれにならなきゃいけない。でも、家族でもあるから離れられない。普通の恋愛みたいに、別れようとか、そういうのができないから」


 だから、悪いことだと、お父さんに説明する。


「お父さんだったら、どうする? たとえば、わたしが……お父さんのこと、そういう目で見てるって言ったら」

「やめてくれ」


 声色に拒絶が混じっていて、わたしはそれ以上何も言えなくなってしまった。


 それ以降は、互いに会話はなく、柿を穫ってすぐに家に帰った。


 やっぱり、おかしいことなのかな。


 わたしと白亜ちゃんが置かれている状況って、普通の人からしたら変なことなのかな。


 胸がギュッとなった。


 もしかしたらわたしは、許してほしかったのかもしれない。


 別に、世間からどう見られたってわたしは構わない。


 だけど、お父さんだけには、言って欲しかった。


 まぁいいんじゃないか、って。


 その後、お父さんに呼ばれたのは、晩ご飯を食べたあとだった。


 お父さんの部屋にはほとんど入ったことがなく、小さい頃、七五三の写真を撮るときに入ったのが最後だった気がする。


 ドアをノックすると、お父さんの「入っていいぞ」という声が聞こえて、そのドアを開ける。


 中はまるで図書館の一部を切り取ってきたかのような様相で、埃っぽい香りにお父さんの体臭が混ざって、どこか落ち着く。


 お父さんはソファに座って、向かいの椅子に座るよう促した。


 わたしが椅子に腰掛けるのを見て、お父さんは少しだけ楽しそうに口元を綻ばせた。


「一つ、クイズをしようか」

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