第35話 抱きしめて、離さないから
テーブルには、春に展示会で買ったと言っていた苔玉が置いてあった。お父さんにしてはかわいい趣味だなと思いながら、眼鏡の奥の瞳を覗き込む。
「私は、本当に
「なにそれ?」
「だからクイズだ。答えてみろ」
お父さんは真剣な表情でわたしの答えを待っている。
「父親でしょ」
「なら、どう証明する?」
「変な質問。なら、お母さんにでも聞くよ」
「お母さんは私の味方をするぞ。つまり、私情ありでの答えしか返ってこない。それは証明にはならないだろ。実はな、お父さんとお母さんは兄妹なんだ」
「は?」
「互いを愛し合った結果、夫婦のフリをして生きていこうと決めたんだ。だから名字も同じだし、互いをよく知ってる」
わたしが呆気にとられていると、お父さんが眉を八の字に曲げて、肩を竦めた。その仕草で、今のが冗談だったのだと気付く。
「世の中な、いろんな関係というものがある。私が今言ったのだって、ないとは限らないだろ? 隣の関谷さん夫婦だって、実は兄妹かもしれない。だが、証明する方法なんかない。二人が昼間から家の中で手を繋いでいたって夫婦なのだから誰も疑問は抱かない」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「
お父さんの口から白亜ちゃんの名前が出たのは初めてだった。お父さんも、言いにくそうに語尾を上げる。
「どうせ証明などできないのだから」
「お父さんの言いたいことがよくわからないんだけど」
すでに目的地には着いているのに、その周りをぐるぐる回っているような感覚になる。お父さんは太ももに拳を置いた姿勢のまま、わたしの名前を呼ぶ。
「二つの顔を持っていたっていいということだ」
「二つの顔?」
「さっきの例だと、兄妹は兄妹として過ごすときもあれば、夫婦として過ごすときもあるということだ。それはたとえば、外では兄妹、家にいるときは夫婦として、なんて区別でやっているのかもしれない」
「隠したくて、そうやってるわけだからね。じゃあ、わたしと白亜ちゃんも、時と場合で区別しろってこと?」
お父さんが頷いた。
「傷ついて進む道こそ正しいなんて思想は、日本人が腰に刀を携えていた時代だけだ。いいか、沙希。終わるときのことなんか考えるな」
最後の一言だけ、妙に力が入っていた。それは、自分自身にも刺さるからだろうか。お父さんは気にしていないように見せているけど、それが逆に不自然に映る。
「でもお父さん、わたし……白亜ちゃんともし、恋人同士になれたとしても、十年、二十年。その先もずっと同じ関係でいられるとは思えない。思いたいけど、人生って、いろいろあるから。もし、お互いが、お互いを嫌いになっちゃったら、もうそういう目で見られなくなっちゃったら、どうすればいい?」
「ありふれた悩みだ。そんなの、誰もが考える。お父さんだって、お母さんに告白したときはそりゃ不安だった。ぬか喜びだったらどうしようとか、一ヶ月しか持たなかったらどうしようとか」
「え、お父さんから告白したの?」
厳格な顔つきが、柔らかくなる。お父さんは恥ずかしそうに頬をかいて、頷いた。
意外だった。どちらかというと寡黙な人だから、気の強いお母さんの方から告白したのだとばかり思っていたのに、
「だが、プロポーズしたのは私だ。そのときにはすでに、不安なんかなかった。ずっと一緒にいる、そんな未来しか見えなかったからな。沙希の不安は当然のものだ。誰もがそれを乗り越えて、ここまで来る。いいか、何もわざわざ、自分を悲劇のヒロインなんかにしたてあげなくていいんだ」
お父さんは饒舌に語る。その語り口は、この部屋いっぱいに敷き詰められた本の中にある一節のようだった。
「恋なんていうのは、成功するか失敗するかしかない。家族だから失敗した? 同性だから叶わなかった? 不幸ぶるんじゃない。失敗も含めて恋なんだ。沙希、たとえお前と白亜ちゃんが上手くいかなかったとしても、それは恋のせいだ。それ以下でも、それ以上でもない」
わたしは聞き入ることしかできなかった。どんな言葉を挟んだとしても、軽薄なそれはお父さんの力強い意思によって簡単にもみ消されてしまうだろう。
お父さんはこれを言いに、わたしを呼んだのかもしれない。
「じゃあ、応援してくれる? 白亜ちゃんとわたしがもし付き合い始めても、変だって思わない?」
「ああ、当然だ」
わたしが
貴文さんと同棲を始めたのは、そんなお父さんへの当てつけだったのだ。
「私も考えるところがあってな。あの男との件も、悪かった。私も未熟だったんだ」
お父さんが顔を伏せる。わたしは一生懸命顔を横に振ったけど、見えていなかったかもしれない。
「それから、あのときも、すまなかった」
淡い照明が、お父さんの顔に影を落とす。目の下にできた影が、まるで黒い涙のように下に向かって垂れている。
「いかがわしい店で働いていたときのことだ。恥さらしなんて言ってすまん。沙希はあのとき、他の従業員に失礼だと言ったな。母さんにも相談したんだが、沙希の言ったことをそのまま伝えたら、母さん笑ってたよ。沙希らしいって」
「わたし、らしい?」
「自分が蔑まれている状況でも、周りの人に気を使える、優しい人間なんだと、母さんは言っていた。私も、そう思う」
わたしだって、お父さんにひどいことをたくさん言った。だからそのことを謝らなきゃいけないのに、お父さんの言葉が、ゆっくりと心に染みていって、言葉が紡げなかった。
嬉しいのに、悲しい。不思議な切なさに、震える唇で息をした。
「だから今度こそ言うよ、沙希。お前の思うように生きなさい。お前は、ちゃんと正しいものを好きになれる人間だ」
「……うん」
頬に走るそわそわとした感触が、熱なのか、水滴によるものなのかが分からない。
「沙希、きちんと本は読んでいるか?」
「……漫画なら」
「それもいいが、たまには活字も読みなさい」
「文字がいっぱい並んでるの、苦手なんだもん」
一瞬、学生の頃に戻った感覚に陥った。昔も、一度こんな会話をしたことがある。私は無意識のうちに、子供っぽい言い方をしてしまっていた。
お父さんも同じことを思ったのか、どこか懐かしいものを見る、優しい目をした。
「これを沙希にあげるから読みなさい。偉人たちの名言が多数収録されている本だ。これなら、活字が苦手でも読めるだろう」
受け取った本は、薄い辞典のようなものだった。ぱらぱらとめくると、太い文字でその名言が書かれていて、あとはその偉人の名前と出生などが書かれているだけのシンプルな内容だった。
「私が一番好きなのはこの『私は本当に幸福です。つまり私は音楽のことだけを考えているのです。私は音楽に恋しているのです。』だな」
「音楽? お父さん、音楽好きだっけ」
「そうじゃない。この名言の最も美しい箇所は、自分の人生において、これさえしておけば幸せだと言い切れるほどのものがあったということだ。つまり沙希、この名言の音楽という箇所に、自分の好きなものを入れてみればいいんだ。それでしっくりくれば、それが沙希にとっての、幸せになるというわけだ」
わたしの好きなもの。
今、一番好きなもの。
それって、なんだろう。
一番なんて、決められない。好きなものが、多すぎて。
お父さんのことも大好きだし、お母さんのことも、
それに、白亜ちゃんだって、大好きだ。
――私は本当に幸福です。つまり私は白亜ちゃんのことだけを考えているのです。私は白亜ちゃんに恋しているのです。
何の意味もなく持ち続けていた鍵が、ようやくピッタリとハマる鍵穴を見つけた。そんなような気持ちになった。
ずっと心の奥でひっかかっていた。こういう真っ直ぐで、人に言うには恥ずかしい、だけど確かな力を持った、純粋な言葉。長い間幽閉されていた言葉が、熱風のように広がっていく。
ぶわっと、毛が逆立つようだった。
「だけどお父さん、わたし……自分だけが幸福じゃ嫌だよ。白亜ちゃんのことも、ちゃんと幸福にしてあげたい」
できることなら、白亜ちゃんにはずっと笑顔でいてもらいたい。わたしの記憶に住んでいる白亜ちゃんは、いつも暗い顔をしている。何か思い詰めたような、追い込まれているような、そんな表情。
白亜ちゃんは同年代の子と比べても、精神的に大人な部分がある。常に他人の立場で物事を考えていて、自分の言いたいことよりも、他人が望んでいることを率先して言うような子だ。
そんな優しい白亜ちゃんだけど、あの子は、すでに実の親を二回も失っているのだ。
わたしなんて、たった一人、今から、失いそうになっているだけで、こんなにも苦しいのに。
白亜ちゃんは一度も弱音を吐かなかった。こんなわたしとの暮らしでも不満なんか一度も漏らさなかったし、それに……泣かなかった。
両親がいないなんて、絶対に寂しいはずなのに、白亜ちゃんは夜な夜な泣くこともしなかった。それが、心配なのだ。
きっと白亜ちゃんは、我慢している。もっと思い切り泣いてもいいくらいなのに。自分の過酷な人生を嘆いてもいいのに。
わたしが不甲斐ないせいで、白亜ちゃんはわたしの前で泣こうとしない。わたしを心配させるからって、気を遣っている。
「幸せにしてあげたい。でも、できるかな。わたしなんかが……って。不安で、不安で、たまらないの」
普通には生きてこなかったわたしだ。道を踏み外しながら、鬱蒼としげる草木をかきわけながら進んできたわたしだ。たくさんの人に迷惑をかけて、悲しませてきた、罪な人間だ。
そんなわたしが、白亜ちゃんを、他人を幸せにできるなんて……思えない。
「できるに決まっている」
「え?」
「いや、できている。だから、心配するな」
お父さんは黒縁の眼鏡を指で押さえて、テーブルの隅をジッと見たまま言った。
「少なくとも私は、お前の父親でいられて、幸せだった」
そこで耐えていたものが決壊した。
ボロボロと、大粒の涙が落ちてくる。
顎を伝って床に落ちていく涙が、音さえ立てているように感じた。
「私からの用事は以上だ。行きなさい」
お父さんがわたしから視線を外したまま、手で払う。お父さんは、泣いているところを見られたくないんだ。すぐに分かった。お父さんも、泣いている。
お父さんを立ててあげたかった。最後まで、最期のときまで、厳格で、威厳のある父親として振る舞わせてあげたかった。
でも、一度でいいから、目に焼き付けたかった。
この人は、わたしのお父さんは、どんな風に泣くんだろうと。
「わたしも、幸せだよ。お父さんの娘でよかった。ありがとう」
舌が、身体の奥に引っ張られているような感覚だった。
お父さんが眼鏡を取って、目元を袖で拭く。ハンカチとか、使えばいいのに。昔の、男の人だなぁ。がさつで、大げさで、だけど、心を揺さぶる。わたしのお父さんは、とっても素敵な人なんだと、確認ができてよかった。
お父さんからもらった本を胸に抱いて、部屋を出る。
この人から受け取った言葉も、思い出も、全部抱きしめて、大切にしよう。
それから約一ヶ月で、お父さんは静かに息を引き取った。
医師に宣言された日数でキッチリ逝くのは、お父さんらしいと集まった親戚もみな、悔やむように、だけど誇らしげに言っていた。
通夜を終え、葬式を終え、すべての片付けが付いたのはお父さんが亡くなった五日後だった。分からないことだらけのわたしの手伝いをしてくれた親戚や葬儀屋さんにお礼を言って回って、見送りをして、ようやく家に帰ってくる。
忙しさから解放されたわたしは、やっと白亜ちゃんに連絡を取ることができた。
お父さんのことを話すと、白亜ちゃんはただ一言「話せましたか?」とだけ聞いてきた。大切な人を失ったときに欲しいのは、悼む言葉でも、偲ぶ言葉でもなく、いつも通りの日常なのだと、白亜ちゃんは知っていたのかもしれない。
「うん」とわたしが答えると白亜ちゃんは「よかった」と心底安堵した。その吐息に、震える声が混じっていたのは聞き間違いではないだろう。
「明日には帰るね」
「いいんですか? 私のことは気にしなくても――」
「うん。いいの。帰るよ」
翌日、わたしは早起きして荷造りを始めた。お昼の新幹線には間に合わせたい。
お母さんが「もう帰るの?」とエプロン姿でキッチンから出てくる。お母さんもすでに、いつもの日常を取り戻し始めていた頃だった。
「いっぱい、話せたから」
「そう」
お母さんはどこか困ったように笑った。
お父さんとはあの後も、いろいろな場所に出かけた。お父さんの好きな相撲も観に行ったし、温泉旅行にも行った。わたしがただ行きたかっただけの遊園地にも付いてきてくれたし、小さい頃よく行っていた果物園と、釣りができる近くの川にも行った。行きながら、たくさんのことを話した。
いっぱい笑った。いっぱい泣いた。
あとはもう、この短い間にお父さんから受け取ったものを落とさないよう、胸いっぱいに抱いて帰るだけだ。
お母さんに「また来るね」と言って、わたしはお父さんの遺影が飾られている仏壇に向かう。
「じゃあね、お父さん。白亜ちゃんのところに帰ります」
それから、お母さんに言ったように「また来るね」と告げる。
遺影でも相変わらず厳格な表情のお父さんだけど、その瞳の奥は、なんとなく笑っているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます