第36話 血の繋がっていない娘に恋をした
あの家にはわたしも一度行ったことがあるが、あまりいい思い出ではない。
叔母さんも、あまりいい顔はしていなかったように思える。
嫌な予感はしながらも、わたしはわたしで、自分の生活に集中しようとしていた。貴文さんに紹介してもらった仕事はやり甲斐もあったし、会社の雰囲気もよかった。働いている間は、なんだか自分がまともな大人になれている気がして、無心で働けた。
そんなある日、白亜ちゃんがわたしのアパートを訪ねてきた。元々三人で住んでいたアパートだったけど、白亜ちゃんがいなくなったことでわたし一人になっていた。
家賃の低いところに引っ越そうかとも考えていた、ちょうどその頃だった。
暗い夜の中、息を切らしてアパートまで来た白亜ちゃんは、涙こそ流していないが顔は真っ青で、唇は震えていた。それは悲しみから来る顔ではなく、恐怖が起因するものだと、すぐに分かった。
白亜ちゃんはわたしの顔を見た途端、顔をくしゃっと歪めてわたしに抱きついた。
叔母さんの家でされたことを、全部教えてくれた。白亜ちゃんの話を聞いて、わたしは心臓の奥が沸騰するような気持ちになった。
あの家じゃ、ダメだ。
わたしが、この子を守らなくちゃ。
白亜ちゃんの頭を撫でながら、何度も「大丈夫」と呟いた。でもそれは、実のところ、わたし自身に対して言っていたのかもしれない。
大丈夫、わたしなら大丈夫。覚悟を決めろ。
それからわたしは、自分の人生を白亜ちゃんのために捧げようと思った。
これまでしていたメイクは元々時間がかかりすぎると、自分の中でも不満はあった。ただ、学生のときからこういう、派手目なメイクしかしてこなかったせいで、それ以外のやり方が分からなかった。
動画で一から勉強して、百均コスメでもできるナチュラルメイクを身につけた。そして、高いコスメ類はもう買わなくなった。それだけで、電気代くらいは浮いた。
白亜ちゃんは今でこそなんともないけど、わたしの家に逃げてきた当初は、毎晩うなされていた。それだけで、どれほど怖い思いをしたのかが伝わってきて、わたしまで苦しかった。
だけど、嬉しかった。
数ある人たちの中から、わたしを選んでくれた。それだけで、苦手な料理を練習する気力だって沸いてきた。
わたしが預かります、と叔母さんに言うと、叔母さんはあっさりと「あら、悪いわね」と言ってのけた。最初からこの人は、白亜ちゃんを育てる気などなかったのだと、そのときわかった。
叔母さんの家には長女と次女がいて、次女である
新幹線の中、もうじき駅に着くとのアナウンスを受け、わたしはスマホのメッセージアプリを開いた。
『お昼頃つくね』
白亜ちゃんとのメッセージは、そこで終わっていた。つくね、が、鳥の方に見えて、一人で笑いそうになった。
新幹線の窓から外の景色を眺めながら、もうじき会える白亜ちゃんのことを、わたしはずっと考えている。
白亜ちゃんはどうして、また叔母さんの家に行くなんて言い出したんだろう。あそこには、あの佳代子ちゃんもいる。
もし、わたしのことを気遣ってあの家に行ってくれたのだとしたら、少しでも早く白亜ちゃんを迎えに行かなくちゃ。
わたしの手のひらには、あの日、わたしの元に逃げてきた白亜ちゃんを撫でたときの感触がいまだに残っている。
家に付いてチャイムを押すと、奥の方から叔母さんが出てきた。わたしを見ると、一瞬だけバツの悪そうな顔をして、それからよそ行きの顔になった。
お礼を言って菓子折を渡すと、お茶を出すと行って客間まで通してくれた。
叔母さんを待っている間、遠くの部屋から何か音が聞こえてきた。耳を澄ませると、それはピアノの音だった。曲というよりは、何度も同じフレーズを練習しているような、そんな音だった。
「最近ね、どうも熱が入っているみたいで」
叔母さんがわたしの持ってきたお菓子とお茶をおぼんに乗せて、肩を竦めて客間の入り口に立っていた。
「佳代子ね、ピアニストを目指しているんですって」
「そうなんですね。素敵な夢だと思います」
「あれだけ反対したのにねぇ。才能ないんだからやめておきなさいって」
子供の夢に反対するという選択が、わたしには理解できなくて唖然とする。だけど、叔母さんも叔母さんで、悪意があって言っているようには見えなかった。朧気な瞳の中には、微かな迷いの色がある。
「でも、どうもねぇ、あるみたいなのよ」
「才能が、ですか?」
「おたくの白亜ちゃんがね、私に言ってきたのよ。佳代子さんは、ピアニストの才能があるんです、だから弾かせてあげてくださいって」
出されたお茶は、ほどよく温かく、スッキリと喉を通った。
白亜ちゃんが、あの佳代子ちゃんにそんなことを言うなんて。もしかしたら、怖い存在だから気を遣って、少しでも佳代子ちゃんからの敵意を薄めたかったのかもしれないけど、白亜ちゃんなら、本心でそう言っている可能性も充分にあった。
「普通、そんなの他人の親に言う?」
「……すみません」
子供の代わりに親が謝る。本人のいないところで、本人の話をする。本人の意思が、あたかも介入しているかのように。こういう話をしているときだけは、親らしくありたいと思えて、簡単に頭を下げることだってできた。
「違うのよ、違うのだけどね」
頭を下げたわたしを見て、叔母さんは慌てて手を振った。
その後に続く言葉が見つからないのか、叔母さんはそれ以上話さなかった。「奥の部屋にいるから」とだけ言って、叔母さんは居間に戻っていく。
わたしは叔母さんに改めてお礼を言ってから、ピアノの音が聞こえてくる、奥の部屋に向かう。
襖をノックすると、想像以上に揺れてビックリした。一声かけて、ゆっくりと開ける。
「だから、そうじゃないですってば。そこは、最初のリズムが大事なんです、最初がダメなら後もできなくて当然です」
「うるさい、分かってる」
中を見て、わたしは驚いた。
部屋の壁一面が段ボールで埋め尽くされていて、中は物置にでも使っているのか、使わなくなった机や教科書などが乱雑に押し込められていた。
部屋の真ん中には、この埃っぽい部屋とは不釣り合いなほど綺麗に手入れされたグランドピアノが置かれていて、白亜ちゃんと佳代子ちゃんが、そこに座って演奏していた。
演奏しているのはほとんど佳代子ちゃんで、白亜ちゃんは隣から指示を出している、教えているような形だった。
白亜ちゃんの指示に、納得は言っていないようでいろいろ愚痴ってはいるものの、それでも佳代子ちゃんは試行錯誤しながら白亜ちゃんの言っていることを理解しようとしている。
喧嘩している……わけじゃなさそうだった。
わたしの存在に気付いた白亜ちゃんが、パッと顔をあげる。
こちらを見た途端、花が咲いたように笑って、駆け寄ってくる。
「久しぶりだね、白亜ちゃん」
一ヶ月ぶりの白亜ちゃんは、どこか大人びて見える。髪が伸びたせいだろうか。肩甲骨まで伸びていた髪は、ウエストあたりで外に跳ねるようになっていた。
「はい。また会えて、嬉しいです」
「別に、今世の別れじゃないんだから」
大げさだなと思ったけど、実際、わたしも白亜ちゃんに会えて同じような心持ちだった。
ずっと一緒に生活していたから気付かなかったけど、一ヶ月という短い期間会わないだけで、こんなにも心が寂しくなるんだ。たった一ヶ月ぶりに会えただけで、わたしは今、心が躍っている。視界が星いっぱいに埋め尽くされたみたいに、キラキラし始めていた。
「ピアノ弾いてたの?」
「はい、佳代子さんが弾きたいと言うので」
佳代子ちゃんと目が合う。
「はぁい、そうなんです。白亜ちゃんってすっごくピアノ上手じゃないですかぁ、だから是非、教えてもらいたくって!」
「佳代子さん、
「猫被るとか言うな。処世術だからこれ」
あ、と佳代子ちゃんが気まずそうな顔をする。そして、ため息を吐いてから足を組んだ。
「あんたがどうしても教えたいっていうから付き合ってやってんでしょ」
「そうでしたっけ。元はと言えば佳代子さんが……」
「あーもううっさい。ほら、お母さん迎えに来たんだから、さっさと帰ってよ」
佳代子ちゃんがめんどくさそうに手を払う。
「沙希さん、荷物持ってくるので、ちょっと待っててください」
慣れたように襖を開けて、廊下を駆けていく白亜ちゃん。
なんだろう、肩透かしというか。意外だった。
あれだけ嫌なことをされた場所で、嫌なことをされた人たちの中で、白亜ちゃんは活き活きとしている。佳代子ちゃんとも、なんだか仲が良さそうに見えた。
荷造りを終えた白亜ちゃんが佳代子ちゃんに「また来ますね」と声をかける。佳代子ちゃんは「部活で会うんだからいちいち来んな」と悪態をつく。だけど、その声色に棘はありながらも、敵意のようなものは感じられなかった。
叔母さんの家を出て、白亜ちゃんを車に乗せる。
助手席に座る白亜ちゃんは、窓の外を眺めたり、ときどき、バックミラー越しにわたしの顔を覗き込んでくる。こちらからも見えていると気付いていないのか、白亜ちゃんはじーっとバックミラー越しのわたしから目を離さない。
こっちからも見えてるよって言ったら、白亜ちゃんは顔を真っ赤にして俯くだろうか。そのときが楽しみだから、わたしは今回も、気付かないふりをしておいた。
「話せましたか」
車の中で、白亜ちゃんが昨晩電話で言ったことをもう一度言う。
「うん。いっぱい話せた」
「後悔は」
「ないよ。白亜ちゃんが、行けって言ってくれたおかげ。ありがとう」
白亜ちゃんは照れたように笑って、指をいじりはじめる。小さく「よかったです」という白亜ちゃんを見ていたら、つい抱きしめたくなった。
ハンドルを握りながら、わたしは自分の気持ちをもう一度見つめ直す。
久しぶりに帰ったアパートは、様相は変わっていないものの、馴染みのある香りが消え、なんだか別の人の部屋に思えた。
郵便投入口にはチラシがたくさん詰め込まれていて、それを部屋側から抜き取る。
荷物を整理しながら、わたしは電気ケトルでお湯を沸かした。
白亜ちゃんは、まるで友達から借りてきた猫みたいに、そわそわと部屋の中を歩き回っていた。やがて落ち着きを取り戻し、いつもの定位置に着いて、スマホをいじる。だけど特に調べるものもなかったのか、ふいにこちらに振り返った。
わたしもずっと白亜ちゃんを見ていたものだから、目が合ってしまう。
じっと、視線を外さないまま見つめてみる。綺麗な琥珀色の、無垢な瞳がうるうると揺れる。わたしは耐えきれず、目をそらしてしまった。
どうやったら、そんな風に真っ直ぐ好意を人に向けられるんだろう。
白亜ちゃんから伝わってくる熱を自覚すると、心臓がドキドキする。
あ、この子は、わたしのことが好きなんだ。好きで好きで、それに気付いてほしくて、わたしを見つめてるんだ。
そう思うと、愛おしさとは別の、果物を噛んだときのような酸味が、舌の根元に広がっていく。
「白亜ちゃん」
「は、はい」
「ちょっと、お話しよっか」
ちょうど電気ケトルが沸いたので、お茶っ葉の入った急須にお湯を注ぐ。
茶碗を用意してテーブルに座る。そうすると白亜ちゃんも、とことことこちらへ向かってきて、ちょこんと椅子に腰掛けた。
「ずっと保留にしてきたけど、ちゃんと言うね」
ごく、と唾を飲み込んだのが、白亜ちゃんの喉の動きでわかった。
ああ、緊張してる。
きっと、最悪の展開まで想像してる。
それで勝手に、落ち込んでる。
だから早く言いたい。言って、安心させてあげたい。
「白亜ちゃんが前に、言ってくれたこと。わたしのこと、好きだって気持ち。家族じゃなくて、恋愛的な意味で好きって気持ち。わたし、受け止めたいとか、言ったけど、ごめん。あれ、実はちょっと、かっこつけてた」
白亜ちゃんの瞳が淀んで、なんとか絞り出したかのような「はい……」という声に胸が痛くなる。
「そうするのが大人だって思ってたから、自分の気持ちより白亜ちゃんの気持ちを第一に考えてあげたかったの。だから、わたしの気持ちを、まだ言ってなかった。だから、言うね」
「あ、あの。沙希さん」
白亜ちゃんが怯えたように立ち上がろうとする。
そんな白亜ちゃんの腕をしっかりと掴んだ。
「好きだよ、白亜ちゃん」
腕を引いて、抱き寄せる。白亜ちゃんの顔は、わたしの胸元にすっぽりと埋まった。
「……家族として、ですか」
「わからない?」
わたしは、あの日と同じように、白亜ちゃんの頭を撫でた。
唯一違うのは、わたしの気持ちだ。
「白亜ちゃんがあの家から逃げてきた日も、こうやって抱きしめたね」
「……はい」
「そのときと、同じ?」
「……違います」
この指先に灯る光が、まだ家族としての純粋な美しい温かさを持っているのなら、わたしの気持ちは偽りなのかもしれない。わたしがどう思おうと、それが相手に伝わらなくちゃ、偽物と言われてもしょうがない。
だからわたしは、ありったけの好きを指先に乗せた。
撫でるのは、守りたいからじゃない。……触れたいから。
抱きしめたのは、可哀想だからじゃない。……離したくないから。
「白亜ちゃんに始めて告白されたとき、ずっとドキドキしてた。次の日なんて、仕事が手に付かなかったくらいなんだよ」
告白されたのなんて、初めてじゃなかった。そのたびにわたしは、なんて断ろうかとか、あの人どう思う? なんて友達に相談したりとか、嫌に冷静だった。まるで他人事みたいに、今から自分が恋愛をするなんて自覚は一つも生まれず、約束事が一つ増えたくらいの感覚だった。
だけど、白亜ちゃんに告白されたとき、わたしは誰にも、
白亜ちゃんからもらった言葉一つ一つ、感情のカケラ一粒でさえ、誰にも教えたくなかった。わたしだけが、知っておきたかった。
あの時点で本当は、気付いていた。だけど、わたしはまだ子供で、罪を被ったままの、学生時代のわたしを引きずっていたのだ。
でも、あの日のわたしはもういない。愚かなわたしの呪縛は、お父さんが引きちぎってくれた。そのお父さんに、会えと言ってくれたのは、白亜ちゃんだ。その白亜ちゃんがわたしを好きと言ってくれて、わたしが好きになったのは白亜ちゃんだ。
不思議な巡り合わせだけど、これが偶然だとはわたしは思わない。
「ちゃんと恋だよ。ちゃんとドキドキするよ。白亜ちゃんの気持ちと、おんなじだよ」
腕の中で、白亜ちゃんが震えている。その背中をさすってあげる。
「もし、いま全部伝わらなかったとしても、これからちゃんと伝えていくから。不安かもしれないけど、わたし、ほんとに好きだよ。大好きだよ。大好き。何回だって言うよ。白亜ちゃん、だから……大丈夫だよ」
そのとき、ふいにわたしの目からも涙がこぼれた。
嬉しいときと、悲しいとき、涙は流れるけど。
誰かを想うだけでも、涙は出るんだ。
白亜ちゃんがわたしに告白したとき、夜だったけど、部屋は暗かったけど、白亜ちゃんが泣いていたのを確かに覚えてる。
白亜ちゃんはあのときすでにもう、わたしの知らない涙を知っていたのだ。
……いっつも、先を越されちゃってるな。
白亜ちゃんはそのあとも、なかなか泣き止んでくれなかった。
わたしはずっと、そんな白亜ちゃんを抱きしめていた。
ふと、部屋の隅に、学生時代のわたしがずぶ濡れで立っているのが見えた。
体中に穴を開けて、銀色の輪っかを通し、人が罪を犯していても当事者じゃないからと見て見ぬ振りをしていた、弱いわたし。
そんな過去のわたしが、こちらを睨んでいる。
こちらを見るボロボロのわたしは、黒い涙を流しながら、刃物を手に取って、歩き出した。
分かるよ。本当の幸せがなんなのか分からなくなって、心から幸せそうにしている人を見ると羨ましくて仕方がないのも、分かる。
だから多少の罪くらい許してくれ。
そう思うのも、痛いほど理解できる。
わたしだって、もし、あのまま進んでいたら。
あの先輩たちの中で一度でも罪を犯していたら、もう歯止めは効かなかったかもしれない。
物を盗むだけじゃすまない。人を傷つけ、殺めることだってあったかもしれない。
あなたはきっと、そんな、あり得たかもしれない未来のわたしだ。
同じわたしだから、あなたの気持ちも分かる。同情もできる。
だけど。
――やめたほうがいいよ。
やっぱり、悪いことは悪いことだから。
――悪いと思いながら悪いことをしちゃダメだよ。
今なら言える。
わたしを支えてくれた人たち。名前も知らないあのおばあちゃんから、貴文さん、梢、お母さんにお父さん、それから、白亜ちゃん。その人たちの思いを背に受けながら、わたしは言う。
ずぶ濡れのわたしは刃物を握りしめながら、こちらを睨む。
白亜ちゃんを抱きしめながら、わたしも睨み返す。
ずぶ濡れのわたしは刃物を握った手をプルプルと震わせたかと思うと。
寂しげに笑って、煙のように消えていった。
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