第37話 選んだ先にあったもの

「じゃーん。これからわたしたちのルールを決めたいと思います」


 その日の晩、わたしは新調したカレンダーをテーブルに音が鳴るように置いた。近くでテレビを観ていた白亜はくあちゃんは、物音にビックリした猫みたいに目をまん丸にしてわたしを見た。


 何が起きたか分かっていない面持ちで、四つん這いでこちらに寄ってくる。本当に猫なのではないだろうか。


「ルールって、ゴミ捨てとかですか?」

「まぁ、そういうのもあるけど、ゴミ捨ては今まで通り、先に家を出る方でいいと思う。そうじゃなくてね、えっと……いちから話すとちょっと恥ずかしいんだけど」


 小首を傾げる白亜ちゃんの瞳は、まるで数年かけて磨いた宝石みたいにキラキラしていた。期待と疑問が混ざり合った無垢なその丸に、返事をする。


「さっきも言ったけど、わたし、白亜ちゃんのことが好きだよ。恋愛的な意味で、そう、うん」


 最初は平気だったのに、どんどん赤面していく白亜ちゃんを見ていたらこっちまで恥ずかしくなって、語尾が尻すぼみになっていく。


「でもね、覚えておいてほしいのは、その……家族としても好きなの。大事にしたい、ちゃんと育ててあげたい。それは嘘じゃないし、母親として、白亜ちゃんのことを大切にしたいっていう気持ちもある」


 白亜ちゃんはわたしの娘。口にすると、身体がむずかゆくなる。分不相応な称号に、わたし自身まだ慣れてはいないのだ。


「だからって、じゃあ恋愛的な意味合いを捨てるっていうのも違うと思うの。二つの意味の好きが同居してたっていいかなって。でも、区別はつけたい。どっちの気持ちも大切にしたいから」


 白亜ちゃんが、鈴の鳴るような声でわたしの名前を呼んだ。


「えっと、つまり、家族として接する日と接しない日があるってことですか?」

「そういうこと。わたしが考えたのは、奇数と偶数で区別するルール。今日は二十一日だから、じゃあ奇数の日は恋人として過ごそう。それで、偶数の日は、家族として過ごす。どう?」

「恋人じゃない日は、手を繋ぐのもダメってことですか?」


 泣きそうな顔で白亜ちゃんが言う。


「手を繋ぐのはいいんじゃない? 家族でも手は繋ぐでしょ?」

「じゃ、じゃあ……!」


 背伸びしたような格好のまま、白亜ちゃんが固まってしまう。池の鯉みたいに口をパクパクさせて、それから「あ、え」と何かを口走ろうとする。


 知恵の輪を組むみたいに、その母音を頭の中で組み立てる。出来あがったものがあまりにもピンクだったから、わたしまで母音しか喋れなくなる。


「う、うん。夫婦だってね! 決めてるんだって、そういうの。する日と、しない日とか。お互いの生活もあるし、都合とか、疲れとかもあるからって」

「私は毎日でも大丈夫ですけど!」


 白亜ちゃんの目がぐるぐると渦を巻いていた。いつもは大人びた白亜ちゃんだけど、わたしのことになると強情になるというか、ややパニック気味になる。そんなデバフめいたものがわたしにあるのだとわかると、悪い気はしない。だけど、むくむくと湧き上がる独占欲のようなものは、たぶん、あまり良いものではなくって、清涼な風がどこかに運んでくれるのを願うしかなかった。自分の力じゃ、きっと捨てられない。


「翌日にだって影響はあるだろうし、それで生活に支障が出たらやっぱりよくないよ」

「わ、わかりました」


 一秒ごとに前のめりになって、そろそろわたしの額とごっつんこしそうな距離にした白亜ちゃんが、観念したように引き下がっていく。


 かと思うと、目をカッと開いて、首をあげた。


「あ! や、やっぱり曜日にしませんか!?」

「曜日?」

「だ、だって、奇数と偶数で分けたら、損する月があるじゃないですか。三十一日がない月だってありますし、その月は、一日恋人分を損していることになりますよね。理不尽ですそんなの」


 理不尽という言葉が安売りされていた。


 でも、わたしだって、学生の頃はそうだった気がする。恋人っていうのは、手を繋ぐ、キスをする。もちろんそういうこともするだろうけど、さらにその先にもステージがあって、そこはどこか神聖な、一度足を踏み入れたら一生とって憑くような雰囲気がある。


 だから躍起になるし、そこが最終目標になる。そうじゃないと証明できない、まるで焦るように、みんな夜を目指していた。


 友達から恋人との事情を事細かに聞かされることだってあった。今考えたら絶対恥ずかしいことなのに、当時の友達は、みんな誇らしげに話した。


 白亜ちゃんもきっと、同じ状態なんだと思う。


「分かった。じゃあ、曜日にしよ。月、水、金、日。が」

「恋人でっ」


 食い気味な白亜ちゃんの提案で、わたしたちのルールは決まってしまった。


 今日は土曜日だから、明日からが恋人、ということになる。


 晩ご飯の準備をしようとキッチンに向かって、塩こしょうを取ろうと上の棚を開ける。


 ムッと眉を尖らせた白亜ちゃんがわたしの指先をジッと見つめていた。


「捨てましたからね」


 上の棚には、市販の薬を買いだめしていた。睡眠薬とか、風邪薬とか。一度に買うと必ず店員さんに声をかけられるから、毎日違うお店で一箱ずつ買っていた、あの薬。


 捨てたというのは、こずえから聞いていた。以前、わたしが酔い潰れてしまったときに見つけて、ゴミ袋に詰めたのだそうだ。


 正直言ってしまえば、全部、聞こえていた。


 酔いはこの部屋に着いてからかなり醒めていて、梢が白亜ちゃんにわたしの話をしているあたりから、全部聞こえていた。


 薬は元々飲むつもりはなかった。ただ、いつでもそれに縋っていいという安心感が、欲しかった。


 白亜ちゃんはきっと、わたしがまたオーバートーズに手を出すんじゃないかと見張っているのだ。


 そう思うと、どんどんと愛おしくなってくる。


 もうしないよって、言えばそれでいいのに。心配されてる、気に掛けてくれる。そう思うだけで、白亜ちゃんへの気持ちが大きくなっていく。


 そして、そんな白亜ちゃんの心配より、わたしの心配の方が大きい自信もあった。


 白亜ちゃんのために人生を変えた。生き方も、生活も、何もかもをこの子のために捧げようって決めた。大丈夫かな、学校楽しんでるかな。お腹空いてないかな。ちゃんと家に帰れたかな。


 仕事中、何度も不安になって、小休憩中に白亜ちゃんにメッセージを送った。


 わたしの方が絶対に、白亜ちゃんを想ってる。


 白亜ちゃんに言ったら、きっと水掛け論になってしまうから言わないけど。そういう自信が、わたしを支えてくれているのもまた事実だった。


 実家に帰ったときお母さんに教えてもらった煮物を作って、白亜ちゃんと一緒に食べて、それからテレビを眺めながらお風呂が沸くのを待つ。


 いつも通りの日常風景だったけど、白亜ちゃんも、そしてわたしも浮き足だっていた。そわそわと、落ち着かない。


 なんでだろう。


 幸せなはずなのに。


 どうしてか不安になる。


 胸がいっぱいなのに、小さく開いた穴から、大切な何かが抜けていく音がする。


 一秒一秒が、惜しく感じる。


「そわそわするね」


 耐えきれなくて、わたしはつい白亜ちゃんに言ってしまった。


「恋人なんだよね、わたしたち」


 稚拙な表現だったかもしれない。子供の、おままごとのように見えたかもしれない。


 表面上はそうかもしれない。だけど、ここまで至る道を、わたしと白亜ちゃんは何度も行ったり来たりして、ときどき転んで膝を擦りむいて、滲む血に顔をしかめながら苦しみ、それでも歩き続けた。


 引き返す理由なんかいくらでもあったし、諦めてしまいたい瞬間なんかきっと、無数にあったはずだ。それでも進み続けて、辿り着いたのだから、周りからどう見えても、わたしたちが幸せと感じていればそれでいいんだと思う。


「はい、私もさっきから、落ち着かなくて。恋人って普段、どうするものなのでしょう」

「どうだろう。でも、今日は家族だから」


 あ、と白亜ちゃんが口を小さくあけて、そうでした、と小さくこぼす。


 白亜ちゃんはじっと時計の針を気にしていた。


「あと三時間したら」

「え?」

「日曜日です」


 白亜ちゃんの潤んだ瞳が、懇願するようにわたしを見る。ちょっと高価なおもちゃをおねだりする子供みたいな、罪悪感に包まれた視線。


 わたしはずっと曜日で見ていたけど、白亜ちゃんは時間で明日を待っていたんだ。


 そんな健気な丸い背中を見て、胸の奥がたき火に当たったようにじんわりと温かくなっていく。思わず立ち上がって、駆け寄りそうになった。


 今、後ろから飛びついて、やっぱりルールは無し。って言ったら、きっと白亜ちゃんはビックリして、最初は困惑しながらも、次第に萎れていって、されるがままになるんだろう。


 それはたぶん、わたしの妄想だけで充分なので、ため息をついてカバンから本を取り出した。


 お父さんからもらった、名言集だった。


 いろいろな偉人の言葉が載っていて、わたしはこの本をもう何度も読み返している。


 牛乳を飲みにキッチンに向かった白亜ちゃんが帰り際、わたしの読む本を後ろから覗き込んできた。


「名言集、ですか」

「うん。お父さんからもらってね、結構面白いよ。昔の偉人の名言がのってるんだけど」


 パラパラとめくって白亜ちゃんに見せてみる。白亜ちゃんは優しい笑みを浮かべて言った。


「素敵な本ですね」

「そうかな」


 わたしが書いたわけでもないのに、どこか誇らしくなる。


「沙希さんは、どの言葉が好きですか?」

「うーん、そうだね。全部良いけど、やっぱりこれかな」


 そのページは折れ曲がっていた。おそらく、お父さんが何度も読み返したせいだろう。わたしもそのページに綴られた言葉を読むために、すでに何回もこのページを開いている。


「『私は本当に幸福です。つまり私は音楽のことだけを考えているのです。私は音楽に恋しているのです。』っていう言葉。お父さんに教えてもらったんだけど、これが一番好きかも」


 ページを見せると、白亜ちゃんは目を丸くして文字を追った。視線が上下に二回ほど往復する。


「あれ、もしかして知ってた?」

「いえ」


 白亜ちゃんは短く答えた。


「この言葉の何がいいって、人生のなかでこれさえあればわたしは幸せですっていうものを見つけられているところだと思うんだよね。この人の場合は音楽でしょ? 音楽さえあれば幸せなんだって、自信と実直さを感じられてね。……って、お父さんの受け売りなんだけど、でも、わたしもそう思う。だからこの言葉がわたしは一番好き」


 この音楽の部分に何を当てはめるか。当てはめられるか、それで人生の幸福度は変わる。言い切れるほどの何かを見つけなさいって言われているようで、この言葉を頭の中で反芻すると、ちゃんと真っ直ぐ生きようって元気がもらえる。


「――『ヨハネス・ブラームス』の言葉なんだって。何をした人なんだろうね。音楽っていうくらいだから、音楽家かな」


 この本にはいろいろな偉人の名言が載っている。とはいっても、その中でわたしが知っていたのはナポレオンやエジソンくらいだった。学生のとき、もっとちゃんと歴史の授業聞いてればよかった。


「昔の人だし、きっと無理だろうけど、もし会えるなら会ってみたいな。このブラームスって人。なんでだろう、わからないけど、わたし、この人のこと好きなんだ。名言ってたくさんあるけど、良いこと言おうとして言ったものだってあると思うの。でもこの言葉は、本当にすんなり、自然と口から出たような、そんな言葉に感じる」


 飾り気のない、自分の人生を表現した言葉。他の偉人の名言に比べると崇高な言葉は使われていないし、未知の価値観や覇道に左右された今じゃ考えられないような生への執着。そういうものが、この人の言葉からは感じられない。


 偉い人なんだろうけど、どこか、身近に感じてしまうような、わたしたちと同じような、等身大の悩みを持ち続けた人。それでも必死に努力して、呆れるほどすごい人たちと肩を並べた。そんなような雰囲気を持ってる。


 会ってもないのにね、と自分の行き過ぎた妄想に笑う。


 だけど白亜ちゃんは、真剣な顔で首を横に振った。


「私も好きです。この言葉」


 噛み締めるような表情で、本のページを撫でていく白亜ちゃん。まるで知っている人の言葉をなぞるように、目を細めていた。


「気になるから、ちょっと調べてみよ。どんな人だったんだろう」


 ネットで調べればいくらでも情報は出てくるだろう。どんな音楽家だったのか、どんな人生を歩んだのか。どういう、人間だったのか。


 動画サイトを検索したら、紹介動画なんかもあった。


 お父さんならきっと、調べるのはいいことだって言うに違いない。気になることはすぐ調べる。もらった言葉も、得た知識も、受け取った思いも、これからの人生に必ず役に立つはずだから。


「あ、あの」


 ヨハネス・ブラームスという人の情報を調べるにあたって、いろいろ検索をしていると、白亜ちゃんがおずおずと尋ねてきた。


「調べたら、聞かせてください。沙希さんがブラームスを、ブラームスの人生を、どう思ったか」

「うん、もちろんだよ」


 別に言われなくても、感想は言うつもりだった。白亜ちゃんはなぜか緊張した面持ちで、頷いた。それからのそのそと、テレビの前に戻っていく。


 たまにこちらを振り返っては、また視線をテレビに戻して、もじもじと背中を揺らす白亜ちゃん。


 そんなに気になるのかな。


 じゃあ、早く調べなきゃ。


 ヨハネス・ブラームスという人の生き方を。


 何に悩み、何に苦しみ、どうやって幸福に行き着いたのかを。


 稀代の音楽家をまとめたサイトがヒットしたので、そこでブラームスの出世や代表曲を順番に見ていく。


 その文字列を見るたびに、どこからか。


 いつか梢の家で聞いた、白亜ちゃんの演奏が、軽やかに聞こえてくるようだった。

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二番目の母に恋をした 野水はた @hata_hata

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