第10話 家族愛という美談

 ピアノソナタ第3番ヘ短調op.5。


 5楽章からなるその曲は、全曲演奏すると40分以上かかる大作だった。私の母はその曲をたいそう気に入っており、私によく弾かせた。手をめいっぱい広げなければ届かないほどの音の移り変わりは、少しでも気を抜けばリズムごと置いていかれる。手で弾くな指先で弾けというのが母の教えで、レッスンが終わったあとも二の腕の筋肉がずっと痙攣していたのを覚えている。


 なんとか弾けるようになった私だったが、母は納得しなかった。


 音に感情が乗っていない。なぜそこで強くなるのか、なぜ跳ねるのか、なぜ消え入るように伸びるのか。考えながら弾くの。曲はただの音の連なりではない。人が人生を賭けて作った魂の響きなんだから。


 何度そう注意されただろう。


 私は人の心なんて分からないし、ましてや曲に込められた想いなど知るよしも無い。


 それでも弾き続けたのは、母が私に期待していたからだ。


 母は普段叱ったり、大きな声を出したりしない温和な人だ。だけど、ピアノとなるとそうではなかった。私がピアノの前に座ると必ず母はやってきて、後ろで手を組んで私の演奏を聴いた。ちょっとでも適当に弾けば音のズレを注意され、どうしても弾けない場所を飛ばしたときは血相を変えて怒られた。


 母はピアノに、そして、私に本気だった。それが私は嬉しくて、ピアノを弾き続けていた。


 母が病気で亡くなったのをきっかけに、私はピアノを弾かなくなった。周りからはピアノを続けるべきだと言われ、みっともなくしがみついたときもあったが、やはり弾く気にはなれず、周りも私から次第に離れていった。


 ただ、心残りだったのは、私は最後まで母に弾けるようになれと言われていたブラームスのピアノソナタ第三番を弾けなかった。ピアノコンクールでも披露したことのある曲だったが、技巧的だがあくまで機械的と酷評されたこともある。


 私の演奏には、感情や想いが乗っていない。


 ヨハネス・ブラームスという男は、なぜこの曲を作ったのか。どういう想いを込めてこの曲を作ったのか。知ったところで、私が理解できるわけもない。ずっと昔の人だ。


白亜はくあちゃん、いきなりなんだけど、わたしの友達の家にいかない?」


 そんな昔のことを思い出していたのは、ちょうどテレビで、ヨハネス・ブラームスの特集がやっていたからだ。ヨハネス・ブラームスの半生を振り返りはじめたあたりで、沙希さきさんがひょこっと、キッチンから顔を出した。


「中学の頃の後輩なんだけど、その子が最近地元に帰ってきたの。ちょこちょこ遊んでたんだけど、その子の家にね、ピアノがあるんだって」


 テレビから、聞き覚えのある旋律が聞こえてくる。たしか、『2つのラプソディ』だっただろうか。堂々と力強く始まって、静かに転調する。白い雲が晴れ渡った大空を、ものすごい速度で駆け抜けていくような印象の曲だ。


「うちはほら、ピアノないし、白亜ちゃん練習できないでしょ?」

「わざわざ、聞いてくれたんですか?」

「たまたまだよ。物の置き場所がなくて、ピアノが第二の棚になってるって言ってたから、ちょっと聞いてみたの」


 それを、わざわざ聞いてくれたって言うのだと私は思うのだけど。気を遣わせてしまった申し訳なさもあったが、練習ができるという言葉に、私は思わず立ち上がってしまった。


「行きたいです」

「車で行けばそんな遠くないから、お昼食べたら行こ」


 私はさっそくクローゼットから服を引っ張り出した。沙希さんの友達というのがどんな人かも気になるし、ピアノを弾けるというもも朗報だ。


 合唱部の拠点である第二音楽室にはピアノがあるが、ときどき吹奏楽部の人たちが部室を貸してほしいと言いにくることがある。「合唱なんてどこでもできるじゃん」と言われてしまえばそれまでで、私たち合唱部は大人しく吹奏楽部に場所を譲るしかない。


 そんなこともあるせいで、私はあまり練習をできてはいなかった。オーディションまであと約一ヶ月。佳代子かよこさんは毎日家でも練習をして、着々と力を付けているだろう。


 佳代子さんに勝てるなんて微塵も思っていないけど、ピアノの勘は取り戻しておきたい。


 お昼ご飯のフレンチトーストを食べている間も、私は膝の上で連弾の練習をしていた。


 沙希さんの友人の家は、橋を渡った先にある河川敷沿いにあった。


 インターホンを押すと、その人は出てきた。ブルーのグラデーションになっている髪が特徴的で、肩のあたりでふわっと横に膨らんでいる。根元は明るいブロンドで、それが前髪まで落ちてきていた。


 こういう、かき氷みたいな、水族館みたいな、髪色、見覚えがある。昔の、沙希さんだ。


「先輩、今日は来てくれてありがとうございますー。部屋めっちゃ掃除したんで、多分足の踏み場くらいはあると思うんですけど」

「いいよいいよ、気にしないで。こちらこそ、呼んでくれてありがとね。あ、白亜ちゃん、紹介するね。こちら小林こばやしこずえちゃん。中学のときの後輩なの」

「よろしくお願いします。小林さん。喜美白亜です」

「うん、よろしく! はっくーだね!」


 小林さんは膝を曲げて、私と視線を合わせた。まるで子供を相手にするような振る舞いだったが、不思議と嫌ではなかった。この人の醸し出す雰囲気は、沙希さんに似ているものがある。


 小林さんの家は平屋の一軒家で、元々は祖父母が住んでいたのだそうだが、祖母が亡くなって引っ越したのだそうだ。取り壊すのも勿体ないので引き取り手を探していたところ、ちょうど転職活動を終えた小林さんが地元に帰ってきたのだという。


 まずは居間に案内された。すでに用意されていた洋菓子と、はちみつ入りの紅茶をいただいた。白いマグカップと和室のコントラストが、アンバランスでなんだか面白い。


「梢は美容師をしてるの。『BLOOM』ってところなんだけど、白亜ちゃんの学校の近くだよ。わかる?」

「すみません、分からないです」

「うちの美容室、けっこう変なところにあるから分からないのもしょうがないよ。あ、ピアノだっけ?」


 小林さんは思い出したように立ち上がって、居間の襖を開けた。居間の向かいの部屋が客間になっているようで、仏壇と、大きなテーブルが置かれていた。壁には誰かの賞状がたくさん飾られている。中には見覚えのあるコンクールの賞状もあった。


 ピアノはその下に置かれていた。


 レースのカーテンを取って、蓋を開ける。埃は被っていないし、私が想像していたよりも綺麗だった。試しに鍵盤を押すと、確かなピアノの旋律が返ってきた。


「だーれも弾く人いないから、好きに弾いていいよ。一応メンテナンスは、叔母さんがしてたみたいなんだけど」


 そういって、小林さんがピアノの上に飾ってある賞状を指さした。そこには「小林巴」と記されている。田井中コンクール入賞。地域の団体が主催のものなのでそこまで大きなコンクールではないが、賞金も出るし、そこで入賞しているということは腕のあるピアニストなのだろう。


「小林さんも音楽を?」

「ううん、うちは見ての通りこんなんだから。特にピアノとは無縁」


小林さんが、キラキラと輝くフラッシュネイルを見せる。


「でも叔母さんと従姉妹はピアノを小さい頃から習っていて、この家に集まると見せびらかすみたいに弾いてたよ。叔母さんはもう弾いてないみたいだし、従姉妹は県外に言っちゃったしで、もうそのピアノ弾く人はいないから、代わりに弾いてあげて」

「ありがとうございます。嬉しいです」


 それぞれの鍵盤の音を確かめてから、手指の運動をする。閉じたり開いたり、両手をぎゅーっと繋いだりする。こうすると手指が温まって、動かしやすくなる。


 後ろを見ると、何故か沙希さんと小林さんも、私の真似をしていた。私の視線に気付いた沙希さんが目をキラキラさせて言う。


「白亜ちゃん。わたし、白亜ちゃんの演奏聞いてみたい!」

「はっくー、うちもー!」


 小林さんまで、沙希さんの真似をしている。先生の出題に答えるみたいに挙手をした二人の声援を受け、私は弾く体勢に入った。まずは定番の「エリーゼのために」を弾いた。


 頭の中で昔見た楽譜が蘇る。私は音符を読むのが苦手で、一時期は加線の引かれた音符を見るのも嫌だったし、定期的にやってくる読譜の時間が本当に嫌いだった。


 それでも死に物狂いで覚えて、今はパッと見ただけでメロディラインが想像ができるようにはなった。だけど、それも母が亡くなるまでだった。


 思えば、私にとってのピアノは演奏を目的としたものではなく、母に褒めてもらうための道具でしかなかったのかもしれない。だから、褒めてくれる人がいなくなれば弾かなくなるのも当然だ。


「すっごい上手~! 思わず聞き入っちゃったよ! 白亜ちゃんって、弾いてるときそんな表情するんだね」


 弾き終わると、沙希さんが後ろで拍手をした。


「え、どんな表情ですか?」


 変な顔してなかったかなと、自分の顔をペタペタ触る。


「カッコよかった」


 沙希さんの純粋な笑顔に、私の無粋な雑念がふつふつと湧き上がってくる。母に褒められたときは、こうはならなかった。次はもっと頑張ろうって思うだけで、撫でてほしいとか、近づくチャンスになればなんて邪な考えが浮かぶことはなかった。


 それからしばらく弾いていると、沙希さんがお手洗いに向かった。


 小林さんと二人きりになって、ちょっと気まずい。すると小林さんは「ちょっと詰めて」と私と一緒の椅子に無理矢理座ってきた。


「先輩は家だとどう? ちゃんとやってる?」


 ちゃんとやるの意味がよくわからなくて、私は曖昧に返事をした。


「先輩、ああ見えてけっこうじゃじゃ馬だから、いきなり暴れ始めるかもしれないけど、そういうときは寂しくてかまってちゃんになってるだけだから、優しく接してあげて」

「沙希さんが、じゃじゃ馬ですか?」

「そうだよ? 知らない? 先輩って、学校だと問題児だったんだよ。先生には暴言吐くし、授業中はどっか行くし、ワガママだし、自分の思い通りにならないと癇癪起こすし、お姫様かーってよく言われてた」


 信じられなかった。たしかに学生時代はやんちゃだったと聞いた。でも、それは卒業後に先生がよく言う決まり文句だとばかり思っていた。


「それだけ脆い人なんだよ。よく怒ってたし、よく泣いてた。信じられない?」

「そうですね。家ではそんな素振り、一度も見せたことないので」

「そうなんだろうね。うちも、久しぶりに先輩と会ってビックリした。あんなに落ち着いた雰囲気の人になっちゃって。どうしたんだろうって心配だったけど、はっくーを見たらなんとなくわかったよ。愛されてるんだね」


 愛。その一文字が、どっしりと胸に落ちてくる。支えきれるわけもなく、そのまま腹の中に落ちて、どろどろと溶けていくのを自覚する。


「先輩ってば、いろんな人にピアノ弾かせてもらえないかって聞いて回ってたんだよ? そんな話を同級生から聞いてさ、うちなら使えますよって連絡したんだ」

「沙希さん、たまたま小林さんと話してたらピアノの話が出たからって言ってましたけど」

「そんなのうそに決まってるじゃん。はっくーにピアノ弾いてほしくて、いろんなところに頭下げて回ってたんだよ。先輩」


 知らなかった。沙希さんが、私のためにそこまでしてくれていたなんて。


「うち、なんかはっくーのこと応援したくなった」


 小林さんが、鍵盤を叩く。乱雑な旋律に、ネイルの当たる音が混ざった。


「うちさ、昔からピアノ弾いてる人って好きじゃなかったんだよね。なんかみんな金持ちだし、いいとこのお坊ちゃんとかお嬢さんばっかりで、そういう人たちってプライドも高いうえに自信家だから、どこでも構わずピアノを披露して『すごい!』って言葉を心待ちにしてるじゃん?」


 沙希さんは、まだお手洗いから帰ってこない。扉の向こうを気にしていると、小林さんもそちらに目を向けていた。


「でもはっくーは別。だってさ、別に裕福じゃないけど、いろんな人の支えでピアノを弾けるようになって、金持ちのピアニストよりも上手になったら、それってなんかめっちゃ、家族愛に満ちたシナリオじゃない? うち、甲子園とかでも名門校と田舎の公立だったら後者を応援する派だからさ! だからはっくー派!」


 ギャーンと鍵盤を一斉に押し込む小林さん。その音に、戻って来た沙希さんが「急に下手になったかと思ったら」と並んで鍵盤と向き合う私たちを見て笑った。


「仲良さそうになに話してたの?」

「先輩に愛されてていいなーって話ですよー」

「ええー?」


 小林さんが茶化すように言うと、沙希さんは照れたようにはにかんで、私を見た。小首を傾げてこちらの顔を覗き込んでくるような仕草は、私の心臓を鳴らすには充分すぎるほど魅力的で、蠱惑的だった。


「まぁ、愛してるけど?」


 もし私の鼓動を楽譜にするなら、すべての音にフォルツァンドが付けられているだろう。より激しく、鼓動を強調する記号が五線譜を埋め尽くす。


「先輩先輩、うちのことは!?」

「はいはい、あんまり白亜ちゃんの邪魔しないの」

「えー? 無視ですかー?」


 小林さんを椅子から引き剥がして、ズルズルと引きずっていく沙希さん。離れ際に「ごめんね」と耳元で囁かれて、私は顔をあげられず俯いてしまう。目の前の黒鍵が、ぐにゃぐにゃと歪んで見えた。


 沙希さんと小林さんが居間に戻ってから、私は一人でピアノを弾き続けた。ときどき居間から笑い声が聞こえてくる。世間話で盛り上がっているのかもしれない。


 小林さんは言っていた。沙希さんは脆い人だと。よく怒ってよく泣いて、ワガママで、じゃじゃ馬のお姫様のようだったと揶揄していた。だけど、私の知る沙希さんはそうではない。


 沙希さんが落ち着きを取り戻したのは、私を愛しているから。沙希さんは私のために、いろんな人に頭を下げて回った。私は沙希さんに愛されている。


 裕福でも、幸せじゃない家庭はきっとある。私はきっと裕福のうちには含まれないのだろうけど、不便なんかしたことないし、不満だって1つもない。私は沙希さんと一緒に過ごせて、家族になれてとても幸せだ。


 こうしてピアノだって弾かせてもらっている。


 ここでもし、私がオーディションで佳代子さんに勝つなんてことがあれば、それは小林さんの言う通り家族愛に溢れた素晴らしいシナリオになる。大切なのはお金じゃない。境遇じゃない。愛してくれる家族さえいれば、人は幸福になれる。


 それはつまり。


 私と沙希さんの物語は、家族愛という美談で結末を迎えるということだ。


 キュッと胸が苦しくなる。苦痛じゃない、悲しみでもない。ただ、いちごを奥歯でかみしめたときのような、甘酸っぱいもどかしさは、私の四肢を疼かせる。この正体を、私は知っている。知っているからこそ。


 名前を付けるのが、とてつもなく恐ろしいのだ。

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