第11話 禁断の森
水溜まりを歩いていた。
ぴちゃ、ぴちゃ、という音は、くぐもった洞窟の中で鳴っている。弾ける水はときに下腹部までもを濡らしていく。
最初はゆっくりだった歩速も、目的地に近づくにつれてだんだんと速くなっていく。走れば当然、息は荒くなる。私は溢れる吐息を口で押さえながら、洞窟の向こうを目指した。
この雨は、いつまで降り続けるのだろう。止まることのない水の気配に嫌気が刺す。服は濡れるし、シーツだって変えなきゃいけないかもしれない。
傘を差せばいいだけなのに、バカだなと私は思う。この瞬間だけは、本当に、バカになる。
正解や間違いの物差しさえどこにあったかわからなくなって、常識的な優先度や計画性も欠け落ちたようになくなって、私は水溜まりを走り回るバカになる。俯瞰的に自分を分析できる理性はあるくせに、止まろうとしない自分の指先はまるで違う誰かのようだった。違う誰かの指先、たとえば、そう、
想像しただけで、身体が仰け反る。さっきまで遠くに見えていた目的地が、なぜかすぐ目の前にあった。
私は光に包まれ、外の世界に出る。
すると、視界はクリアになり、思考も落ち着きを取り戻す。洞窟の中で、私はただひたすらに自分の荒れた吐息を感じていた。
玄関の方で音がして、私は急いで衣服を整えて洞窟から飛び出した。しかし、なかなかドアが開く様子はない。そのあと、郵便投入口が音を立てて何枚かのチラシを吐き出した。どうやら音の正体は沙希さんではなく、配達員の人だったらしい。
ふと冷静になると、シャツが裏表逆になっていた。感覚で、パンツの片方に足が通っていないことにも気付く。なんだか虚しくなって、私はリビングに戻った。
私は水溜まりを歩くとき、いつも沙希さんを連れて行く。
けど、それは沙希さんにとってもあまり心地の良いことではないと思い、最近は我慢していた。それなのに、沙希さんがいつも着ているルームウェアが、リビングに脱ぎっぱなしになっているのを見つけてしまったのだ。
香りは人の記憶を呼び覚ますと言うが、たしかにその通りだった。グレーのドルマンパーカーとショートパンツに顔を埋めると、それを着ているときの沙希さんがまるで目の前にいるかのように感じられる。沙希さんはキャミソールにこの服をよく合わせていて、ファスナーは開けたスタイルだ。なぜ部屋で胸元を開くのか。冷静に考えれば暑いからとか、楽だからとかあるだろうけど、そういう自分に都合の良い邪推をしてしまうから良くない。
洗面所に言って顔を洗うと、鏡に怪物が映っていた。欲に塗れた、ひどい姿だった。
掃除機をかけて、夕方に始まるアニメの再放送を見ていると、沙希さんが帰ってきた。
その日の晩ご飯はスーパーで買ってきた惣菜と、鮭の塩焼きだった。お風呂はいつも通り、私が先に入って、そのあとに沙希さんという順番だ。
脱衣所から出てきた沙希さんが、あのルームウェアを着ていて、ドキッとした。
十一時になると、電気を消して、二人並んで寝る。いつの日だったか、沙希さんに誘われて、沙希さんと一緒の布団で寝たことがあった。
頼むから今はやめてくれと私は願った。
今、一緒の布団に入って、暗い洞窟の中で、その香りと、その気配、そして声を感じてしまったら、私は耐えられなくなってしまい、大きな過ちを犯してしまう。
祈りながら、私は沙希さんが何も言わずに寝てくれるのを待つ。
しばらくすると沙希さんの寝息が聞こえてきて、心の底から安堵するのだった。
今朝は沙希さんと一緒に登校した。
沙希さんの出勤時間は九時だから、私よりも遅い。だからいつもは私が先に家を出るのだが、お金を下ろすのを忘れていたそうで、学校の近くにあるコンビニに行くがてら同行する形となった。
沙希さんと登校するのは入学式ぶりだ。もう桜は散っているし、あのときほど私の心は晴れやかではない。沙希さんと一緒に過ごすこの時間が嬉しいはずなのに、いつのまにか重荷のように感じてしまっている自分がいる。
まるで、回数制限のあるチケットでテーマパークを回っているかのような、いつかは終わってしまうという焦燥感に駆られて仕方がない。
気付くと、私は沙希さんを追い越すスピードで歩いていた。ハッとして振り返ると、沙希さんが不安そうな顔で駆け寄ってきているところだった。
「ごめん、怒ってる?」
そう言う沙希さんだったが、心当たりがあるような顔ではなかった。もちろん、私は怒ってなんていない。じゃあなんだと聞かれても、答えることはできないが。
「すみません、石ころを追って歩いてました」
真っ赤な嘘だった。私はあまり嘘が得意なほうではないと思う。だが、私の喉からするりと出た言葉は、常習犯の如き手際だった。沙希さんは安心したのか、パッと笑って私の隣に着いた。跳ねるような仕草は、まるで星が弾むようだ。
「ねぇねぇ、彼氏はできた?」
「入学してまだ一ヶ月も経ってないですよ? 早いですって」
「そうかなぁ、わたしは一週間で出来たよ?」
胸がギュッと萎縮する。見えない手に、心臓を絞られたみたいだった。
「沙希さんは綺麗だからモテてただけです。私は沙希さんみたいに綺麗じゃないので」
「えー? わたしはともかく、
それは沙希さんなりの励ましだったのかもしれないけど、私は素直に喜べなかった。沙希さんは「男子だったら」って言ったけど、じゃあ「女子」だったら? 「家族」だったら?
私と沙希さんを隔てているのは「性別」や「続柄」で、それ以外のものはすでに揃ってると、そういうことなのだろうか。
いや、違う。沙希さんはそういう意味で言っているんじゃない。飼い犬を可愛いと言うようなものだ。そこに愛はあれど、酸味のある感情など含まれていない。
だが、一つだけ言えるとしたら、私がもし沙希さんと同じ職場で働く「血縁関係のない」「男性」だったら、私は沙希さんに心を巣くわれることなどなかった。
「沙希さんがモテてたのは、そうやってかわいいとかカッコいいとか簡単に言うところだと思います。女の子からもモテてたんじゃないですか?」
「あ、あったあったそういうこと。友達だと思ってた子に告白されたときはビックリしちゃった」
藪をつついて蛇を出すとはこのことだ。聞かなければよかった。だが、安堵の気持ちもたしかにあった。目の前に広がる誰も踏み入れていない新雪のなかに、誰かの足跡を見つけたときのようだ。
校門の前まで来ると、沙希さんが足を止める。
「行ってらっしゃい白亜ちゃん。学校、頑張ってね」
沙希さんは視線を合わせるために少し屈んで、私の頭を撫でた。それは小学生あたりの子供にやることではないかと私は思ったが、口元に力が入らなくて声が出なかった。このままでは頬と唇が地面に落ちてしまうと思い、口元を引き締める。
沙希さんはきっと、私を愛してる。少なくとも、沙希さんの人生の中で最も大きい存在はこの私だ。うぬぼれだとは思わない。沙希さんから感じるこの温もりは、決して一過性のものではない。
沙希さんが「自慢のお母さんになる」と宣言してから二年が経った。それでもあの言葉は褪せていない。放り投げたボールは放物線を描くことなく、常に空を目指して飛んでいる。
行ってきます、も言えなかった。気付けば沙希さんはコンビニのある方角へと向かっていて、私はポツンと一人立ち尽くしていた。
沙希さんの姿が見えなくなってから、私は校門をくぐった。すると「うい」と声がして肩に誰かがぶつかってくる。声の時点で察しはついていたが、
当たり屋のようにぶつかってきた倉石さんの「うい」は「おい」の意味だろうか。それとも「ういっす」の方だろうか。おそるおそる「おはよう」と挨拶をする。
すると倉石さんはブレザーのポケットに手をいれたまま、コンビニの方角を見つめた。
「好きなの?」
「何を?」
「お母さんのこと。そういう顔してた」
思い出したのは、ショッピングモールのトイレで見た私の顔だ。目は潤んでいて、口元は呆けていて、顔は耳まで真っ赤になっている。そんな顔を、倉石さんに見られた。
だが、倉石さんが聞いているのは好きか否かということだけだ。倉石さんは真っ直ぐで邪念がない。それはあらゆる言動が直球ということで、その剛速球に足が竦んでしまうこともある。
しかし、曲がることのない純粋さに助けられることもたしかにあった。
もしかすると、私はもう一人で抱えきれなくなっていたのかもしれない。この気持ちは隠すべきだ。でも、いっそのこと誰かに聞いて欲しい。罪人が自らの罪を自白する気持ちが、今になって分かる気がする。
「好き」
倉石さんに「合唱好きなの?」と聞いたときのことを私は思いだしていた。そういえばあのときも、倉石さんは今の私のようにあっさりと言い放った。
「誰にも言わないでね」
「どうして?」
「だっておかしいでしょ?」
お母さんを好きだなんて。ましてや、血の繋がっていないお母さんだなんて。
人が増えてきたので、私は話しを区切って玄関へと入った。倉石さんもそれ以上は深入りしてこなかった。
靴を履き替えようと屈んでいると、頭上から倉石さんの声がした。
「
顔をあげると、倉石さんが私を見下ろしていた。
「分かる」
何に納得しているのか分からないけど、倉石さんの伏せた目が、一瞬だけ揺らいだのが見えた。
「言わないよ」
お互い靴を履き替えて、教室に向かって歩き出す。
倉石さんのことはまだよく分からないけど、たぶん、本当に言わないんだろうなということだけは分かった。
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