第5話 記憶に眠る恐怖こそ

 緩やかに始まった私の学校生活に風穴が空いたのは、入学式から一週間が経った頃だった。 私はあれから、渡辺わたなべさんグループの子たちとよく話すようになった。一緒にいる須藤すどうさんと中山なかやまさん含めて、彼女らはよく笑う人だった。すぐに信頼を寄せた私は、部活かアルバイト、どちらにするべきか相談もしていた。


 三人は中学のときから友達で、高校では渡辺さんと須藤さんは演劇部に入って、中山さんは憧れだったカフェでアルバイトを始めたらしい。困ったことに、どちら側の意見も参考になってしまい、いっそう私は迷っていた。


 そして今日も、いつも通り私は渡辺さんたちとお話をしながら昼食を食べていた。渡辺さんの席が一番後ろなので、みんなでそこに椅子を寄せて集まるのがお決まりだった。すでにクラスではそれぞれグループができていて、昼休みの陣取りも自然に組み分けされている。


 そしてちょうど、私が購買のメロンパンを食べ終わった頃だった。


喜美きみはピアノ得意なの?」


 顔をあげると、なんとあの倉石くらいしさんがポケットに手を突っ込んだまま私を見下ろしていた。右足に重心が乗っていて、傾いた身体が妙な威圧感を放つ。


 私含めて、その場にいた全員が凍り付いた。


「喜美のこと借りるから」


 いきなり腕を掴まれて愕然とする。振り払おうとしたが、今は昼休み中で、まだご飯を食べている人もいる。あまり騒ぎを起こしたくないし、ここは大人しくするべきだ。


 渡辺さんたちは連行される私を見てぽかんとしていた。私はそのまま廊下へと連れて行かれた。廊下を歩き、階段の踊り場までやってくる。人通りはあるので、そこまで静かな場所ではないが、通る人のほとんどは上級生か先生なので私たちに目を向ける人は多くはない。


「ピアノ得意なの?」

「あの、それなに? 入学式のときも言ってたけど」


 倉石さんは壁に寄りかかって、靴を脱いだ。靴下を履いていないようで、露わになった足の爪はエメラルドグリーンに光っている。ルーズソックス、やめたんだ……。


喜美きみ文子ふみこ


 大きなオルガンの、余韻のような低い声だった。


「日本を代表するピアニストで、アメリカの音楽院を出たあと、ヨーロッパに移住し各地のコンクールで賞を総舐め。日本に帰国してからも数々のコンサートで活躍し、国際ピアノコンクールでは六位入賞を果たした。今後日本を背負うピアニストとして期待されていた喜美だったが、六年前に病気が発覚し、それから一年半後に亡くなった」


 踊り場に差し込む光が、ぶわっと舞い上がった埃を照らし出す。開け放たれた音楽室の窓から、ぎこちないトランペットの音が、春の風に溶けていった。


「喜美文子は、あんたのお母さんなんでしょ?」

「どうして知ってるの?」

「ピアノコンペティションJr、G級。その全国大会で、あんたが弾いてるのを見たことがある」


 壁から身体を離した倉石さんが、こちらに一歩踏み込む。かつあげでもされるんじゃないかと、思わずポケットに入った財布に触る。


 するとその手を、倉石さんが突然掴んだ。倉石さんは強引に掴んだ私の手を、ジッと見つめて、そして撫でた。


「合唱部に入って」

「が、合唱部? なんで私?」

「音楽専科の坂井さかい先生が手首を捻挫しちゃったんだ。それで、伴奏者を募集してる。部にもピアノを弾ける人はいるけど、上手じゃない」

「私だって上手じゃないよ。最後にピアノ弾いたのも、小学六年生の頃だし」

「じゃあ、なんのために自己紹介でピアノやってましたなんて言ったの? やる気ないなら言う必要ないじゃん」


 眉間にシワを寄せる倉石さんは、明らかに怒っていた。苛立ちを体現するように、裸足のつま先が上下を繰り返している。


「放課後、迎えに行く。いい? 逃げたらボコボコにするから」


 恐喝しながら私の指をなぞる倉石さんは、細い目を更に鋭くしてこちらを睨んだ。なんでこんな高圧的なんだろう。これだけ自分本位に生きられたら、きっと無敵なんだろうな。


 無敵、か。昨日、沙希さんも同じようなことを言っていた気がする。沙希さんも、無敵になりたかったって。けど、あの沙希さんと、目の前の倉石さんが同じとは私は思えない。


 結局、私の返事を待たずに倉石さんは教室に戻ってしまった。


 遅れて私も戻ると、渡辺さんたちから心配された。合唱部に勧誘されたことを話すと、三人は安心したように肩をすくめた。


 ふと、私の後ろの席に座る、倉石さんに目をやった。


 彼女はすでにイヤホンを付けて、外界との接触を断っていた。




「行くよ」


 放課後、ホームルームが終わり、先生が教壇でバインダーの整理をしている段階で、すでに私の腕は倉石さんに掴まれていた。その奇行に、クラス全員が注目していた。


 せっかくこれまで平穏な高校生活を送っていたのに。


 倉石さんはまだこれといった大きな問題は起こしていないが、すでに先生からは目を付けられているようだし、危険因子であることには変わりない。


 しかし、逃げたらボコボコにされるらしいので黙って付いていくしかない。抵抗しないと悟ったのか、教室を出て少ししてから、倉石さんは私から手を離した。


「倉石さんは、合唱好きなの?」


 目つきは鋭いし、喋り方も高圧的で怖いし、入学してまだ少ししか経ってないのにもう制服着崩してるし、毛先は巻いてるし、そんな倉石さんと合唱が全然結びつかない。私の中の合唱部は、規律に沿った良い子というイメージが強かった。


「好き」


 間髪入れずに倉石さんは答えた。そう返ってくるだろうなとは予想していたけど、あまりの速さに思わず笑ってしまう。そんな私を見て、倉石さんが眉をひそめた。


「なんで笑うの?」


 睨まれてしまったので、私は思わず顔を伏せた。


 倉石さんに連れられたのは第二音楽室だった。一番大きい第一音楽室は校舎の四階にあるが、第二音楽室は一階にある。視聴覚室と体育倉庫、それからバレーボール部の更衣室や柔道場などが隣接していて、雑多なかけ声が入り交じっていた。


「元々は第一音楽室しかなかったんだけど、吹奏楽部と部室の取り合いになったから、元々あった多目的教室を改装したんだって」


 倉石さんはそう言って、扉を開けた。元々多目的教室だということで、確かに中はそこまで広くはなかった。


 見たところ部員数は全部で十人ほどで、男子が二人だけいた。楽譜を丸めてチャンバラをしているところを、ちょうど他の部員から注意されているところだった。


 倉石さんが挨拶をする。相変わらず「ちゃす」と適当な挨拶だった。すると伸びのある声で挨拶が返ってくる。さすが合唱部、声の質が全然違う。


「ちゃす、あかりん。あれ? その子は?」

「新入部員っす」


 メガネをかけた先輩がこちらに近づいてくる。あかりんと呼ばれる倉石さんが、しれっとそんな紹介で終わらせる。いやいや、私まだ入るなんて言ってないし。慌てて口を挟もうとすると、先輩が私に気付いて、メガネの縁を持ち上げた。


「あらぁ、かわいいお嬢さん。入部希望? 希望パートはどこなのかしらん?」

「喜美は伴奏っす」


 倉石さんは、さすがに上級生相手には敬語を使うようだが、どこかぎこちない。


「ほう、ピアノ経験者か。それは心強いねぇ、よし採用! あ、言い忘れてた。私は加々美かがみ。一応部長やらせてもらってますが、権限は日に日に弱くなっていくのをひしひしと感じておりますこの頃ですよろしく」


 手を差し出されたが、まだ入部するかは決めていないので、私は手を後ろに引っ込めた。


「やだぁ、ウブでかわいいわぁ。はて、そういうば喜美って言った?」

「そ、そうですけど」

「ふーん? 喜美かぁ」


 メガネの奥の視線が、私のつま先から頭まで昇っていく。はた、と部長と目があったところで、倉石さんが割って入った。


「喜美は伴奏っす」

「さっき聞いたってぇ。あかりんってばロボットみたいだよ?」

「喜美、いいよね」


 倉石さんが振り返る。いつもは自信に満ちあふれたその表情も、少しだけ不安の色を浮かべていた。どうしてかは分からないけど、倉石さんはどうしても私に入部してほしいらしい。


 人前で歌うのは苦手なので、合唱はしたくない。でも、伴奏なら端っこで弾いてるだけだし大丈夫そうではある。


「あ、ほらほら、来た。あの子も喜美って言うのよ。珍しい名字なのに被るなんて珍しいね」


 どうしようか迷っていると、部長さんがピアノの方を指さした。指先の行方を追うと、女子部員が一人、こちらに向かって歩いてきていた。


 その人の顔を見て、全身に鳥肌が立った。


 そんな私の胸中なんて、きっとお見通しなのだろう。昔からずっとそうだった。喜美と呼ばれるその女子部員は、口元を三日月みたいに歪めて、私を見た。


「あー! 白亜はくあちゃんだぁ! 光陽に入ったんだぁ! うそお久しぶりー! 会えてうれしい!」


 犬笛のように甲高い声を聞くと、骨を直接撫でられたかのような不快感が全身を襲う。


「名字同じだからもしかしてって思ったけど、もしかして知り合い?」

「うん! 親戚同士なの! 一緒に棲んでたこともあったんだよ! ねー、白亜ちゃん!」


 声が出なかった。顔もあげられず、背中を伝う冷や汗をバレないように拭う。


 その人は、私が親戚の家に住んでいたときずっと嫌がらせをしてきた張本人、その家の次女であった喜美きみ佳代子かよこだった。

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