第6話 くしゃくしゃの入部届

 私の持っている物をことごとく破壊したこと。私がご飯を食べているとき「よくそんな図々しく人の家の飯食えるね?」と厭味を言ってきたこと。家の物がなくなると全部私のせいにしてきたこと。反論しようとすると大きな声で脅してきたこと。私が家にいるとわざとドアをうるさく締めたり足音を大きく立てたりして威圧してきたこと。


 全部覚えている。その記憶は私のトラウマとなって、今も神経にすり込まれている。この人を前にすると、とてつもないストレスに晒されて、一気に脈が速くなる。


「えー、白亜はくあちゃん無視しないでよー!」


 肩を掴まれて、顔をあげる。佳代子かよこさんがニコニコしながら「どうしたのー?」と言ってくるが、頭の中がぐちゃぐちゃになって言葉が出ない。しかし、このままでは周りの人からもどうしたのかと心配されてしまう。まさかこの人に昔嫌がらせを受けていました、なんて告発なんてできないし、したくもない。


 一度深呼吸をして、声が震えないように祈りながら、口を開いた。


「ひ、久しぶり、です。佳代子さん。二年ぶりくらいですか」

「うん! すっごく可愛くなってたからビックリしちゃった! 合唱部に入るの?」

「えっと、どうしようか迷っているところです」

「そうなんだ! 私的には入ってほしいかもー! 白亜ちゃんと一緒に部活できたら絶対楽しいもん!」


 佳代子さんは一貫して友好的な態度だった。あの日の記憶が、少しだが薄れた気がした。


 もしかしたら佳代子さんも、年数が経ったことによって丸くなったのかもしれない。佳代子さんにとって、自分の家にいる家族じゃない存在が煩わしかっただけで、そうでない私には嫌悪感を抱く必要はないのだろうか。


 あんなに嫌いな人間だったのに、こうして歩み寄られるとほんの少しだけ好意を持ってしまうのは、きっと私の悪いところだ。人を嫌うのは、案外体力と気力がいるのだと、初めて実感する。


「じゃ、じゃあ、入ります」

「ほんとー? やったぁ! 部長ー! 白亜ちゃん入部するってー!」


 佳代子さんが心底嬉しそうにしていたので、何故か私も、いいことをした気分になる。


 私はカバンから入部届を出して、記入欄に自分の名前を書いた。


朱莉あかりちゃん、白亜ちゃんと友達なんだ! ねぇねぇ、白亜ちゃんってクラスだとどんな感じー?」


 私が入部届を書いている間、佳代子さんが倉石くらいしさんに話を振った。


「知らないっすね。話したのは三回なんで」

「そうなんだー? でも、よかったね白亜ちゃん! 友達ができて! ほら、白亜ちゃんって、ちょっと訳ありでしょ?」


 ぞわ、と毛が逆立った。この声だ、と私の記憶が叫んでいる。


 佳代子さんは、指を絡ませ、演技かかった声で言った。まるで心配するように、哀れむように。


 その場にいた部長も、いつのまにか来ていた他の部員も「どういうこと?」と不思議そうな顔をする。そんな周りの様子をめざとく感じ取った佳代子さんが、わざとらしく「だってぇ」と切り出した。


「白亜ちゃんの両親ってもう亡くなってるからぁ、全然知らない女の人と二人暮らししてるんだよね? あ、亡くなったお父さんの愛人だっけ? その人もまだ二十歳だから、大変なんだよねぇ」

「二十三歳、です」


 訂正する必要はなかったかもしれない。後悔したのもつかの間、佳代子の声が一段と大きくなった。


「あ、そうだった! でも、あんまり変わんないよー! すっごく生活だって大変なんでしょ? 服とか全然持ってなかったもんね、でも、しょうがないよ、そんな家庭環境じゃ。あ、そう考えると合唱部ってちょうどいいよね! だって運動部と違って必要なものがないでしょ? 部費だけ払えばいいだけだし、白亜ちゃんにピッタリだよ!」


 佳代子さんが私の手を掴んで、ぶんぶんと上下に振った。


「私ね! 白亜ちゃんのこと応援してるの! 家族でもない人とずっと暮らすなんて、私には絶対無理だもん! でも白亜ちゃんとあの女の人は一生懸命生きてるんだもんね! そうだよ、必要なのはお金じゃないよね! 私、そんなあなたたちからいつも元気を貰ってるんだ!」


 悪魔の顔をした天使と、天使の顔をした悪魔。きっと、本当に人を苦しめられるのは、後者なのだろう。妙な納得と同時に、人間の恐ろしさと、醜さを全身で感じる。口の奥まで乾燥して、喋ろうとすると喉が張り付く。


 私は思わず咳き込んでしまった。血反吐が出ないだけ、上出来だと思いたい。


「朱莉ちゃんは知ってたー? 白亜ちゃんの家庭環境」


 佳代子さんは傍聴していた倉石さんに話を振った。ここで倉石さんが「知らなかった」と言えば、佳代子さんは「え!? どうして知らないの!? 白亜ちゃん、わざわざ隠さなくていいのに!」と言うに違いない。


 実際、そういうことが中学の頃は何度もあった。佳代子さんは常に、自分を満たしてくれる餌を探して回っているのだ。


「知ってますけど。入学式のときに見たし。若いなって思ってた。で、それがなんすか?」


 しかし、倉石さんは相変わらずのぶっきらぼうな声でそう返した。


「……あっそ」


 つまらない、と言った感情を隠しもしないで、佳代子さんは相槌を打つ。それから「せんせー! お疲れ様ですー!」と佳代子さんが音楽室に入ってきた顧問の坂井さかい先生に駆け寄っていった。


 気付けば、握りしめていた入部届がくしゃくしゃになり、手汗で濡れていた。


「あの、倉石さん、隠してたわけじゃなくって」

「入部しないの?」


 よく言えば一貫している、悪く言えばそれしか見えていない。倉石さんから見たら、私の身の上話なんてどうでもいいのかもしれない。倉石さんの目的は、ただ私を入部させること。


 後ろめたいと気持ちになっていた自分が、途端に恥ずかしくなった。


 それと同時に、倉石さんが羨ましくなる。


 どうして倉石さんがそこまで私にこだわるのかは分からない。だけど、今のこの人にはきっと、敵なんかいないのだろうなと思った。敵が存在しない、その世界の一片だけでも垣間見てみたい。


 そんな気持ちが、強くなっている。


 入部届を広げて、部活名に「合唱部」と記入する。


 保護者の欄には「中村なかむら沙希さき」と書き込んだ。


 すると、倉石さんが後ろから私の入部届をひょいと奪い取った。


「保護者ってわざわざ書いてあるってことは、珍しいことじゃないってこと」

「え?」

「当たり前だったら保護者じゃなくて、親名って書いてある」


 それだけ言って、倉石さんが入部届を坂井先生に叩きつけた。しばらく話し合ったあと、入部届を持って倉石さんが返ってきた。


「本人からじゃなきゃ承諾できないって」


 それはそうだろうと思った。倉石さんは納得いっていない様子で首を傾げていた。


 少しだけ迷ってから、私は倉石さんから入部届を受け取って、坂井先生に提出した。


 この合唱部には、私のトラウマである、親戚の喜美佳代子がいる。


 本当は、入りたくない。だって怖い。怯えるなって自分に言い聞かせても、記憶に残る嫌な光景は、私の意思とは無関係にフラッシュバックする。


 それでも入部を決めたのは、さっきの佳代子さんの言葉が許せなかったからだ。


 私のことはどれだけバカにしても構わない。だけど、沙希さんのことまで悪く言われるのは嫌だ。私が弱いせいで沙希さんまで巻き添えになるのなら、私は強くならなければならない。


 良い子でいるだけじゃ、きっとダメなのだ。


 とりあえず、一週間の仮入部をすることになった。坂井先生や、他の部員の人たちは私を歓迎してくれた。佳代子さんも「やったー!」と喜んでいた。餌に食いつく虫のように。


 倉石さんはというと、すでに楽譜を持って、練習を始めていた。   

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