第7話 不変の白昼夢

 土曜日の昼は、沙希さきさんのお母さんである、明美あけみさんがアパートに顔を出してくれた。


 明美さんは、父が生きていたときも時々やってきて、地元の伝統料理だという煮物を持ってきてくれた。今年で還暦を迎えたらしいが、そうとは思えないほど綺麗で、紫色のアイシャドウと、柚色のシュシュが印象的な人だった。最近スマホアプリにハマって課金までしてしまったと、得意気に話す明美さんは実年齢よりも若々しく見える。


 明美さんは、沙希さんと私の父との関係に対してあまり口を出さなかった。「本人がいいならそれでいいんじゃない?」というのが明美さんの口癖で、それに対して沙希さんは「責任は全部自分で取れってことだよ。こわー」と肩を竦めていた。


 そんな明美さんとは違って、沙希さんのお父さん、直司なおしさんは沙希さんと私の父の関係をひどく非難していた。私の知らない場所で、いろいろと揉めたらしく、父の葬式以来、直司さんの顔を私は見ていない。


 これから登山に行くという明美さんを見送ってから、沙希さんと煮物をよそった。筍や里芋など、普段はあまり食べない食材がふんだんに入っていて、口に入れるとなんだか優しい味がした。


 それから一緒に食器を洗う。沙希さんが洗剤を付けて、私が水荒いをする。静かな休日の昼間に、カチャカチャと食器が重なる音が鳴る。「食器洗い機買う?」と沙希さんは言うけれど、私はこの瞬間が好きだった。


 小さい頃はピアノをやっていたこともあって、指を酷使する作業を禁止されていた。食器洗いもその一つだった。そんな私だったが、ドラマや映画に出てくる、夫婦や恋人が共同作業の一環で食器を洗うシーンが好きだった。好きな人と一緒に食器を洗うのが、私にとっての密かな憧れになっていた。


 洗濯物を回している間、やることがなくなったので、私はドラマの再放送を眺めながら、片手でスマホを弄っていた。メッセージアプリでは渡辺わたなべさんたちのグループが一番活発に動いていて、こういった休日でも誰かが連絡を入れる。今日は猫カフェに行ってきたという須藤すどうさんが、猫の写真を貼り付けていた。私も反応をしようかと思ったが、どうしてかためらわれた。それから1分もたたずに渡辺さんがスタンプを送っていた。それからようやく、私も「かわいい!」と返事をする。


 私はまだ、渡辺さんたちと個人でのやりとりをしたことがない。仲良くはしてもらっているけど、まだどこか距離があるように感じる。もしかしたら私の存在は、三人にとって邪魔になっているのではないだろうかという気さえしてくる。


 一対一の関係も、これから作ったほうがいいのかもしれない。ふと、倉石くらいしさんの顔が頭を過った。


 あれから私は、仮入部として二日ほど合唱部の練習に参加させてもらった。私が伴奏者希望ということは、すでに倉石さんが顧問の坂井先生と部長に言っていたようで、発声練習に混じってピアノを弾かせてもらった。


 久しぶりに叩く鍵盤はとても重く感じられた。昔の感覚は、ほぼないに等しい。自分で弾きながら、まだ衰えていなかった耳だけが、自分の演奏を下手だなぁと呆れて聞いていた。


 一年生の部員は私と倉石さんしかいない。だから自然と、倉石さんと一緒に部活に行ったり帰ったりしてたけど、たいした会話もしてないし、連絡先も交換してなかった。


 そもそも倉石さんと友達になったとしても、どんなやりとりをしているのか想像もできない。 洗濯機が止まった音で、まどろみかけていた頭が醒める。


 テーブルに顔を伏せていた沙希さんは、どうやら眠ってしまったようだった。


 洗濯物を取りにいくついでに、沙希さんの顔を覗き込んだ。沙希さんはいつも、そのビー玉みたいに大きい瞳を輝かせているが、顔を伏せるとながいまつ毛が暗幕のようにその瞳を覆う。その表情が、私はたまらなく好きだ。私の身長が低いせいで、こういうときにしかお目にかかれない。


手に顔を置いて、ぷに、と形を歪ませた頬もまたかわいい。


 一対一の関係を作るのは、まだ先でいいかもしれない。私の頭は、その大半が沙希さんで埋め尽くされている。沙希さんに対する大きすぎる感情は、沙希さんとの幸せな妄想と、不幸な想像を無限に沸き立たせてくる。


 嬉しくなって、興奮して、勝手に落ち込んで、泣きそうになっての繰り返し。だけど、これは一人じゃなきゃできないことだ。誰に相談できるものでもない。そう考えると、今くらいの人間関係がもっとも適しているのかもしれない。


 私の気配に気付いた沙希さんが、目を開ける。


「家にあるコーンフレークを誰かに食べられる夢見た」

「コーンフレークなんておいてないですよ」

「そうだよね」


 顔をあげた沙希さんは、右の頬だけ朱くなっていた。


「洗濯物干したら、買い物いこっかな。白亜ちゃんもいく?」

「はい、行きたいです」


 ただそれだけで、私の足は大きく浮き立つ。雲の上を歩くみたいな、不確かな感覚のまま洗濯物を干した。


 出かける前は、必ず洗面所に明かりが灯る。化粧台の照明は、部屋の照明よりも白く、そして強く発光する。いつもとは違う光が洗面所から漏れ出す。出かける前の一瞬の光景。


 先に準備を終えた私は、洗面所から漏れ出るそんな光を見て嬉しくなっていた。飼い主がリードがあるところに行く度に、チャカチャカと走り回る犬の気持ちがちょっとだけ分かった気がする。


「準備オッケー! じゃあ行こっか!」


 準備を終えた沙希さんが、車の鍵を取る。チャリンと鳴った音に、私も駆け寄る。


 沙希さんの車に乗り込むと、独特の香りが鼻腔を着く。どこか、よもぎにも似た香り。沙希さんの香りではない、あくまで沙希さんの車の香りという、唯一無二のそれに、頭が溶かされそうになる。


 私はこれから、沙希さんとお出かけをする。その事実が、快楽物質のように脳内を駆け回る。


 こんな日常を、なんの変化もなく過ごせたら、私はきっと人間になれる。


 そんな確信が、今の私にはあった。

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