第8話 甘酸っぱい不協和音
「
それは、ちょうど
私と沙希さんはショッピングモールの中にある、スムージーを売っているお店に来ていた。私の頼んだバナナミルクが先に出来て、列からはみ出て待っていると、突然後ろから声をかけられたのだ。
振り返ると、
私はビックリして「こんにちわ」と言うのがやっとだった。すると隣の男性もにこやかに挨拶を返してくれた。切れ目が印象的な男性で、落ち着きのある低い声をしていた。彼氏さんかな? と思ったが倉石さんが「パパと買い物中」と言ったので、納得する。
「夏物のカーペットを見にきたの」
「そうなんだ」
そんな話をしているところに、メロンヨーグルトを片手に持った沙希さんが駆け寄ってくる。沙希さんはメロンヨーグルトのスムージーが大好物で、この近くに寄ると必ず立ち寄って買うのだ。そうとう楽しみにしていたのか、こちらに駆け寄ってくる間にもストローに口を付けて飲んでいる。
はた、と私が誰かと話をしていることに気付いた沙希さんが一瞬動きを止めて、慌ててストローから口を離した。
「あ、えっと」
「私も、お母さんと買い物中」
沙希さんが自分をどう紹介するべきか困っているようだったので、私が代わりに説明をする。沙希さんはときどき、自分を母親だと言うのをためらうことがある。
「そうなんだ、いいね」
倉石さんはそれだけ言うと、父親の腕に抱きついて「終わったら映画観たい」と甘えるように言う。そんな表情もできるんだ、と私はまるで自分が言われたかのようにドギマギしてしまった。
「じゃあね」
「う、うん。また学校で」
倉石さんの父親は軽く会釈をしたあと、私と沙希さんを交互に見た。「今後とも娘をよろしくお願いします。言葉足らずの娘ですが――」喋っている途中で、倉石さんに引っ張られ、人混みの中に溶けていく。
「お友達?」
そんな二人の背中を見送ってから、沙希さんが何故か嬉しそうに聞いてくる。
「倉石さん。同じ部活の子」
「そうなんだ。じゃああの子も合唱部? へぇー、なんだか意外だね」
「あと、足を机に乗せてた子」
「あー、なるほど。なんか納得しちゃった。カッコいいもんね」
沙希さんはメロンヨーグルトをずずっと吸うと、ぷはっと息を吐いた。
「それにしても、イケおじだったね」
「イケおじ?」
「倉石ちゃんのお父さん。カッコよくなかった?」
たしかに、倉石さんの父親は掘りが深くて、西洋人のような顔の作りをしていた。引き締まった眉は頼もしく、おでこを出した髪型は男らしい。私もそう思う。でも、なんだか心の奥がざわざわする。
「沙希さんって、ああいう人タイプですよね」
「え」
「父もよく、そう言われていたので」
私の父はよく、近所のおばさんたちから「いい男」と評されることがあった。小学校の先生たちの間では「渋い」と揶揄されていたこともある。倉石さんの父親と、私の父は顔のタイプが似ていた。
「えー? そうかな、たまたまだよ。多分」
語尾を濁すように、沙希さんはメロンヨーグルトを飲む。私もバナナミルクを飲みながら、倉石さんたちの歩いて行った方角を眺めた。
「仲よさそうだったねー。今の子ってあれくらい距離感近いものなのかな」
沙希さんは興味深そうに思案していた。沙希さんだって今の子じゃないですか、と口に出そうになったが言わなかった。
でも、倉石さんとその父親の距離が近いのは私も思った。正直、腕に抱きついている姿を見たときは彼氏さんだと思ったし、父親だと言われたときは驚いてしまった。ただの家族なのに、人前で抱きついたりしていいの? と心配にもなった。
「沙希さんはどう思いますか? ああいう距離感」
私はまるで、自分の容体を聞いている気分になった。はたして私の身体に潜む病原体は、良性なのか、悪性なのか。自分の未来がこれから宣告されることに、恐怖と祈りが混ざり合う。
「やってみる?」
突然選択を迫られて、手に汗が滲む。
……どっちだ。
どっちが正解なんだ。
この選択が私の今後を決定づけることは、なんとなく想像できた。しかし、私は自分でも驚くほど、迷わずに口にしていた。
「はい」
言うが早いが、沙希さんが私の腕に抱きついた。周りには食べ物の屋台がたくさん建ち並んでいるというのに、沙希さんから香るバニラの香りは、どんなものにも負けず、溶けず、私の元に届く。それは私と沙希さんの、物理的な距離を表していた。
「あ、あの、沙希さんっ」
本来、私はどうやって喋ってたっけ。自然な会話というものが、頭から吹っ飛んでしまう。どう考えても動揺していた私だったが、沙希さんはいつもと変わらない声色で言う。
「逆だったかな」
てっきり、私が沙希さんに抱きつけばいいのかと思っていたから、急に沙希さんに抱きつかれて私はパニックになっていた。こくこく、と赤べこみたいに頷くしかなかった私を見て、沙希さんが微笑む。
どうしよう。私いま、絶対顔が真っ赤になってる。まるでのぼせたみたいに、耳まで熱い。心臓が喉まであがってきたかのように、激しい脈動を感じる。
お互いに腕を絡ませて、大好きなスムージーを飲みながら、行く当てもなく街をぶらつく。こんなのどう考えたってデートなのに、沙希さんの口からデートという単語が出ないことがまた私のドキドキを加速させた。
ごっこ遊びと言われたら私だって役に没頭できるのに。今のこの状況は、なに? なんで?
厭世的な理由と、楽観的な妄想が混ざる中で、私は周りを見渡した。
誰も、私たちを見ていない。後ろ指を指す者も、非難する者も、野次馬と化す者もいない。腕を抱き合う私と沙希さんは、この人混みに間違いなく溶け込んでいる。
普通、なの?
家族であっても、これくらいの距離感、当たり前のこと?
だんだんと麻痺していく感覚。歯止めが効かなくなりそうで、私は思わず沙希さんから手を離した。
「あの、お手洗いいってきてもいいですか」
「うん。あ、バナナミルク、持つよ」
「飲まないでくださいね」
「飲まないよー」
そんないつも通りの会話を交わしながらも、私の鼓膜はぐわんぐわんと鳴っていた。
トイレに駆け込んで、呼吸を整える。目を瞑って、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
個室から出て鏡に映る自分を見て、私は途端に恥ずかしくなった。
目はとろんとしていて、眉は困ったように下がっている。頬は案の定真っ赤になっていた。口から漏れる熱い吐息が視認できるほど粘っこい。
私は今まで、ずっとこんな顔だったの?
私はずっと、こんな顔で沙希さんと喋ってたの?
こんなのもう、まるで。
思考を断絶するために、冷水で顔を洗った。少しだけ、頭がクリアになった気がする。目が覚めるとは、このことだろうか。
私は息を吐いて、表情を作り直す。
沙希さんの元に戻ると、バナナミルクが少しだけ減っていた。
「フリかと思って」
ぺろ、と舌を出した沙希さんを、あくまで俯瞰的に眺める。自分の感情をセメントで埋めるように、固く閉ざす。
「はい、おわびに飲んでいいよ」
沙希さんがメロンヨーグルトを渡してくる。最初からそう決めていたみたいに。
だから、私のバナナミルクを飲んだ? 私にメロンヨーグルトを飲ませたかった? 口を付けたストローで? 分からない。そんな遠回しな、甘酸っぱい恋の幕間のような意思があるのだろうか。
沙希さんからもらったメロンヨーグルトを飲む。ストローに唇が付かないよう、噛むようにした。どろりとしたメロンヨーグルトが、出かかった言葉ごと胃に落ちていく。沙希さんが「美味しいでしょ」と言ったので、私は頷いた。味なんてぜんぜん分からなかった。
「そういえば
沙希さんはもう、私の腕に抱きつく素振りを見せなかった。安心すると同時に、腕に当たる冷たい空気を過敏に感じ取ってしまう。
「私は伴奏なので、いらないと思います」
「でもポーチとか、楽譜用のクリアファイルとかいらない? せっかくなんだから、かわいいの探そうよ。なんか前におにぎりがいっぱい書いてあるクリアファイルあったよ」
「それかわいいですか?」
「えーかわいいよ」
他愛のない会話だけが、私にとっての清涼剤だった。
気付けば、鼓動がいつもの速さに戻っていた。
「そっか、でも伴奏か。ピアノだよね?」
「そうですね」
「みんな家で自主練とかするのかな。うちは……そこまで防音じゃないからなぁ。買ってあげたいけど」
「ピアノって高いですよ。電子だって最近のは値上がってて。私のことはあんまり気にしないでください」
沙希さんがグランドピアノでも買いそうな雰囲気だったので、私は釘を刺す。貯金や未来の資金まで崩して私に協力なんかしなくていい。
私と二人暮らしを始めてから、沙希さんのコスメは様変わりした。百均コスメの動画を見て節約生活を始めた沙希さんを見るのは胸が痛かった。私のことで手一杯で、学生時代の友達ともあまり会えなくなったということも私は知っている。
沙希さんは私のために、いろいろなものを犠牲にする。十万円以上もするグランドピアノのために、自分の昼食を抜いたりしてもおかしくない人だ。
わかったよぉ、と拗ねたように取り出しかけていた財布をしまう沙希さん。なんとか出費は抑えられたようでホッとする。
「白亜ちゃんのお母さんって、今思えばすごいピアニストだったんだよね」
沙希さんが思い出したように言った。
「まぁ、すごいかとうかは分からないですけど」
「
「尊敬は、してますけど」
私の母は良くも悪くも、ピアノ一筋の人だった。人生で一番古い記憶を挙げろと言われたら、私はきっと、母の奏でる鍵盤の音を挙げるだろう。母はどんなときでもピアノを弾いていて、私が遊びたいと言っても、一緒に演奏しようとかそういうのばかりだった。一度、業界の関係者から「ピアノバカ」と呼ばれていたのを今でも覚えている。
「ねぇ、白亜ちゃん。わたしって」
沙希さんは、憂いにも似た表情を一瞬だけ浮かべた。
しかし、続く言葉はなく、何事もなかったかのように沙希さんは歩き続ける。
入部届を出したあの夜。私が合唱部に入るということを伝えると、沙希さんはすごく喜んでくれた。沙希さんはその夜、ずっと高校生の合唱コンクールの動画を見ていた。まるで自分のことのように勉強する沙希さんに「私伴奏希望なんです」と言うと、沙希さんは「絆創膏?」と首を傾げた。
昔ピアノを習っていたことを言うと沙希さんは驚いていたが、私はそれ以上自分の過去を洗いざらい話すことはしなかった。ピアノコンクールで賞を穫るため死に物狂いで弾いていたことも、どうしてピアノを辞めたのかも、話したらきっと沙希さんを心配させてしまう。
沙希さんの知らない私の過去を話せば話すほど、沙希さんとの間に溝ができてしまいそうで怖かった。
ショッピングモールでの買い物は夕方まで続いた。沙希さんの言っていたおにぎり柄のクリアファイルと、夏物の服の入った袋を両手にぶら下げながら帰路に就く。
帰る途中で、おみやげ屋さんの前にストリートピアノが設置されていることに気付いた。
一組のカップルが、今から弾くらしい。どちらも上手で、おそらく経験者であろうことは演奏を聴いただけで分かる。とはいっても、粗のある部分は多く、音の強弱はすべて偶然によって作られており、そこには技巧も感情も、一切乗っていない。
沙希さんも演奏に気付いたようで、足を止めた。
弾いてみる? と言われてしまうかもしれない。そんな恐怖を抱えながら、私は前を見続けた。沙希さんに顔を見られているという自覚はありながらも、目を合わせることができなかった。
「帰ろっか」
しかし沙希さんは、そんな私の手を引いて、演奏から遠ざかっていく。
それでも、背中越しに聴こえてくる外れた音階が、なかなか頭から離れてくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます