第23話 薄命の中毒症状

「は、はい。どうぞあがってください」


 突然の訪問に驚きはしたが、沙希さきさんの無事が確認できただけで膝から崩れ落ちそうなほど安堵した。


 でろんでろんに溶けている沙希さんの酔い方が、無事と表現していいものなのかは分からないけれど。


 リビングに招き入れると、小林こばやしさんは沙希さんを半ば投げ飛ばすみたいに座布団の上に放り投げた。


「ごめんはっくー、水持ってきてもらっていい? できればコップなみなみに」


 酔ったときは水がいいのだと、そういえばどこかで聞いたことがある。私は急いでキッチンに走った。


 コップに水を汲んで沙希さんに渡したが、沙希さんは「やだぁ」と子供みたいな言い方で突っぱねる。ぐりんとうつ伏せになってしまった。右足には、玄関で脱ぎ損ねた靴が履かれたままだ。


 こんなに酔った沙希さん、初めて見た。


 というよりも、お酒を飲んでいるところも、私は見たことがない。


 小林さんは沙希さんの頬をぺちぺち叩きながら、呆れたようなため息を吐いた。


「だから飲み過ぎないでって言ったのに。まぁ、吐かないだけ偉いけど」

「あの、沙希さんは今日どこかに出かけていたんですか?」

「うちとちょっと飲みに行ってたの。先輩が誘ってくれたんだけど、そんなの初めてだったから浮かれちゃって、うちが飲み過ぎたのも悪いんだけど」


 そうは言うが、小林さんは沙希さんと違ってそこまで酔っているようには見えない。多少顔は赤いが、話し方は私がピアノを弾かせてもらいに行ったときのままだ。


「うー、わたしだって、わかってるのにぃ。ねぇ? こずえもなんか言ってよ」

「あーもう、分かったんでくっついてこないでください」


 ひっついてきた沙希さんを小林さんが突っぱねる。床に転がった沙希さんの、とろんとした目が私を見る。


「あれ? なんで白亜はくあちゃんがここにいるのー? ダメだよぉ、十八歳以上はにゅうてん禁止なんだよ」

「沙希さん、沙希さん。ここはおうちですよ。アパートです」

「そうなんだ。早いねー」

「早いっていうか」


 沙希さんが芋虫みたいに身体をもぞもぞさせたあと、突然ズボンを脱ぎ始めたので小林さんが慌ててそれを止める。


「外だと思うと、ゾッとするでしょ?」

「そ、そうですね」

「はっくーはこんな大人になっちゃだめだぞ」


 二人して沙希さんを見下ろしていると、沙希さんがにへらと笑って、さっきは飲もうとしなかった水を突然飲み出した。半分ほど口から零れて喉を伝っている。白いシャツの胸元があっという間に黒く染みていた。


「沙希さん、ちゃんと飲まないと」

「えー? 白亜ちゃんが飲ませてよぉ。はい、あーん」


 沙希さんが口を開ける。


 それが本気なのか、冗談なのか分からず私はその場で固まってしまった。


 どうすればいいんだろう。水をまた汲んできて、飲ませてあげる? でも、あーんって、水を? 


 考えている間に、沙希さんは壁に寄りかかってスースーと寝息を立て始めてしまった。小林さんの方を見ると、困ったように肩を竦めている。


「あの、小林さん。ありがとうございます。沙希さんをここまで運んでくださって」

「いいよ別にー、終電までまだ時間あるし。それよりはっくーは大丈夫? もう寝る時間じゃない?」

「十一時には寝ていますけど、多少は前後するので。見たいテレビがあるときは十二時まで起きてるときもあるので平気です」

「そっかそっか。それは先輩と見るの?」

「はい。先輩はお笑い番組とか、バラエティが好きなので。もちろん私も好きですけど」

「寝る前に笑っちゃうとなかなか寝付けないときない?」

「あ、あります。そういうときは沙希さんとお話しながら眠くなるまで待つんです」

「うわー、いいなー! 毎日友達とお泊まりしてる感じだね!」


 小林さんは私の話にくすくすと笑って、部屋を一周見渡した。


「綺麗な部屋だね」

「沙希さんがいつも、綺麗にしてくれるんです」

「埃も落ちてない」

「仕事から帰ってきたら必ず掃除機をかけるんです。沙希さんは」

「あの先輩がねー」


 そういえば、この人は沙希さんの後輩なのだ。聞くところによると高校時代、同じバトミントン部だったのだそうだ。


 私の知っている最も古い沙希さんは、父が交際相手として私に紹介してきたときの沙希さんだ。あれは私が中学生のときだから、今から三年ほど前。


 つまり私は、三年前までの沙希さんしか知らない。


 だが、小林さんはそれよりもっと前。私が知らない頃の沙希さんを知っている。


「終電が十一時半なんだけど、それまでちょっと休んでいってもいいかな」

「もちろんです。あの、ジュース飲みますか?」

「太るからやめとく! 十一時になったら帰るからさ」


 聞いてみたい。


 私の知らない沙希さんのこと。


 高校時代の知人ということは、私の父と、沙希さんの関係だって知っているはずだ。もちろん、教師としての父のことも。


「あの、小林さん」

「んー?」

「沙希さんって、高校生のときはどんな人だったんですか?」

「高校の頃はねー、前も言ったけど、とんだじゃじゃ馬だったよ。ワガママだし、すぐ怒るし。反論されると泣くし。でも、後輩思いのところはあったし、みんなには慕われてた。あとやっぱ可愛いじゃん? もうそれだけで全員虜よ。うちも完全に顔面にやられてた。まぁそれも、途中までだったけど」

「途中まで? どういうことですか?」


 小林さんはすぐには答えなかった。難しい顔をしていたので教えてくれないのかと思ったが、しばらくして小林さんは口を開いた。


「オーバードーズって知ってる?」

「すみません、知らないです」

「謝らなくていいってー。知らなくていいものだし。まぁ簡単に言えば薬を大量に飲むことなんだけど、先輩、どこで覚えたんだが知らないけどそれやっちゃってさ。もう大問題。バド部の大会も県大会まで進んだのに出場も停止になるし、停学処分も喰らうしで」

「え、えっと、待ってください。その薬って、いわゆる、よくないものだったんですか?」


 そのオーバドーズというものを詳しくは知らないが、よくテレビなどにも出てくる白い粉のようなものを連想してしまって、背筋が凍る。しかし小林さんは、首を横に振った。


「いや、飲んだのはあくまで普通の風邪薬。でもそれを大量に、本当に、普通じゃ考えられないくらに飲むんだよ。基本的には身体が拒否して、吐いたり、気を失ったりする。もちろん、最悪命に関わることもあるから、絶対やらないほうがいいことなんだけど。先輩はどうしてか、それにハマっててさ。何回もそれで救急車に運ばれてた。ちょっと怖いくらいだったな」

「あ、あの、ちょっと待ってください」


 そのオーバードーズというものに心当たりがあって、私は脚立を持ってキッチンに向かう。一番上の棚を開けて、大量に買いだめしてある咳止め薬と睡眠薬を、小林さんに見せた。


「うそ」


 小林さんは目を丸くした。驚きというよりは、ショックを受けているような表情だった。


「もうしないって言ってたのに」

「あ、あの、これって」

「最悪。捨てて捨てて!」


 言われるまま、合計二十箱もあった薬をゴミ箱に放る。持ってみて分かったが、改めてすごい量だ。これを一気に服用するだなんて、考えただけで、冷や汗が出てくる。


 そんな異常行動を沙希さんがしていた? 全然、現実味がない。


「まだ封開いてなかったね。ギリギリセーフってところか」


 もしここで捨てていなかったら、私の知らない場所で、これが全て沙希さんの身体の中に入っていた? 心臓がバクバクして、目眩がしてきた。思わずその場で屈んでしまう。


「なんで?」


 つい出た独り言だったが、小林さんは私の背中をさすりながら答えてくれた。


「ストレス発散、現実逃避。高校生だった先輩は、詳しい期間は分からないんだけど、ちょっと、よくないバイトをしてたみたいで」


 リビングに戻ると、沙希さんはまだ寝息を立てていた。


 小林さんは沙希さんの事情を語ることに罪悪感があるのか、寝息を立てている沙希さんを一瞥した。


「いわゆる、そういうお店。年齢を偽って働いてたみたい」


 察しは付いた。そして、小林さんが終始、それを伏せ、明言しなかったことに救われる。もし直接的な言葉で表現されていたら、私はきっと立ち直れなかった。そういった仕事がよくないことだとは思わない。いろいろ事情はあるだろうし。ただ、年齢を偽ってまで沙希さんがそういうことに執着しようとしていたという事実が、ショックだった。


「一応、他の人には内緒ね。これは先輩から直接聞いたことで、先輩が他の誰に言ったかまでは分からないから」


 もちろん、他言するつもりはない。


 これまでずっと一緒に過ごしてきた中で、沙希さんが一度も私に明かさなかったということは、知られたくない過去なはずだから。


「多分、オーバードーズに手を出したのも同時期なはず。そういうお店で働いてたのはほぼ一ヶ月くらいだったと思う。途中で親にバレて、そうとう怒られたらしくて。特に父親にはものすごく怒鳴られて『お前はうちの娘ではない』とまで言われたんだって。それ以来、父親とは仲が悪いみたいで。父親の話、先輩から聞いてない?」

「えっと、たまに耳にしていました。私の父と交際を始めたときも、母親の明美あけみさんは好きにしたらいいと言ってくださったらしいんですけど、父親の直司なおしさんだけは最後まで反対して。結局沙希さんは、直司さんには内緒で父と同棲を始めたんです。それからはほぼ絶縁状態らしく、明美さんはちょくちょくアパートに顔を出してくれるんですけど、直司さんとは、父の葬式以来顔を合わせてないです」

「おかあさん?」


 ふと、沙希さんが寝言のような喋りかたで相槌を打つ。しかし意識はないらしく、そのままこてん、と床に伏せってしまった。


 近くにあった毛布を沙希さんにかける。


 子供のような純粋な寝顔。


 小林さんの話を聞いた今でも、まだ信じられない。高校生の沙希さんが、そんな状態だったなんて。


「あの、小林さん。その、オーバードーズというのは、いわゆる、ストレス発散、現実逃避として使われることが多いと言いましたよね」

「基本はね。周りに影響されてやってみるなんて子もいるみたいだけど」

「高校自体に、そういうことをしていたのは、理解できます。小林さんが教えてくれた通り、いろいろあったんだと思います。でも、さっき棚にあったのも、あれは、オーバードーズ用の薬ということなんですよね」

「そうだと思う。そうじゃなきゃおかしい。それに、オーバードーズはやっぱり、咳止めとか、睡眠薬が使われることが多いんだって」

「じゃあ沙希さんは、今も、現実から逃げたくなるほどの何かに、追い詰められているということですか」


 小林さんが小さく息を吐いた。自覚はしてる。たぶん、そんなことを洗いざらい話す小林さんもきっと辛い思いをしている。


 だけど、聞きたい。


 現実から目を逸らしたくて薬に頼る、それも異常な量の薬に。そんな沙希さんを放ってなんかおけない。少しでも力になれるなら、なりたい。薬なんかに頼らなくてよくなるように、私がなんとかしてあげたい。


「実は、今日飲みに行ったのも、それについての相談だったんだ」


 小林さんはブルーグラデーションの髪を手でかいて、くしゃっと丸める。床に寝そべる沙希さんをじっと見つめる小林さんの瞳。それは本当に、沙希さんを思うであろう優しい光が宿っている。


 そんな瞳が、私に向く。


「さっきも話に出した、先輩の父親の話なんだけど」

「はい」

「今、入院してて。もう長くないんだって」


 まるで、風が吹いたかのようだった。


 締め切ったはずの窓の外から、身に覚えのある、今すぐ逃げ出したくなるほどの独特なアンモニアの香りが、病室の記憶を連れてくる。


「いつから、ですか?」

「二週間前くらいだって言ってた。病気が見つかったのは三ヶ月前で、そのときにはかなり進行してる状態だったって」


 進行という言葉は、私の母が亡くなる寸前にもよく聞いた言葉だ。もしかしたら、同じ病気なのかもしれない。


「沙希さんのお父さんは、直司さんは……入院してるんですよね? でも、沙希さんは、一度もお見舞いに行くとは言っていませんでした」


 私に気を遣って言わなかったという可能性もあるが、その病院の場所によっては、帰りが夜になることだってあるだろう。しかし沙希さんは、少なくとも直近の三ヶ月間で、夜遅くに帰ってくることはなかった。


「うん、そう。お見舞いには行ってないみたい。父親の近況は、お見舞いに行ってる母親からメッセージを通して聞いてたみたい」


 そこで、沙希さんがここのところ、スマホをじっと見つめていることが多かったのを思い出す。あれはもしかしたら、母親と連絡を取っていたのかもしれない。


「つい先週、治療の中断が決定して、退院することになったんだって。たぶん、実家で過ごすことにしたんだと思う。そういうの、なんていうんだったか、忘れたけど、あるみたい。で、そうなったら、短い時間、一緒に過ごしてあげたほうがいいに決まってるんだけど」

「私もそう思います。だから病院ではなく、家で過ごすことを選んだんだと思います」

「うん、でも先輩の実家ってここからだと新幹線でも二時間以上かかるから、当然、このアパートから実家まで毎日行き来なんてできない。それはうちも分かってたから『実家に戻れば?』とは言ったんだよ」

「沙希さんは、なんて……?」

「行けないって。遠いっていうのももちろんあるだろうし、ずっと仲が悪かった父親と会っても、何話せばいいか分からないの一点張りでさ。挙げ句の果てに、あっちだってわたしに会いたくないに決まってる、なんて言い出して」


 それはすごく、悲しいことだ。だって、生きている間はそういう仲違いがあってもいいかもしれないけど、死んだら、それをずっと引きずってしまう。


 死とはそういうものだ。そのときの状態を最後に、未来が潰える。だから絆も思い出も、約束も、何もかもが、時間が止まったかのように、凍結される。


「なるほどそういう相談かーって、やっと合点がいって。先輩が相談を持ちかけるなんて相当のことだろうなとは思ってたから、覚悟はできてたけど」

「結局、沙希さんは実家に戻らないんですか?」

「うちも勧めたよ。父親と過ごせるのはあとちょっとなんだから、最期まで一緒にいてあげたほうがいいですって。でも、そしたら先輩……たぶん、それが一番の理由だと思うんだけど、すっごく、思い詰めた顔で言ったんだ」


 棚に保管された大量の薬。逃げ出したくなるほどの現実。追い詰められた沙希さん。


 あの人を苦しめている要因。縛っている呪い。その正体は。


 本当は、なんとなく、分かっていたのかもしれない。


「やっぱ、やめ。言うべきじゃない。うちも酔ってるのかも」


 小林さんが時計を見て、立ち上がる。もうじき十一時だ。


「言ってください、小林さん」


 そんな小林さんの腕を掴む。


 もしかしたら、違うかも。私の思い過ごしかも。だってこれは、ただの自惚れだ。


 そんなはずはない。そんな影響を及ぼすほどの存在なはずない。


 そんな希望は、小林さんの言葉によって打ち砕かれる。


「先輩がね『白亜ちゃんを置いていけない』って」

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