第22話 酔生夢死
衣替えの季節になった。
濃いグレーのブレザーをクローゼットにしまって、リビングに向かう。半袖のワイシャツだけではまだ肌寒かったので、臙脂色のカーディガンを羽織った。
このカーディガンは以前、
人目に晒されるのが私は苦手だ。なるべく暗い色で、岩の影に擬態していたい。
リビングではすでに沙希さんが朝食の準備をしてくれていた。冷蔵庫からマーガリンを取り出した沙希さんを目が合う。沙希さんは私の顔を見たあと、カーディガンに視線を移した。
「おはよう
沙希さんは大人だから、クリーム色のほうがよかったのに、とは言わない。だってそれは沙希さんの好みであって私の趣味ではないから。
だけど、私の中で一つ疑問が浮かぶ。そもそも私は買ってもらっている立場なのだから、お金を出してくれている沙希さんの言う通りにするべきなんじゃないだろうか。
着る物も、食べる物も、沙希さんが用意してくれなきゃ私は自分で用意することもできない。
先週、
母にご飯を食べさせてもらったり、服を買ってもらったりしているときは、何も疑問に思わなかった。生きるうえで必要なものは母に買ってもらっているというよりは、必要なときに自動的に供給される人生のシステムなんだと思っていた。
両親が亡くなって、沙希さんと暮らすようになってから、私の中に遠慮というものが生まれた。沙希さんは実の親じゃないのに、学校のお金も、生活費も、すべて私に費やしてくれているという罪悪感が要因だと思う。
共働きですら厳しい家庭もあると聞く。沙希さんは私を育てるために趣味もやめて友達付き合いも減らして、コスメも必要最低限なものだけにした。そうやって自分の人生を削り取ってくれている。
私はもはや、いるだけで人を不幸にする貧乏神のような存在になり果てていた。
でも、それが親というものなんだって私は自分を納得させていた。親は無条件で子供のために生きなければならず、その覚悟があったから、沙希さんは私を引き取ってくれた。
そんな私が、親ではなく、家族ではなく、恋愛をする対象として沙希さんを好きになってしまった。そしてそれを沙希さんに伝えて、沙希さんも真剣に受け止めてくれた。
でも、沙希さんはこうして、ご飯を用意してくれる。制服だってクリーニングしてくれるし、休日はお出かけに連れて行ってくれる。
家族じゃない「好き」を望んだくせに、生きる上では家族としての在り方を望んでいる私が、だんだんと醜悪な寄生虫に見えてくる。
「白亜ちゃん、どうしたの? もしかしてよく眠れなかった?」
つい考え込んでしまった私の頭を撫でて、沙希さんが視線を合わせてくる。
目の前にある沙希さんのくりっとした瞳と、早朝だというのに艶やかな桜色の唇。今、顔を近づけたら、沙希さんは目を閉じ、受け入れてくれるだろうか。
なんで、好きを伝えたあともこんなに悩まなくちゃいけないんだろう。悩みたくないから、告白したのに。
もしかしたら私は、底なしの欲望に手を伸ばそうとしているのかもしれない。伝わっただけで嬉しかったはずなのに、私はこのぎくしゃくした日常に耐えきれなくなっている。
沙希さんのことは大好きだ。だけど、心のどこかで、いっそのことフッてほしいと思っている。そうじゃないなら、恋人になりたい。沙希さんと両想いになりたい。
どっちかにして。
「白亜ちゃん?」
気付けば沙希さんの後頭部に、手を回していた。沙希さんの頬がぽっと赤くなって、一瞬、目をそらす。
照れてくれている。これから私がしようとしていることを想像してくれている。沙希さんの心の中に、私がたしかに存在してる。
近づきたい人にようやく近づき、その人の心を巣くう。それが恋愛の醍醐味であり、甘酸っぱいその心の触れ合いが人の心を癒し、魅了する。
だけど、私の恋愛はそうじゃない。沙希さんの心の中には、すでに私がいた。沙希さんはずっと私のことを考えてくれていた。私のためだけに生きていてくれた。
最初から近い。普通の恋愛のように、目に見える過程が存在しない。
なら、この恋愛のゴールはなに? キスをしたらゴール? それとも、もっと先のこと?
それをしたら、恋愛として定義できるようになる?
なんて歪な恋愛なんだろう。まるで心の距離ではなく、身体での関係だけを参照しているような気分になる。
「夏服、かわいいですか?」
私の質問に、沙希さんは優しく微笑んだ。
「うん、かわいい。すっごく似合ってるよ」
本当はそんなもの、必要ないのに。私はこうやって、沙希さんに笑っていてもらえればそれでいいのに。自分の願望を叶えようとするたびに、迷路に迷い込む、
私は後頭部に回していた手を離して、キッチンの棚から食器を取り出した。
「早く食べましょう。食パンは焼きたてが美味しいんです」
「わかってるね白亜ちゃん。時間が経つとマーガリンも溶けにくくなるから固形になっちゃうんだよ」
沙希さんは父と暮らしていた頃から、パンばかり食べている。きっと好きなのだろう。沙希さんはトースターから食パンを取り出して、薄切りと厚切りの使い分けを饒舌に語りはじめた。
その夜、沙希さんは夜になっても帰ってこなかった。
メッセージを送ってみたのだが返信はなく、既読も付かない。しょうがないので私はコンビニで弁当を買って食べた。お風呂も先に入って、沙希さんが帰ってくるまで時間を潰そうとテレビを点けて、恋愛モノのドラマをぼーっと眺める。
すれ違った二人が駅の前で再会し、男性の方が女性の手を握ったところでエンディングが流れ始める。ふと時計を見ると、すでに十時を回っていた。
ここまで遅くなるのはおかしいし、なんの連絡がないのも変だ。
どうしたんだろう。まさか、事故にあったとか?
嫌な予感がして、テレビを消して上着を羽織る。どこへ探しに行こうとしているのか自分でも分からないけど、このまま沙希さんが帰ってこないまま一人寝ることはできない。
もし、事故にあったんだとしたら、きっと病院にいる。近辺の病院を探して回る? いや、ムリだ。一番近い病院でも、自転車で三十分はかかる。そもそも私は、車を運転できないから、移動手段がない。タクシーを使うにしても、さっきコンビニ弁当を買ってしまったせいで、手持ちが二千円しかない。これで足りるとは到底思えない。
自分の無力さに呆れる。誰かの手助けがないと、生きていけない人間なんだと改めて実感する。
一つだけ、本当に一つだけ。もしかしたら自分の力だけで生きていける方法はあるのかもしれないけど、今は考えない。あまりにも不確定だし、不安定だし、それに、海外は、やっぱり遠い。
そうこうしている間にも、三十分が過ぎてしまった。もう十時半になる。日が変わるまでに、沙希さんを探さないと。
そうやって玄関で靴を履いたとき、インターホンが鳴った。
ドアの向こうで、なにやら話し声が聞こえる。その声が、すぐに沙希さんのものだと分かると、私は確認もせずに、すぐさまドアを開け放った。
「あ、やほ。はっくー」
しかし、目の前にいたのは、
小林さんは沙希さんの高校時代の後輩で、ピアノを練習させてもらうために、私もお世話になった人だ。オーディションが終わってから、めっきり行かなくなってしまったけど。
って、そんなことより沙希さんの声がしたはずなのに、沙希さんの姿が見当たらない。
「突然でごめんなんだけど、ちょっとお邪魔してもいい? 先輩がさ、かなり酔っちゃってて」
小林さんの困ったような視線を追うと、もぞもぞと寝言のようなことを言いながら、小林さんの腰にしがみついている沙希さんがいた。
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