第21話 感覚のない指先

 帰り道、私はゆかりさんからもらったCDケースに振動が伝わらないよう、カバンを胸の前で抱えていた。


 このCDには母が出演したコンサートの音源や、レッスン中に録音したものが入っているそうだ。中にはDVDもあり、生前の母の映像もあるのだと、ゆかりさんは言っていた。


 とても大切にしていたようだったので、一度遠慮したのだが、ゆかりさんは「白亜はくあちゃんに持ってていてほしいのよ」と言って私の手をそっと握った。


「なんかごめん、ママ熱くなっちゃって」

「ううん。ご飯までごちそうしてもらって、ありがとう」


 信号が赤になったのを見て、前を歩いていた倉石くらいしさんが足を止めて振り返る。


 結局、あのあと私は倉石さんの家で晩ご飯をごちそうになってしまった。


 出てきたのはレンズ豆とベーコンのスープと、お椀たっぷりに盛られたオートミールだった。食後のデザートにはザルツブルガー・ノッケルンという大きなスフレのようなものが出てきた。ゆかりさんが言うには、このザルツブルガー・ノッケルンというのはブラームスが生涯食べ続けた大好物なのだという。


 レンズ豆やオートミールも、ブラームスが好んで食べていたものとして有名らしい。


「あんまり美味しくなかったでしょ。一応、当時のレシピのままだと薄味すぎるからアレンジはしてあるんだけど。あたしは最初食べたとき病院食かと思った」

「私は好きだったよ。薄味っていうか、さっぱりしてて食べやすいなって私は思った。とくにザルツブルガー・ノッケルンだっけ? あれはすっごく美味しかった。おしゃれなカフェとかで出てきそうだよね」

「そうだね。実際東京とか行けば食べられるカフェはあるみたいだし」


 信号が青になる。倉石さんの足取りは、早くなったり遅くなったりしない。常に一定で、迷いがない。歩幅の一つ一つが大きくて、付いていくのに苦労する。


「あたしの家は見ての通りブラームス一色の家なんだ。ママは指揮者と平行して作曲もやってる。ブラームスのような曲を作るんだって張り切ってるけど、あたしにはその『ブラームスのような曲』っていうのが抽象的でよく分からない」


 たしかに、あまりにも個性を持っているアーティストの手がけた作品には、その人の特色が濃く残る。初めて見ても「あ、あの人だ」と感じさせるほどの個性を獲得することが、創作者としての通過点であることはなんとなくわかる。


 だけど、じゃあその人らしさってなんだと言われても、説明は難しい。クロード・ドビュッシーのように二十世紀の音楽ともいうべき伝統的な書き方を一切無視した曲作りをしたり、『干からびた胎児』や『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』という薄気味悪い曲名ばかり作ったエリック・サティならまだしも、ブラームスはあくまで王道。たしかに厳格な作曲技法から織りなす完成度の高いメロディは聞いていて心地良いが、それだけだ。


 ブラームスらしい曲とは、と聞かれて上手に言語化できる人はそう多くないだろう。


「あたしのママは、言っちゃえばブラームス狂いだから。あたしにも音楽に携わってほしくて、保育園に入る前にはあたしをピアノ教室に通わせたよ」

「え、倉石さんピアノやってたの?」

「五年くらいだけどね。コンクールにも出たことある」


 驚いた。倉石さんはそんなこと一度も言わなかったし、そんな素振りも見せなかった。


「喜美と一緒のコンクールにも出たことあるよ。それで、ボロ負けした」

「負けとかないよ。だって、音楽って芸術だから、刺さる刺さらないの違いだけで」

「それは披露する立場の話でしょ。コンクール、いわば優劣を決める場での演奏は勝負でしかない。あたしはずっと、ママから演奏指導をつけられてきた。ピアノを上手くなるためじゃない。ブラームスに近づくために」

「それって、難しくない? ブラームスが作る曲と、ブラームスの演奏するピアノの音色に近づかなきゃならないってことでしょ? ずっと昔の人だし、どこまで再現できているかなんて、当時の人にしか分からないだろうし、判断はあくまで主観でしかないから、やっぱり簡単なことじゃないよ」

「あたしもそう思ってたし、今もそう思ってる。形のないものを追い求めてなにしてるんだろうって、あたしはママのことを心の中でバカにしてた。だからバチが当たったんだろうね」


 そう言って、倉石さんは右手の甲を私に見せてきた。


「小学五年生の頃に事故にあった。命に別状はなかったけど、後遺症で右の人差し指と中指の第二関節から先の感覚がない」


 倉石さんがあまりにも淡々と言うものだから、それほどたいしたことじゃないように聞こえてしまった。でも、そんなわけがない。


「じゃあ、ピアノは」

「そこで引退した。あたしはもう一生ピアノが弾けないから」


 奇しくも倉石さんがピアノをやめた時期は、私とほぼ同時期だった。だが、私は逃げただけだ。ピアノが弾ける身体であるにも関わらず、現実から逃げるために鍵盤から遠ざかった。でも倉石さんはそうじゃない。弾きたくても、もう弾けないのだ。


「夜はダメだ。自分語りが多くなる」


 学校の校門までやってきた。いつもはここで、倉石さんとはバイバイする。 


「ダラダラ話すと底が知れるから、今日はここまで」

「私は別に、嫌じゃなかったよ。倉石さんのこともっと知りたいって思った」

「喜美はいいやつだね。善良な心を持ってる。だけど、人の心に過敏すぎるから、考え込んで理由を探したがる癖がある。そういう内向的で不器用な性格は、ブラームスそっくり」


 倉石さんは石ころを蹴ると、足を止めて私を見た。月の光に照らされた倉石さんの表情は、陰陽のせいか妖しく微笑んでいるようにも見えた。


「海外の件、そんなに重く受け止めなくていい。行けたらいくくらいで。答えが決まったら、あたしに言って」

「うん。わかった」


 今日、私が呼ばれた理由は二つ。


 一つは、ゆかりさんが私と会いたがっていたから。 


 そしてもう一つは、私を交響楽団にスカウトするため。


 『ロイヤル・ミューズ交響楽団』は海外を拠点に活動していて、入団すれば私は海外で生活することになる。ゆかりさんの話では、交響楽団に入団する前にパリの音楽院に入らなければならない。費用は支援団体に申請すれば援助してもらうことができ、私の場合、過去の受賞歴や母との関係も考えると多めに援助してもらえるとのことだ。手続きはすべてゆかりさんが代行してくれるので、心配はいらないとも言っていた。


 ただ、今のところ私は行くつもりはない。


 だって私が海外なんて行ってしまったら、沙希さきさんは……?


 沙希さんと離ればなれになって、日本に帰ったときしか会えないなんて、私はきっと耐えられない。


 その場で断るのは気が引けたので、考えてみますとは言ってみたものの、腹の内では答えはとっくに決まっていたのだった。


「あと、おめでとう」

「え?」

「沙希さん、だっけ? 気持ち、伝えられたんでしょ」


 ちょうど沙希さんのことを考えていたところだったので、心が読まれたのかと思ってビックリしながらも、私は頷いた。


「あたしはさ、きっとブラームスにはなれないし、喜美も同じだと思う。誰かになろうなんてつまらない生き方だし、ママのことは好きだけど、ブラームスになんかなれないし、なろうとしなくていい」


 倉石さんは強い。言葉に迷いがなくて、きっと自分の考えを信じているのだろう。「もし」「だったら」「かも」と、まだ起きてもいないことばかり考えて尻込みしてしまう私とは大違いだ。


「でも、ブラームスのことを分かってあげられるのは喜美だけだ」

「わ、私?」

「恋してはいけない人に恋をして、その気持ちを伝えた」

「それは、倉石さんもそうでしょ? 倉石さんも、お父さんに告白したって」

「あたしのは違う。好きだから、分かってほしくて伝えた。そこには葛藤も苦悩もない。あったのはただのワガママ。でも、喜美は違う」


 私と倉石さんの、何が違うのだろう。


 けど、たしかに、私はブラームスの気持ちが、少しだけ分かる気がする。


 だって沙希さんに「好き」って言ったとき、何度もブラームスという人間の存在が頭を過った。恩師であるシューマンの妻、クララに恋してしまったブラームス。きっとその恋は報われないし、伝える必要はない想いだ。


 それなのにブラームスは、なぜクララに気持ちを伝えたのか。


 沙希さんに告白したとき、私はなんとなく分かった気がした。会ったことも、見たこともないブラームスと、心が通じ合ったように感じたのだ。


「激しい情熱を抱えつつ、気品を失わない美しい旋律とリズム。緻密な構造と豊かな和声で支えられた複雑な音色はまるでブラームスの人生を表すようで、テクスチャーや音色を巧みに操りここまで感情表現できる作曲家はそういない。言葉にできない想いを音楽に投影し、音楽以上に、言葉以上に、その旋律は感情を雄弁に語る。天才ながらも、どこまでも人間じみたブラームスの音楽は、だからこそ愛され、人の心を打つのだと」


 ひとしきり言ったあと、倉石さんは「ママの決まり文句。聞きすぎて覚えた」と付け加えた。


「ねえ、喜美」


 倉石さんの真剣な声は、まるでコンサート会場に響き渡るパイプオルガンのように、全身を震わす。肌を抜けて、心に直接伝わるような音に共通するのは、きっと届けようとする奏者の願いと祈り。倉石さんはたしかに、私に願っている。


喜美きみ文子ふみこから受け継いだ演奏技術と、その血筋から成る類い希なる才能。内向的だけど情熱的で、どんなものよりも人の感情を大切にする感性。そして、恋してはいけない人に恋をした葛藤」


 倉石さんはその、もう感覚がないのだという人差し指を、私に向けた。


「今、この世でヨハネス・ブラームスに最も近いのは喜美、あんただ」

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