二番目の母に恋をした

野水はた

第1楽章

第1話 日常のフリをしたポニーテール

 仏壇に手を合わせる沙希さきさんを見るたびに、その恋が偽物だったらいいのにと願ってしまう。


 沙希さんと父の関係は全てが過ちで出来ていて、沙希さん自身もどこか後悔している部分があるのではないかと、根拠のない希望的観測に胸を躍らせる。


 けれど、これくらいの妄想、私くらいの年頃になれば誰でもすると思う。実際、中学のときのクラスメイトから聞かされた恋バナの大半が、こういう夢語りのようなものだった。


 頭の中でくらい、都合が良すぎたっていいじゃないか。


「沙希さん、今朝は早起きですね」


 いつまでも後ろから覗いているのも居心地が悪い。私の声に気付くと、沙希さんは正座を崩して向き直った。


白亜はくあちゃんの制服姿、見たかったから。うん、やっぱり似合ってる。すっごくかわいいよ」


 沙希さんは私を褒めるとき、まるで子供をあやすような優しい口調になる。そんな沙希さんの声は、起きたばかりの私をぐつぐつと沸騰させる。


「そうですか」


 その「かわいい」という言葉の中に、いったいどれほどの意味が含まれているのか。想像すればするほど、視線が床に近づいていく。ちょうど、もじもじしている自分のつま先が映って、我ながら呆れてしまった。


「ところで、どうしてスーツなんですか?」

「だって今日は白亜ちゃんの入学式だよ? 気合い入るに決まってるよ」


 沙希さんはまだ早朝だというのに、すでにスーツに着替えていた。


 出会った頃の沙希さんは髪をプラチナブロンドに染めていて、ピアスも見えるだけで四つほど開けていた。化粧もかなり濃くて、父いわく、学校でもかなりのやんちゃをしていたと聞く。


 そんな沙希さんも二年前から、父の紹介で入った大手証券会社の事務員をやっている。勧められた当初は、ネイルNGということでかなり悩んでいたみたいだが、待遇など色々考慮した結果、そこに決めたのだそうだ。


 そのときを境に、沙希さんの長かった髪は肩上で揃えたボブになり、鮮やかだった髪色も黒になった。ピアスの穴も全て塞がって、化粧もナチュラルなものに変わり、言葉遣いも丁寧になった気がする。


「え、まさか有給取ったんですか?」

「いいでしょ? 元々取れって言われてたし、こういうときじゃないと休もう! ってならないんだもん」

「自分のために使えばいいのに……」

「白亜ちゃんの晴れ舞台を見たいのは、自分のためだよ」


 沙希さんはきっと、学生のときからこうなのだろう。自分の感情を守るための皮膜というものがなく、嘘を吐かない。だから感情を吐き出すのが得意で、人に好意を晒すのにためらいがない。


 トースターの電源を入れて、食パンに乗ったチーズが溶けていく様子を眺めていると、沙希さんが顔を寄せてきた。


 目の前に沙希さんの顔があって、思わず弓なりに仰け反る。


「チーズは二枚乗せたほうが美味しいよ」

「もったいないです」

「遠慮しないでいいってば、ほら」


 トースターの蓋を開けて、沙希さんがチーズを一枚放り込む。チーズは食パンの端っこに、くてっと落ちて、トースターの温度に蕩けていく。


 二枚のチーズが乗った食パンをかじりながら、今日の天気予報をぼーっと眺める。今日は運良く快晴のようで、全国の高校で入学式が行われると報道されていた。


「この年になると、入学式の看板を見るだけで泣けてくるよ」

「まだ二十三歳の若造が何言ってるんですか」


 若造とはなんだ、とおどける沙希さんを想像しての発言だった。けれど、私はすぐに後悔した。


 沙希さんは「まぁ、うん」と首筋を撫でながら、何もない床を見て笑った。


 私にはまだ、二十代前半で家庭を持つことの大変さが理解できていない。父の残した遺産があるとはいえ、沙希さんは私の学費や生活費をやりくりしながら、家事までこなしている。自分の仕事だってあるはずなのに。


 沙希さんの使っているコスメが百均の物ばかりになったのは、最近の話ではない。高校の友人と疎遠になったというのは、本人の口から聞いた。


 いったい、私を生かすということはどれだけ大変なのだろう。そして、自分の人生の大半を削ってでも、私の世話をするというのは、いったいどういう気持ちなのだろう。


 考えると、胃液が喉の奥を焼いていくようだった。


「結んであげる、おいで」


 どうすればさっきの言葉を弁解できるだろうかと必死に考えている間に、沙希さんが自分の膝をぽんぽんと叩いた。


 沙希さんの太ももに腰を下ろす。まだ学校の椅子にも触れていない、新品のスカートが沙希さんの足に乗った。


 沙希さんは外出するとき、天気がいいとき、ご機嫌なとき、私の髪を結びたがる。人の髪をいじるのが好きで、学生の頃もよく友達のヘアセットを手伝っていたと前に聞いたことがある。


 だから私は、髪を伸ばしている。短くしてしまったら、沙希さんとの楽しみまで一つ、切り落としてしまうようで。胸まで伸びた髪を触って、私はまだここにいていいのだと安堵した。


「わたしね、高校の入学式から巻いて行ったの」


 耳元で沙希さんの声が聞こえる。窓の外でさえずる小鳥さえ、今は邪魔に思えた。


「そしたら入学しょっぱなから先輩に目付けられちゃって、クラスの子からもイキってるって思われてたみたい。そのせいで最初の頃は色々絡まれちゃった」

「ええ、大丈夫だったんですか」


 校舎裏に連れ込まれて、胸ぐらを掴まれている沙希さんを想像してしまう。


「うん、結局先輩たちとは仲良くなれたし。まぁ、ちょっと素行が悪い人たちだったから途中で距離を置いたんだけどね。そんなわけだから、今日は無難にポニーテールにしよっか」


 ポニーテール……なんだか子供っぽい。それに、それくらいなら自分でもできる。でも、口にはしなかった。


 体重を預けると、沙希さんのお腹に当たる。私の頭頂部が、ちょうど沙希さんの顎の下に位置して、時々沙希さんの吐息で髪が揺れる。そんな時間を手放したくなかったのだ。


「沙希さんは、高校、楽しかったですか?」

「そりゃもう! もちろん大変なこともたくさんあったけど、それ以上に楽しいこともたくさんあったよ。貴文たかふみさんに会ったのも、高校だったし」


 貴文、というのは私の父の名前だ。生前は県内の高校で教師をやっていた。父が亡くなってしばらくは、その名前を口にするのも苦しそうだったが、今は心の整理が付いたのかもしれない。沙希さんはたびたび、父の話をするようになった。


「だから白亜ちゃんも楽しんできなよ。ぜったい楽しいから! それはわたしが保証するよ!」


 なんで、当事者の私より沙希さんのテンションがあがってるんだろう。


 やっぱり毛先だけでも巻こう! と沙希さんが立ち上がったので、私は慌ててそれを止めた。素行の悪い人たちと仲良くするつもりは毛頭ないし、素行を悪くするつもりもない。


 そろそろ出る時間になった。


 私はカバンの中に筆箱とクリアファイルが入っているのを確認して、玄関に出る。


 全身鏡に映る制服姿の私。


 濃いグレーのブレザーは、上下共に上品で気品あるデザインになっていて、スカートの裾に縫われたえんじ色のラインが可愛い。黒のソックスを上げ直して、まだ少し窮屈なローファーにつま先を入れた。


「ハンカチ持った!? ポケットティッシュはある!?」

「はい、昨日入れておいたので」


 私の方はとっくに準備は終わっているのに対して、沙希さんはバタバタと廊下を行ったり来たりしている。


 ようやくバッグを提げて走ってきた沙希さんは、ヌーディカラーでまとめたナチュラルなメイクをしていて、普段の仕事へ行くときとは違う大人な印象を受けた。


「かわいい」

「え?」


 ハッと、慌てて口を噤んだ。けれど、隠すこともないと思い、視線だけを床に投げて「かわいい」ともう一度口にする。沙希さんは「でしょー」と得意気な声色だ。言われ慣れているのだろう。


 入学式に出席している父兄さんたちに、ナンパされないか心配だった。いや、いないか、そんな非常識な親御さん。でも、なんだか、そういう目を向けられそうで、誇らしい反面、もやもやする。


 鍵を閉めて、二人一緒にマンションを出る。よく晴れた空の下で歩くのは、心が浄化されるようで気持ちが良い。何人か、私と同じ新入生とすれ違ったりして、これから始まる高校生活に足が浮つき出す。


「友達百人できるかなぁ?」

「それ、小学校で言うやつですよ。私は狭く深くでいいです」

「あはは、それは確かに言えてるね。友達百人できても、ほんとに仲の良い親友ができなかったら、たぶん、寂しいし」


 それはもしかしたら、先輩としてのアドバイスなのかもしれない。


「友達になりたいときって、なんて声かければいいんでしょうか」

「中学どこだったー? が鉄板かなぁ。そこから部活の話とか、いろいろ広がるし。わたしは彼氏いるー? ってめっちゃ聞いてたけど」


 心なしか、沙希さんの口調が砕けてきた気がする。高校生だった頃を、思い出しているのだろうか。なんだか、心の距離が縮まったみたいで、嬉しかった。


 学校はマンションから歩いて十分ほどの場所にある。正直、この高校を選んだ理由は、この交通面での楽さである。これならちょっとくらい寝坊しても、大丈夫そう。


 校門の前には、ペーパーフラワーで彩られた『入学式』と書いてある看板が置いてある。その前で記念写真を撮る人もいたし、中には恥ずかしがって、親と揉めてる人もいた。


 私はあまり目立つのは得意じゃないし、それにもう高校生なのだから、記念撮影なんかしなくてもいいな、と思っていた。そんな私を察してか、沙希さんは看板を素通りした。


「桜、満開だね」

「そうですね。なんだか、狙いすましたみたいです」


 入学式当日は、なんだかんだいって桜がまだ咲いていないことは多い。在校生だった頃も、またハズレか、と窓の外を眺めていたのを覚えている。


 しかし今年はどういうわけか、まるで歓迎するかのように満開の桜が校舎を包んで咲いている。風が吹けば、花びらが散って目の前で舞い、手を伸ばすと、するりと避けて地面に落ちていく。


「あ、白亜ちゃん。動かないで」


 顔をあげると、すぐ近くに沙希さんの顔があった。動かないで、なんて言われなくても、私は身動き一つ取れなかった。これから始まる高校生活への高揚に混じって、自分本位な動悸がする。


 私は沙希さんの手首を見つめながら、キュッと顎を引いた。


 どうやら桜の花びらが頭に付いていたようで、沙希さんがそれを指でつまんで笑っている。


「いいことあるかもね」

「いいこと、ですか?」

「いきなり友達できちゃうかも」


 沙希さんが桜の花びらを渡してきたので、両手で包み込む。


「それじゃあ、終わったらメッセージ送って。約束通り、今日は美味しいもの食べに行こうね!」


 まるで友達と遊ぶ約束でもするみたいに、沙希さんが手を振る。制服姿の新入生に交じる、スーツ姿の沙希さん。周りにも親御さんはいるけれど、沙希さんはその誰よりも若くて、明らかに若すぎて、好奇の目に晒される。


 でも、視線なんて気にしてたら、きっと楽しくないし伝わらない。沙希さんだって、その視線に気付いていないわけじゃないと思う。それでも沙希さんは、ピョンピョンと跳ねてまで、自分の存在を主張する。


 だから私も、子供みたいに大きく手を振った。


 パッと手を開くと、握っていた桜の花びらが、校舎の方へと飛んで消えていった。


 満開に咲き誇るこの桜も、いつかは枯れていくのだろう。


 私の中に眠る薄桃色の感情は、あの人から受け取る家族としての愛情からあまりにもかけ離れすぎている。


 どうかこの心も枯れてくれ。


 そう、願うしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る