第4話 食える毒
「はー、美味しかった! でも、なめろうが無いのはショックだったなー、あれ好きなのに」
「その代わり新しい出会いもあったじゃないですか」
「そうだね。まさかお寿司屋さんのたまごがあんなに美味しいとは思わなかったよ。さっそくレギュラーに入れなくちゃ」
入学式の夜、私は
最初は遠慮していた私だったけど、沙希さんがあまりにバクバク食べるものだから、それに釣られていろいろ頼んでしまった。
今思えば、あれは沙希さんの気遣いだったのだろう。沙希さんはそういう、遠回りな優しさで心の靄を取っ払う人だ。膨らんだお腹を抑えながら、沙希さんはふらふらと車のドアを開けた。
すでに八時を回っている。外は暗く、行き交う車の照明が、たびたび沙希さんの頬を色づけていった。
「新しい出会いといえば、
「ええっと、何人かと話はしました。でも、放課後になるとみんな体験入部のほうに行っちゃって、連絡先交換したりまではできませんでした」
「そうなんだ。どう? なんか気になる子とかいた? カッコいい男子とか」
あれから私が喋ったのは、一番後ろの席の
そんな彼女らとは、たまたまロッカーに教科書を入れにいったときに話した。どんな音楽が好き? とか、ピアノどれくらいやってたの? とか、当たり障りのない会話だったけど、私も笑って、彼女らも笑っていたから、感触は悪くなかったと思う。
しかし、気になっているかというと、そうではないかもしれない。
ふと、一人のヤンキーが頭に浮かんで、沙希さんに話した。
机に足を乗せるくらい素行が悪いのに、合唱部に入部するらしくてビックリしたというところまで話すと、沙希さんはなんだか楽しそうに笑った。
「あはは、面白い子だね。ギャップっていうのかな、いるよね、そういう子」
「合唱部に入るっていうくらいだから、声はすごく綺麗でした。でも、目つきは悪いし……あ、そういえば、巻いてましたよ。その子」
顔の横に手をやって、毛先を巻く仕草を見せる。
「沙希さんの言う通り、無難にポニーテールにしておいてよかったです。巻いただけで、かなり浮いてましたから、その子」
「そっかぁ、でも、浮いてるってことは目立ってるってことでしょ? その子の狙いにもよるけど、もしかしたら思惑通りって可能性もあるよね」
交差点の信号で、車が停まる。沙希さんの運転はなだらかで、急に止まったり進んだりということがない。ハンドルから手を離した沙希さんが、自分の肩を触る。
「新天地での生活って、新しいことに挑戦できるってことだからね。これまでの自分の殻を破る、とか、自分のやりたいことをやる、とか。その子は確かに目立ってたかもしれないけど、でも、白亜ちゃんのクラスで一番高校生活に気合い入れてるのは、その子なんじゃないかな」
「まさか、仲良くしろって言うんですか? 机に足乗せてる子ですよ?」
「それは、普通じゃないねー」
沙希さんは他人事のように流す。
家に着くと、沙希さんはお風呂を沸かす準備を始めた。私はカバンから沙希さんに渡すプリントを取り出して、テーブルに置いた。
「あ、入部届だ。なつかしー」
プリントの中に挟まってしまっていたのだろう。浴室から出てきた沙希さんが、目をキラキラさせながらその小さな紙を見つめている。
「あの、沙希さん、私、アルバイトをしようって思っていて。良いでしょうか」
どうしてか、緊張した。理由は分からないけど、自分の意思を他人に伝えるということに、私はあまり慣れてない。
「良いも悪いも、白亜ちゃんがしたいことをやるのが一番だよ」
沙希さんは入部届をテーブルに戻して、テレビのチャンネルを変えた。報道番組が、全国各地で行われた入学式の模様を取り上げている。
「白亜ちゃんはどんなアルバイトがしたいの?」
言われて、返事に詰まる。アルバイトでお金を稼いで、沙希さんの助けになりたいとしか考えていなかったから、業種までは決めていなかった。
「まだ決めていないです。募集を見て、時給が高そうなところにしようかなって思ってます」
「そっかぁ。部活は? あんまり興味ない?」
「興味がないというか、あんまり、わからなくて。自分に向いてるものとか、やりたいこととか」
「それはこれから探していけばいいと思うよ。やりたいことを見つけるのが学校だもん。
父の名前を出されて、舌の奥が詰まる。適当に相槌は打ったが、会話はそこで終わってしまった。
父、と簡単には言うが、要は、沙希さんが愛した男性ということだ。沙希さんにとって父は、失って、壊れるくらいに泣くくらいには大切な存在だったのだ。
これは嫉妬なのか、それとも、失恋に似た何かなのか。形容しがたい黒いものが、胸の芯まで落ちてくる。
いや、考えるのはやめよう。心が黒く染まってしまったら、私は怪物に成り果ててしまう。そもそも失恋ってなんだ。私と沙希さんはただの家族だ。その表現はきっと間違っている。
そうだ、父との思い出もたくさんある。父は大人のくせに誰よりも子供っぽくて、それが嫌だった時期もあるが、それに救われたことも確かにあった。私は父を愛していたし、父も私を愛していた。これは、そんな父を失った悲しみをまだ乗り越えられていないゆえに生まれる感情だ。そうに違いない。
お風呂には私が先に入って、そのあとに沙希さんが入る。沙希さんはお風呂が長く、一時間近く入るときもある。だからどちらが言い出すわけでもなく、いつのまにかこの順番になっていた。
沙希さんがお風呂をあがるころには、私はすでに寝る準備ができていて、化粧台の前で保湿パックを貼る沙希さんを後ろからジッと眺めていた。
沙希さんも明日は仕事があるということで、いつも通り十一時には電気を消して布団に入った。
アパートは広いとはいえず、リビングの他に物置と、寝室があるだけだ。私と沙希さんは、寝室で一緒に寝ている。一年前は父もこの輪に加わっていた。部屋の入り口側から父、私、沙希さんの順番で寝ていて、寝相の悪い父に蹴られるのが嫌で、私はよく沙希さんの方にくっついて寝ていた。
父のいなくなった今となっては、沙希さんの方に避難する必要はない。近づく理由はなくなってしまった。あれからずっと、沙希さんとは一定の距離をとって寝ている。
今日もいつも通り、それぞれの定位置で寝ようと思っていたのだが、互いに寝静まったころ、突然沙希さんが起き上がった。
「ねぇ、白亜ちゃん。起きてる?」
「はい。どうしました?」
三秒ほど、間が空いた。
寝返りを打って沙希さんの方を向く。暗闇の中で、沙希さんが自分の布団をめくったのが見えた。
「こっち来る?」
声が出なかった。さっきまで忍び寄っていた眠気は、跡形もなく消え去っている。
「前はそうやって寝てたからさ。どう?」
「いいですけど」
冷静を装ったが、心臓は激しく脈打っていた。身体を横にしているせいで、鼓動を打つたび、このアパートごと揺れているんじゃないかと思うほどだった。
私は自分の陣地を捨て、沙希さんの布団へと潜り込んだ。沙希さんは私を迎え入れると、私の方へ身体を向けて横になった。すぐ近くに、沙希さんの顔がある。暗くてよく見えないのに、目を合わせることができない。
「高校はどう? 楽しめそう?」
「まだ初日なので、どうでしょう。わからないです」
「そうだよね。あのね、白亜ちゃん。わたしからの、アドバイスというか、お願いなんだけど。悩みがあったらまず相談してね。わたしでも、友達でも、先生でももちろんいいし。自分一人で抱え込まないこと」
どうしてこのタイミングで沙希さんがそんなことを言うのか、私には分からなかった。だけど、私にそう言い聞かせるために呼んだのだと思うと、この緊張も取り越し苦労な気がした。
沙希さんからすれば、少し肩に力が入ってしまう、改まった話だったかもしれない。けど、私からしたら、肩透かしに等しかった。
私が期待していたのは、もっと違うことだった。それを言語化してしまう勇気は、今の私にはないけれど。
「じゃあさっそく相談なんですけど、沙希さんは、私に部活してほしいって思ってますか?」
「うーん、そうかも。わたしはね。部活楽しかったし、なによりやってよかったって思ったから。当時部活よりもアルバイトしたかったんだけど、友達に誘われたから一年だけって約束でバド部に入ったの。でも実際やってみたらすごく楽しくて。バドミントンをやるのが、じゃなくてね」
沙希さんが言いたいのはきっと、青臭い、団結と、達成感の類いなのだろう。沙希さんはその余韻を手繰り寄せるように、掛け布団を肩までかけ直した。
「アルバイトは大人になってからいくらでもできるけど、部活動は、学生のうちにしかできないからさ」
「なるほど、たしかにそれはそうかもしれません」
「でも、アルバイトが悪いってわけでもないと思うよ。社会に出る前に働いておけば、仕事っていうのにも慣れるし、なにより自分の得意不得意も分かるから、いざ社会人になったときっと役に立つと思う。だから白亜ちゃんが、やりたい方をやるのが一番だってわたしは思うよ」
沙希さんを含め、大人という生き物はつくづくズルい。私じゃ思いつきもしない気付きを提示しておきながら、道先はこちらに委ねてくる。
そういえば、渡辺さんたちは、何か部活に入ったりするのだろうか。明日、学校に行ったら聞いてみよう。一人で新しいことに挑戦するのは敷居が高い。もし部活に入るのであれば、できればクラスメイトと同じ部活に入るべきだろう。
それでも入る部活が決まらなければ、アルバイトにしよう。部活は学生のときにしかできないと沙希さんは言ったが、それはすべての事柄に当てはまることだと思う。
沙希さんとこうして一緒の布団で寝る夜は、もう来ないかもしれない。だから、失う前に、精一杯、自分のいる今を堪能する。すべての一瞬は、そのときにしか存在しないのだ。
「あ」
沙希さんの襟元から香るバニラの匂いに意識を奪われかけていた、そのとき、沙希さんが思い出したように口を開けて、そして微笑んだ。
「思い出した」
「何がですか?」
「毛先巻いてた子、机に足乗せてたって言ってたよね」
頭の中の相関図が、
「はい。それが、なにか?」
これから面白いことを言おうとしているのか、沙希さんは笑ってなかなか会話の続きを話してくれない。しばらくして、沙希さんは半笑いのまま「あのね」と口火を切った。
「そういえばわたしも、机に足乗っけてた」
「え、沙希さんがですか?」
「言ったでしょ? 入学式の日、わたしも髪を巻いていったの。今思えば、黒歴史だよね」
沙希さんが机に足を乗せてるなんて想像もできない。だけど、出会った当初は、沙希さんの髪色は奇抜で、メイクもかなり派手だった。あの風貌の沙希さんなら、容易に想像できる。あのときの沙希さんは、紛う事なきヤンキーそのものだった。
「でも、あの日だけは、自分のこと無敵だって思ってた」
そりゃ、入学式当日から机に足を乗っけてオラついたら、クラスでは敵無しだろう。味方もいないだろうけど。
「無敵だって、思いたかったんだろうなぁ」
沙希さんは遠い日の自分を思い出すように言って、それから仰向けになった。沙希さんに倣って、私も天井を見る。暗闇に慣れた目が杢目を映し出す。
それから会話はなく、沙希さんの寝息が聞こえてきた。
私はそっと沙希さんから離れて、自分の布団に入り込む
感じる肌の感触と、伝導する熱に狂わされてしまわないよう、私も静かに目を瞑った。
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