第3話 裏返された三角形㊦
第3話 06
依然として天板の上を占拠しているリニアを尻目に、私はカウンターを回りこんでキッチンの中へと踏み込む。
そのまま彼女の脇を素通りすれば、すぐ後ろから地に足を付ける靴音が聞こえた。
(やっと降りましたか)
振り返ることもなくため息を吐き捨てつつ、カウンターの端にまとめて置きっ放しだったトレーの一つを持ち上げる。
取り敢えず、リニアの話とやらを片手間に、溜まっている洗い物でも片付けてしまいましょうか、なんて事を考えてみた矢先。
「繰り返すけどね」
流し台へと向き直った私の背後から、リニアの言葉が軽やかに響いた。
「左腕しか使えなかった、あのお客さん。彼がカップの持ち手を右側へと向けた理由として、有り得そうな可能性は主に二通りだよ」
私は洗い物で満載のトレーを片手に下げたまま、「はいはい」と気の無い相槌を口ずさんで踏み出す。
リニアは構わず続ける。
「という事で、まずは一つ目の仮説なのだけれどね」
洗い場までの数歩の距離を移動する私と、ペラペラとさえずりながらすぐ後ろを付き従ってくるリニア。
何でしょう、ちょっと鬱陶しいですね。
何て事を考えている間にも、流し台の前にたどり着く。
さぁやりますか、と向きを正せば、そんな私のすぐ真横にリニアが陣取ってきた。
「まぁ少々大雑把ではあるけれど。しかし、まず何より最初に考えるべき可能性。それはねぇ」
この期に及んでなお、一向にお仕事を手伝おうとする素振りの一つも見せない彼女。
のうのうとばら撒かれる御高説が、どうにもこうにも煩わしくはあったけれど、それでも一応は『聞く』と言った手前もあるわけで。
「はいはい、どんな考えなのですか?」
私は上の空な合いの手をぶら下げながらも、片手を塞いでいるトレーを一旦どこかに預けようと、手頃な空き場所に目を付けてを左腕をゆっくりと下げていく。
そうしてリニアが言った。
「まず最初の可能性。つまりは第一の仮説だね。それはズバリ、『何となく右に向けたい気分だった』という可能性だろうねぇ」
ぶっ。
何だかとんでもない戯言が聞こえた気がして驚き、思わずトレーを台の上に叩き置いてしまう私。
トレーの中でぶつかりあって、盛大な音を撒き散らす洗い物たちを尻目に、私はぎこちない動きで首を回してリニアを見る。
「すいません。ええと今、何と言ったのですか?」
いやぁ、いくらなんでも聞き間違いでしょうと。
耳にしたばかりな台詞の真偽を問いただしてみれば、しかしてリニアは平然とした様子で同じ趣旨の発言を繰り返す。
「だぁから。『何となく』右に向けたい気分だったという仮説だよ。この可能性を無視するわけにもいかないだろう?」
どうやら聞き間違いではなさそうです。と言うか。ひょっとして私、からかわれていませんか、これ?
どうにも釈然としない思いに突き動かされて、私はついつい物申す。
「ええとですね、リニア。見ての通り、下らない冗談に付き合っているほど暇ではないのですが」
見よ、この洗い物の山を。
何て不満を言葉にすれば。あろう事か彼女は、笑顔を崩して頬をぷくりと膨らませて見せるではないか。
「なんだい心外だなぁ。私は至って真面目に話しているのだよ?」
どこをどうすれば、そんな世迷言をのたまえるのか。
「とてもそうは思えませんが」
「疑い深いね、カフヴィナは。何だい、今言った仮説がそんなに気に入らないのかい?」
「当たり前です」
いくらなんでも、そりゃそうでしょう。
『何となく、そういう気分だった』
こんな寝言をいっぱしの仮説だと鵜呑みにするほどに、私は世間知らずではありません。
当然です。
言ってしまえば、『何となくな気分』などという代物は、それこそどんな状況にも合わせられる、変幻自在なご都合主義の塊みたいな概念ではないですか。
そんなものを『ほぉら仮説だよぉ』なんて嘘吹いて得意げに掲げる、そんな彼女の在り方のどこに真摯な態度を見いだせと言うつもりか。
心の底から、そう思った。なので。
(時間の無駄にも程があります)
そんな反感の一切合切を言葉に詰め込んでぶつければ、ところがリニアは悪びれた様子もなく、いけしゃーしゃーと言い分を重ねる。
「とぉんでもない。これだって立派に一つの可能性さ。それに、これは君が思っているほどに、都合の良い万能な仮説と言うわけでもないんだよぉ?」
「まだ言いますか」
「そりゃあ言うさ。何せ私は、この『何となく気分で』という可能性について、実のところは懐疑的な立場を取っている分けだからねぇ」
?
一瞬、彼女の発言に組み込まれた思考の流れを汲み取り損ねる私。
抱えた戸惑いが顔に出てしまったのでしょうか? リニアがニヤリと言葉を続ける。
「良いかい? 私はね、一つ目の『何となく右に向けたい気分だった』と言う仮説は、まぁ絶対とは言えないまでも。それでも理屈上は否定されるべき可能性だと考えているんだよ」
否定? そんなご都合主義全開の七色屁理屈を理屈で否定?
出し抜けにリニアが広げた大風呂敷に、私は思わず食ってかかる。
「そんな漠然としたもの、理屈でどうこうできる様には思えません」
「果たしてそうかなぁ?」
リニアは間延びした声でそう言うと、キッチンの中を少しだけ戻り、例のカップを前にして足を止める。
「ほら。君ももう一度、よく見てごらんよ」
促され、私もまたキッチンを戻ってリニアの隣に立つ。
そうして見降ろしてみれば、あの行商人っぽいお客様が利用していた一客のセットが視界の真ん中に据えられる。
分厚くて背が高い、コーヒー専用だという白地の一組。
持ち手が右側を向いたカップも、左脇に寄せられた使用済みのスプーンも、そしてカップの足元に少しだけかかった、受け皿の上の飲みこぼしも。
見る限りには、取り立てて先ほどと変わった部分は見受けられない──と思ったのだけれど。
(ああ、いえ。飲みこぼしの跡は、少し乾いてしまったようですね)
よくよく観察してみれば。
受け皿の手前側で、カップの足元にまで達していたコーヒーの水溜りだけは、時間経過に伴って粗方の水気を飛ばしてしまったようだ。
とは言え。
(これが何だと?)
リニアは私に向けて、“これ”をもう一度よく見てみろと言った分けだけれど。
しかしこうして覗き込んでみるものの、だからと言ってそこに何かしらの意外性を感じ取ることは出来そうも無い。
と言うよりも。
何をどうすれば赤の他人が持った『何となくな気分』などという漠然としたものを、当人不在なこの状況で否定できると言うのだろうか?
まったくもって見当も付かない。
ただ黙って、食い入るようにカップを見降ろすだけな私。そんな私の耳を、
「分かるかい? 重要なのは受け皿の中にできた飲みこぼしの跡と、それからティースプーンだよ」
ニヤニヤと笑うリニアの言葉が、静かに揺らした。
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