第3話 07
黙り込んだまま視線を落とし続ける私を前にして、リニアが軽やかに口を開く。
「さぁて、見ての通りだけれど。カップの左側に使用した形跡のあるティースプーンが置いてあるよね?」
私は無言のままで首を小さく縦に振る。
そんな私の反応を受けて、リニアがこんな事を言ってきた。
「じゃあ、カフヴィナ。まずは試しに、そのスプーンをどけてごらんよ」
「は、はぁ」
生返事を返しつつも、言われるがままに受け皿の左脇に寄せられているスプーンへ向けて手を伸ばす。
そのままスプーンの柄を軽く摘んで持ち上げてみれば、待ってましたと言わんばかりのタイミングでリニアが続ける。
「分かるかい? スプーンが置かれていた場所に、ちょっとした痕跡が残っているよね?」
(痕跡?)
言われて、改めて受け皿の片隅に視線を集めてみる。
するとどうやら、丁度スプーンの先端が触れていた辺りの場所に、黒ずんだ小さな汚れができている様子。
見るからに、使ったスプーンの雫が受け皿に移ってしまっただけのようにしか見えないが。
彼女の言う痕跡とは、この小さな汚れの事で良いのでしょうか?
そんな疑問を言葉にすれば、リニアが満足気に頷いて見せる。
「そうとも。カップの左側にあるその汚れ。それは紛れもなく、コーヒーをかき混ぜた後に、スプーンを”その場所”に置いたという痕跡には違いないね」
「まあ、そうですかね」
特に否定する事もなく同意の相槌をプカリと浮かべれば、リニアはどこまでも楽しげに言葉を重ねてゆく。
「さて。となるとだよ? 今、受け皿の上には、『飲みこぼし』と『スプーンの跡』という二つの汚れがあるわけだけれど。ではそれ以外に、目立った汚れは目に付くかい?」
「それ以外の汚れですか?」
オウム返しに問い返しながらも。
それでも問われた内容自体は分からなくもないので、一応はと受け皿の上に再び視線を走らせてみる。
全体をグルリと見渡すように頭を動かしつつ観察してみれば、やはりと言うか何と言うか。
目に付く汚れと言えば、受け皿の左脇にある『スプーンの汚れ』とカップ手前にある『飲みこぼし』の痕跡くらいのもの。
敢えて『それ以外の汚れ』とやらを上げるとするならば、カップ手前の足元にも、少しだけ飲みこぼしの名残が残っているくらいでしょうか?
(でも結局、足元の汚れだって飲みこぼしの範疇ですよね)
などと考え、では結論。
「特に見当たりませんが」
そう告げれば、リニアがもう一つ頷きつつ、
「うん、良いね。それじゃあ話を進めようか」
そんな事を言った。
言葉尻に「ああ、スプーンは戻してもらって構わないよ」と付け加えられたので、私は手にしていたスプーンを元の場所に戻しつつ小さく頷いて見せる。
そうしてリニアが、少しだけ声色を落として始める。
「さてさて、改めて宣言するけれど。私は先に言った『何となく』カップの向きを入れ替えたという可能性に対しては、どうしても懐疑的にならざるを得ないよ」
明朗に語りあげられた彼女の立ち位置。
ここまでハッキリと明言する以上、一応は何かしらの根拠がありそうなのだけれど。いかんせん、私にはちょっと想像がつかない。
リニアが続ける。
「私がその仮説を受け入れられない理由。それはね、『何となく』でカップの向きを入れ替えたと言うには、そのために取られた方法が余りにも煩雑で不可解なものに思えて仕方がないからさ」
「煩雑で不可解?」
再びオウム返しに問い返せば、リニアが「そう」と視線をカップへと向け直す。
「仮にだよ。もしもそれが本当に『何となく』で取られた行動なのだとしたら。それなら彼の取った行動は、大体こんな感じになるのだろうね」
リニアは一しきりにそう言うと、空の左手を自らの口元まで持ち上げて、「まずは飲み干し」と口ずさむ。
次いで上げたばかりの左手を降ろしながら「受け皿へ置き」とつなげ、続けて左手をクルリと回すと━━
「最後にカップの向きを入れ替える、と」
そんな言葉と共に、手ぶらなジェスチャーを締めくくった。
そうして続ける。
「大雑把だけれども。それでも『何となく』でカップの向きを入れ替えるのなら、まぁざっとこんな行動順序が妥当なのだろうね」
今しがた彼女が実践してみせた、カップを持ち上げてから、最後に向きを入れ替えるまでの一連の仕草。
その流れは、まぁ確かにと思えるくらいには、『何となく』として十分にあり得そうな展開には思えるのだけれど。
しかし。今の流れのどこに、彼女が気に掛ける不可解な要素などあるのだろうか?
依然として、リニアの言わんとしている事の全容が、私には知れそうもない。
リニアが続ける。
「ところがだよ。前置きをした通り、このいかにも『何となく』な行動では説明を付けられない状況というものが、この受け皿の上には散見される分けだねぇ」
受け皿の上に散見。
そんな言葉に釣られて、私もまたカウンターの上に置かれたままのカップへと視線を落とす。
「説明が付かないとは?」
問いかければ、リニアが答える。
「一番に目立つ問題は、やはり『飲みこぼしの痕跡』だね。受け皿の手前側を汚し、更にはカップの足元にも達している、この飲みこぼし。
果たしてこれは『いつ』出来た物なのか?」
いつ? えっと、何?
今度こそ、本格的に問われた意図を汲み取りそこねる私。
そんな私などお構いなしに、リニアは白塗りな受け皿の上にできた黒ずみを指差して言う。
「良いかい、カフヴィナ。飲みこぼしと言うものはね、カップの中身を飲み終えるまでに出来るのが普通なんだよ」
(飲み終えるまでにって……)
そりゃそうでしょう。全部飲みきった後では、こぼしようもありませんから。
などと。
当たり前が過ぎて少し間が抜けて聞こえる台詞を聞き流しつつ、私はリニアに怪訝な視線を向けるのだけれど。
「だからこそ、奇妙なのさ」
と、彼女の弁は止まらない。
「あのお客さんが、コーヒーを美味い美味いと一息に飲み干したのか、苦い苦いとちまちま飲み進めたのかは知らないけれどね。
それでも飲み終えるまでのどこかで飲みこぼしたと言うのならだ。だったら少なくとも一度は、飲みこぼしの出来た受け皿の上にカップを置いた瞬間はあったはずだ」
途中の一休みにしろ、飲み終えて戻したにしろね、と。そう繋げられたリニアの言葉に耳を揺らしつつ━━
ん?
と微かに何かが引っかかる。
今しがたリニアが並べ立てた、言葉の連なり。
それはあたかも今更な事ばかりをつづった、当たり前に過ぎる一節のはずなのだけれど、それなのに。
(飲みこぼしのある受け皿の上に、カップを置く━━)
左手で?
なぜだか不思議と、奇妙な収まりの悪さばかりを感じてしまった。
ちょっとだけ、考えてみる。
(受け皿の上には、手前側に飲みこぼしがあって。ええと、そこに左手で……)
耳にした単語の一つ一つを丁寧に。そうです、とても慎重に頭の中で順を追って手繰ってみれば。
これがなんとも不思議なもので、私の小首が勝手にのろのろと傾いていくではありませんか。
そんな戸惑いながらも考え始めた私の耳を、リニアの言葉が追撃してきます。
「そうして飲みきられて空になったカップは、受け皿の上へと戻された後に、最後には持ち手が右側へ来るように向きを入れ替えられる」
絶え間なく被さってくる彼女の台詞に煽られながらも。
私の見つめるその先には、持ち手が右を向いたカップと、その左に戻したティースプーン。
そして、カップの足元にまで達している黒ずんだ汚れ。
んんん?
こうして見れば見るほどに、今更ながらに何かがおかしい気がしてならなくて。
いやぁこれは一体、何とした事でしょうか。
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