第3話 08

<業務連絡>

12月13日 深夜

第3話 07 において、後半の一部分を修正させていただきました。

近況ノートにて、変更箇所を抜粋した物を記述しておきます。

大変失礼をいたしましたっ!

####################

     08


「おや? ようやく君も引っかかったかい?」


 視界の外から投げられたリニアの言葉に、私の思考が霧散する。


 リニアが言う。


「受け皿の手前側に飲みこぼしの水溜りがある状態で、そこへ左手に持ったカップを置くと言うのなら。じゃあカップの足元で汚れるべきはどこなのか?」


 決まっているよね、とリニアが一際に声を澄ませる。


「汚れるべきは、持ち手を左に向けた場合の手前側。つまり」

「逆側……ですか?」


 目の前にある、持ち手が右を向いたカップに視線を定めつつ。

 聞こえてくる彼女の言葉を先読みして被せ気味に声を乗せれば、すぐ隣にリニアが微笑む気配を感じた。


「そ。この手順でいくのなら。汚れるのは普通、今、裏を向いている側の足元のはずだ。しかし実際に、そんな汚れは残っていたかい?」


 問われ、私は首を横に振る。


 思い出さなくても分かる。受け皿の上で、他に目に付いた汚れなど無かった。


 私の返した静かな肯定を受け、リニアの語気が強さを増す。


「さてさて。コーヒーを飲み干し、空になったカップを受け皿に戻した彼は、最後には持ち手が右を向くようにカップの向きを入れ替える分けだけれど。

 では具体的に、カップの向きはどんな方法で入れ替えられたのか?」


 私はただ黙り込んだまま、リニアの言葉に耳を傾ける。


「カップを半回転させる手段。普通に考えれば、『受け皿ごと』回すか、もしくは受け皿はそのままに『カップだけ』を回すかのどちらかだろうね。しかし」


 そこまで言うと、リニアはカップに向けて手を伸ばし、傍らに佇むティースプーンに人差し指を突きつけた。


「スプーンが置かれた痕跡。これが受け皿の左側にしか見られないことから考えても、受け皿自体は向きが変わっていない可能性が高い。となれば彼は━━」



 飲みこぼしのある受け皿の上で『カップだけ』を回転させた。



「と考えたほうが自然だろう」


 見る見るうちに積み上げられていく、リニアの弁。

 困ったことに、どうにも異論が見つからない。


 左手で使ったスプーンなら、使用後はカップの左側に置かれそうなものではあるし。

 加えて他の場所に汚れがない以上、一旦よそに置かれた使用済みのスプーンが、後に今の場所へと移されたという事もなさそうだ。


 つまりそれは、受け皿そのものは向きが変わっていないという考えにもなり。


 ともすれば。


(手前側に飲みこぼしが広がった状態で、カップだけを回した?)


 とも、なりかねない。


 ここに来てようやく、うっかりと感じ始めた違和感の姿形が透けてくる。


 だからついもう一度と、目に焼き付けてしまう。


 今、取っ手を右にして佇む、白地で出来たコーヒー専用の特注カップ。


 受け皿の左には使用した形跡のあるティースプーンが据えられて、そして手前側にはカップの足元にまで広がる飲みこぼしの跡。


 そうして感じる、今更ながらの疑問。


 もしも本当に『何となく』なんて理由で、カップを受け皿の上で回転させたのだとしたら。

 ではどうして、カップの足元についた汚れが反対側には無いのだろうか?


 更に言うなら、回転に合わせて足元の汚れなどはもっと広がりそうなものなのに、見る限りにそんな形跡もない。


(何ですか、これ?)


 ちょっとだけ混乱する。


 あのお客様。無かったのは本当に、右腕だっただろうか?


(いえいえ、流石にそれは右腕でした)


 いくらなんでも、覚え違いなはずがないと思いこそすれ、しかし。


(だとすると。これは?)


 これまでよりも少しだけ鮮明に、“おかしい”と感じてしまった。

 リニアが口にした奇妙や不可解という表現にも通ずるものがあるのだとは思う。


 別に大騒ぎするような話ではないのだろうけれど。それでもどうにも気にかかって仕方がない。


 そんな心情を持て余して少し強めに眉をひそめてみれば、再びすぐ隣からリニアの声が聞こえた。


「不思議だよねぇ。ああ、実に不可解だ。左腕しか使えなかったあのお客さん。彼は一体どうやって、この受け皿の上の状況を作り出していったのだろうねぇ?」


 それは私に向けられた問いかけだったのかは分からない。

 だけれども明快な回答を持ち合わせられない私は、姿勢を戻しつつ、ついつい彼女に問いかけを返してしまう。


「リニア。貴女には、察しがついているのですか?」


 リニアが答える。


「まだ確証は無いのだけれど、まぁ一応はね。この受け皿の上の状況を一通り説明できる仮説なら、私なりに組み上げてはみたよ」


 マジでか。


 カップから顔を離して姿勢を正す私。リニアは左手に握ったままの伝票の束を揺らしながら言葉を紡ぐ。


「仮にだけれど。もしも左手のみを使って、この受け皿の上の状況を再現するのだとすれば、可能な方法は極端に限られてくるだろうね」


「では、実際にどうしたと考えているのですか?」


「そうだね。私が考えるに、ポイントは飲みこぼしを作る『タイミング』なのだと思うよ」


「タイミング?」


「そ。まぁハッキリと言ってしまうなら、この飲みこぼしはね。恐らくコーヒーを飲み切った後で、『意図的』に作られた物なのだと考えているのさ」


 え? ええ?


 酷く軽めに響いたリニアの発言に、残念ながら私の理解は追い付かない。


(リニアは今、何て言いました?)


 脳みそをフル回転させて、耳にしたばかりの言葉を精査する。



 飲みこぼしは、意図的に作られた。



(それも、飲み終えた後で?)


 どうしましょう。もうこれ、何が何だか分かりません。


 百歩譲れば、言葉の意味こそ理解できなくも無い。が、その中に織り込まれた意図が、千歩譲っても意味不明。


「その。すいません、リニア」


 余りに常軌を逸しているように思える、リニアが上げた何かの可能性。


 とてもではないが、私にはその片鱗すらもすくい取れそうもなく。

 それで泣く泣く白旗をあげてみれば、リニアは澄ました顔でこんな事を口走った。


「まぁ確かに。彼の行動を断片的に追いかけると、ちょっと考え辛い手段ばかりが目に付くよねぇ」


 だけれどね、とリニアが続ける。


「一応、私の立てたもう一つの仮説だと。飲み終えてから意図的に作ったとする考えは、色々な状況にピタリと当てはまりはするんだよ」


 嘘でしょ。


 いやんと慄く私。リニアは言う。


「まぁ、何にしてもだよ。どうかな、カフヴィナ?

 もしもあのお客さんが、そんな突拍子もない行動を取らなければ成立しない状況を作り上げたのだとして。

 ではそれは『何となく』なんて理由だったと思うかい?」


 問われ、私は静かに首を縦に振る。


 と言うか、そんな事はどうでもいい。


「それで、リニア。貴女の言うもう一つの仮説とは何なのですか?」


 前のめりに問いかければ、リニアが「いつになく早足だねぇ」とニヤリと笑った。


 ええ、そうですよ。

 つい先刻まで、不遜だった彼女の態度に業を煮やしていた私は、いつの間にかどこかへ旅立ってしまったようでした。


 ああくそ、何だか悔しい。


 あれよあれよ言う間に気が付けば、いつしかリニアの演説会に乗り気になり始めていた私。

 それだと言うのにここに来て、リニアはどこかバツが悪そうな顔をします。


「うぅん」


 珍しく困り顔をぶら下げて腕組みをする彼女。私が再び表情を怪訝そうに歪ませれば、


「理屈は通っている。でもね、決定打がないんだよ」


 と、どこか頼りなさげな声を出す。


「これだけ好き放題に話しておいて、何ですかそれ?」


「いや、だってね。細かいことを考えるならだよ?

 最初は小さくまとまっていた飲みこぼしが、カップの向きを入れ替えた後に何かの拍子で広がって、最終的にカップの足元まで達してしまっただけという可能性もある。

 それなら別に、『何となく』カップの向きを入れ替えたという考えも、別におかしな話ではなくなってしまうよ」


 ああ、なるほど。確かにその可能性もありましたか。と言うか。


「ええと。では単純に、それが真実だというだけの話では?」


 降って湧いたお手頃そうな真相に賛同を示せば、しかしてリニアは首を振る。


「いやいや、カフヴィナ。そんな考えじゃあ、面白くないだろう?」


 どういう選考基準ですか。


「だからね。私としてはあと一手、何かしらの決め手が欲しいところなんだよ。と言うことだから、悪いけど少しだけ待っててくれるかい?」


 そんな言葉と同時に、腕組みを解くリニア。


「ダメ元ではあるのだけれどね。ひょっとしたら、何かが見つかるかもしれない。少しでも可能性があるなら、一応は目を通しておきたいのさ」


 そんな事を言いながら左手を振る彼女。左手の動きに合わせて、伝票の束がバサバサと音を立てます。

 そう言えば、ずっと左手に握ったままでしたね、彼女。


「伝票……ですか?」


「うん。何せ、あのお客さんが残した痕跡ってのが、とにかく少なくてねぇ。テーブルを見てみたけれど、これと言ったものは見つけられなかったし」


 何だかさっきも、同じような発言を聞いた気がしますね。


「あと何か残っているとしたら、彼のテーブルに一緒に置かれていた伝票くらいのものだろうからさ」


 ああ。それでさっきまで、伝票をパラパラとめくっていたわけですか、この人は──と思いかかって、ふと思い出す。


「ええと、リニア」

「何だい?」


 何たる事でしょうか。どうやら私は、彼女に向けて残念なお知らせを告げなければならないようです。


「あの。その中に、あのお客様の伝票はないですよ?」

「ん?」

「いえその」


 何となく後ろめたい感情を持て余しつつ、私は思い出した『伝票の一件』についてのとある顛末を、リニアに向けてお届けした。


 するとリニアは、


「えぇえええっ?」


 キッチンの中に、細くて長い素っ頓狂な声を響かせたのだった。


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