第3話 04
残りの下げ物をトレーに積み込んで、再びキッチンへと舞い戻る。
するとカウンターの向こう側に、こちらへ背を向けて立つリニアの後ろ姿が見て取れた。
辺りを見回せば、例のカップと受け皿はもとより、先に預けていった下げ物が満載のトレーすらも、そのまま手付かずで放置中といったご様子。
(見事なまでに、何もされてませんね)
まぁ分かってはいたし毎度のことでもあるのだから、今さらとやかく言うつもりも無いのだが。
しかし何と言うか、もう少しくらいは分担作業というものに気を配ってくれても罰は当たらないのではないかと、そう思う。
私は一つ静かに息を付きながら、白ローブをまとった背中に視線を送る。
カウンターの上角に腰を預けて立ち、軽く顔を伏せている彼女。
戻ってきた私に気付いた素振りもなく、何やら手にした紙束らしきものを黙々とめくり進めているようなのだけれど。
(何をしているんでしょう?)
素朴な疑問を抱えつつ、私は新たに集めてきた下げ物たちを、先の手付かずなトレーの隣に丸ごとガチャリと乗せ上げる。
すると。
「おっと、早かったねぇ」
物音でようやく私の戻りに気が付いたのか、リニアが首だけを回してこちらを向いた。
私の視線は、自然と彼女が左手に持っている手のひらサイズで縦長な紙の束に吸い寄せられる。
「それは?」
問いかければリニアが答えた。
「ん? ああ、今日の分の伝票だよ。さっき持ってきたんだ」
え? と思い、怪訝に眉根を寄せる。
本日分の伝票と言えば、いつもは会計台の引き出しの中に、一まとめで管理している物だ。
それを持ち出してくる場面と言えば、店仕舞い後の会計合わせの時か、はたまた何かしらの手違いが発覚した場合なくらいのものなのだけれど。
(まだ店仕舞いには早すぎますよね。私、お会計で何かミスでもしたのでしょうか?)
少しだけ不安になり、「何かありましたか?」と問いかけを重ねてみれば、リニアは小さく首を横に振って見せた。
「いやいや、心配には及ばないよ。特に何かトラブルがあっての事ではないからねぇ」
のんきな口調でそう言う彼女。私は少しだけ胸を撫で下ろすも、しかし。だとしたら、いよいよ訳が分からない。
「では、どうして伝票を?」
「いやね。さっき軽くテーブルをのぞいてみたんだけれど、特にこれと言ったものは見つからなかったんだよ。それなら、こっちに何か残っていないかと思ってねぇ」
いつの間に、と訝しむ私を他所に、左手に握った伝票の束をバサバサと揺らしながら、よく分からない事を言うリニア。
言うまでもなく、私の脳内にクエスチョンマークが乱れ飛び始める。
「つまり、どういう事ですか?」
「つまりだよ。改めて見てみれば、カフヴィナの疑問ももっともだと思ったのさ。それで私なりに、色々と考えてみる事にしたと、そういう話だよ」
ああ、ダメな奴ですねこれ。
問いかけの答えを受ければ受けるほど、どんどんと意味不明の色合いが増してゆく。
そんな捉えどころのない現状に戸惑う私。
リニアは世間話でもするかのような声色で、のうのうと続ける。
「コーヒーを注文していた、あのお客さん。彼には右腕が無く、加えて同行者もいなかったみたいだったからねぇ。それならカップの扱いは、左手のみで行われていたと考えるべきだ」
あっ、と思った。
(まさか、さっきの話の続きですか、これ?)
彼女の発言に組み込まれていた単語の端々から、目下の話題に察しが付き始める。
(うわぁ)
唐突に降って湧いた面倒くささに眉間のしわを深める私。だけれどリニアの言葉は止まらない。
「左手でカップを取り、飲み終えて受け皿へと戻す。それなら普通は、残されたカップの持ち手は左側に向けられているはずだ」
ところがだよ、と言葉をつないだリニアが、右手を開いて傍らのカップの横にそっと添える。
「カフヴィナの話が本当なら、このカップは持ち手を右側にして残されていた。
つまりだよ。彼は一度カップを受け皿に戻した後で、なぜか持ち手が右側へ来るようにクルリと回転させたという事になる。左手を使ってね。
これは確かに、少しばかり不可解な状況だと言えるねぇ」
い、言うほどか?
一息で勢いよく語り上げられたリニアの物言いに煽られて、どうした物かと合いの手を詰まらせる私。
そんな私の態度に何かを悟ったのか、リニアが少しだけ意外そうに両目を丸めた。
「おや? カフヴィナもこの不思議な状況が気になって、それでああも考え込んでいたんじゃないのかい?」
問いかけられ、少しだけ返答に困る。
リニアが口にした『考え込んでいた私』とは、フロアの片隅でカップを前にして悶々と頭を悩ませていた時のことを言っているのだろう。
確かにあの悶々は、残されていたカップの向きに違和感を感じていたことが原因で。
それはきっと、彼女の言う“不思議な状況”とやらと、とてもよく似てはいるのだろうけれど、しかし。
(微妙に違うんですよねぇ)
というのも率直な感想だった。
私の抱えていた違和感の正体。
それは結局のところ、単に『自分で向きを入れ替えて提供した』事を忘れていたというだけの話でしかなかった分けで。
だからこうして思い出してしまった今となっては、そんな違和感などは、私にとって遠の昔に終わったお話でしかない。
ところが今、リニアが不思議だと言ってのけた事柄は、私の解決済みな違和感とは少しばかり趣が違う。
なぜカップの持ち手が右側に向けられていたのか?
知るかい、そんなこと。
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