05

 いつもの景色にいつもの香り。そっと息を吸い込んで、今朝を確認する。

 そんな私の横を、先ほどまで足元にまとわり付いていた小さな影が駆け抜けていった。

 きっとお気に入りの場所で日向ぼっこでもするつもりなのだろう。少しだけ羨ましい。


 私は入ってきた通用口の扉を閉めて向き直る。


 正面にはお客様用の出入り口。そこから左右に広がる壁面には大きな窓と幅広の書棚が交互に並ぶ。


 空間の中ほどには2、3人が楽に座れる丸テーブルを何卓か配置し、右手側に私たちがお茶を淹れたりするための作業スペース、左手側には壁際以上の書棚の群れが立ち並ぶ。


 パンパンな書棚の多さゆえか、どうしても少しばかりの圧迫を感じてしまうのだろうけども。

 それでも二階の高さまで吹き抜かれた天井のおかげか、言うほど窮屈さは感じないはずだ。


 今はまだ開店前なので少しばかり薄暗さを感じるかもしれないが、カーテンを開けて回れば十分な明かりを窓越しに取り込むこともできるだろう。



 これが私のお店。



 お茶と用紙とインクのに匂いとほんの少しの埃っぽさが心地よい、昔なつかしな魔法店の面影を残した、一息つけるそんな場所。

 ここが祖母から受け継いだ今の私のお店なのだ。


「ふぅ」


 今朝を確認し終え、私は吸い込んでいた息を静かに戻す。

 と。


「おはよう、カフヴィナ」


 馴染みの声で名前を呼ばれた。


 声のした方に視線を移せば、来客用に設置した丸テーブルの一つを前にして立つ後ろ姿が目に入る。


 飾り気の無い真っ白なローブを羽織った身体を軽くよじり、こちらに視線を向けている女性。

 右手に持ったケトルが背中越しにチラチラと覗いている様から、今の彼女が何をしているのか大よその見当を付けることができた。


 軽く息を吸い込んでみるが、朝の日常となりつつある香りはまだしない。淹れ始めるのはこれからといったところだろうか。


「おはようございます、リニア」


 手短に返事を返しながら、右肩に食い込んでいるカバンの肩帯を掴み上げる。


 慣れない背中側の重量に多少もたつきながらも、頭から肩掛けを上げ抜いて一番手近な丸テーブルにカバンを乗せ上げれば、一気に身体が軽くなった。


 小さく息をつきながら、改めて腰を伸ばそうと軽く身体を反らせる。そんな私の耳に、彼女のどこか不服そうな声が聞こえた。


「ふむ。約束が違うねぇ」


 上げていた視線を降ろして彼女へと向け直せば、そこには大げさな困り顔を模った横顔。

 少し芝居がかったのその様相が少しばかり腹立たしく思える。


「何ですか、いきなり」


 出し抜けに向けられた非難の言葉に付き合うつもりも無く、そ知らぬ顔でつまらなさそうに返せば、


「何ですかとはお言葉じゃないか」


 そんな世迷言といっしょに、細くて小さくて短い水音を聴いた。察するに、粉に最初の湯を落としたらしい、こっちを見たまま。


「淹れるならちゃんと見ながらやってください。火傷しますよ」


 微かに立ち上る湯気を彼女越しに眺めつつ、やや横着に映った彼女の行為を嗜めてみれば、彼女はケトルをテーブルの上に乗せ、身体ごとこちらに向き直ってニヤリと笑った。


「なんだい、心配してくれるのかい?」

「まさか」


 こちらを値踏みするかのような底意地の悪さに意地悪で返す。いつも通りのやりとりと言えば、まぁそれはそう。


「つれないねぇ。心配してくれず約束も守ってくれない。こうして顔を突き合わせるようになって、もう二年だよ? ちょっと酷いと思うのだけどね」


 どの面下げて言いますか。


「それはあなたの普段の行いに問題があるのですよ、リニア」


 的確な指摘を飛ばしつつ、私は「さて」と自由になった右肩を軽く回して開店準備に取り掛かる事にする。


 店の一番端にある窓へと歩み寄り、覆っていたカーテンの端に手をかける。


「しかしだよ。どうしても嫌なのかい?」


 またしても、脈略のない言葉を投げつけられた。


 気にせずカーテンを端へと手繰り寄せている私に、彼女が言葉を重ねる。


「昨夜約束してくれただろうに。今日こそはかぶってくるから、と」


 言われ、”話題”の正体に思い当たる。


「ああ、その話ですか。というか、勝手に約束を捏造しないでください」

「いやいや、命に変えてもかぶってくるからと、昨夜の君は泣きながら」

「言ってません」


 とんでもない妄言をぴしゃりと跳ね返しつつ、まとめたカーテンを帯で縛り止める。


「ああ、カフヴィナ。君の天邪鬼っぷりには、ほとほと手を焼くよ」


 どの口で。


「とても似合うだろうし、君の職業柄にもピッタリだと思うのだけどねえ」

「あのデザインのどこがどうピッタリなんですか」


 奇抜すぎるにも程というものがある。


「魔法使いなら、みんなかぶっているじゃないか」

「魔法使いに限らず、あんな帽子をかぶってる変わり者なんて見たことありません」


「これから流行るよ、絶対に」

「あんなのが流行ったら世も末です」


「せっかく作ったのに、酷い話だよ。これはあれだね? 新手のいじめだね?」

「新手の嫌がらせですよね、これ?」


 一か所目のカーテンを括り終えて、私は大きくため息をつく。


 それほど私にかぶらせたいのなら、もっと日常使いを視野に入れたデザインにすれば良いものを。


「というか、リニア。暇なら手伝ったらどうです?」


 壁に据え付けてある書棚を二つほど渡り、次の窓へと向かいながら彼女の怠惰を指摘する。と、彼女は大仰に声を膨らませて、


「おっといけない! 蒸らし時間が終わってしまう!」


 わざとらしく慌てた様子で、パタパタと私に背を向ける。

 さも忙しいと言わんばかりにローブの袖を振り回しながら卓上のケトルを掴み上げるのその後ろ姿の、何と厚かましいことか。


「あなたという人は⋯⋯」


 恨めしさを練り込んだ視線を背中に送りつければ、


「おっと、ここからの集中力が風味を左右するからね。少しばかり話しかけないでもらえるかな!」


 何たる言い草だろう。本当にもう、バカバカしい。


「ところでなのだけどね、カフヴィナ」


 集中力はどうした。


「はぁ。今度は何ですか」


 律儀に聞き返す私も私か。


「最近の流行りなのかな?」


 帽子か!? また帽子の話をむし返すつもりなのか、この人は!?


 最初の湯を落とした時とは打って変わり、長くて細い湯気を立て始めた背中を、こぽこぽと湯の落ちる音を耳にしながら睨みつける。


「だから、そんな流行りがきたら世も末ですって」

「じゃなくてだね」


 そう言った彼女は、湯を落とす手をそのままに、半身を捻って空いている左手で私の方を指さした。


「ボタン。足りなくないかい?」


 言われ、指さされた先に視線を落とす。


 あ。


「うそ」


 思わず呟き、見るからに無いことを分かったうえで、それでも一応とお腹の辺りに手を当て回すが、やはりと言うか何と言うか。


「おや、気づいてなかったんだね」


 その通りだった。


 魔法使いのお仕事用として、自分としては随分と奮発して調達したつもりの、愛用の黒い前開きのコート。

 その胸からお腹の当たりにかけて縦に二つ並んでいたはずのボタンの一つが──


「う、上のが」


 今朝、家を出るときに羽織った時点ではあったと思う。

 取り立てて気にしていたわけではないけれども、それでも好みな意匠で見栄えの良い、大硬貨くらいはある金属製の大きなボタンだ。

 無くなっていたら気付きそうなものである。


 となると、いつどこで?


 今朝はあっただろうボタンが、今は無い。

 紛失したのにあり得そうな状況と言えばやはり、朝の町中を滑空していた時くらいだろうか?


「ありえそう」


 あの時は、そうとうにゴタゴタとしてしまっていた。

 空中で乱暴に身体の向きを変えたり、はたまた吊るされていた他所様の洗濯物に頭から突っ込んだりと、あの一幕の中に疑わしき状況が満載だ。


「なんてこと」


 呟きながら、両手で自分の身体をぽんぽんと叩き回してみる。

 望み薄だろうけど、外れた拍子に着衣のどこかに入り込んだりしてはいないだろうか?

 などと期待してみるのだが、しかしそうそう都合よく事態が好転するわけもなく。


 結局、コートのポケットにもジャケットの隙間にもスカートに並ぶ折り返しの間にも、それらしき物が挟まっていそうな感触は感じられなかった。


「ううう」


 がっくりと肩を落としかかったところで、いや待てよと思い留まる。


「ひょっとしたら⋯⋯」


 呟きながら視線を向ける先は、裏口近くの丸テーブルにドスンと乗せ置いたアンティーク調の革カバン。


 私は開店作業をほっぽり出して目的のテーブルまで足早に戻ると、肩掛け用の帯を掴んで最後の希望とばかりにお気に入りのカバンを引き寄せてみた。


「お願いだから」


 舐めるように見回す。

 ぴったりと閉じた入れ口も、正面と横にあるちょっとした小物入れのようスペースも、革の曲げ合わせ部分に出来ている小さなくぼみの奥も、果ては本体と肩帯のつなぎ目や帯の長さ調節用の金具にいたるまで、

 それはもう舐め尽くさんばかりの勢いでねぶり倒す。んが。


「⋯⋯ない」


 目的の物を見つけられず、今度こそがっくりと肩を落としつつテーブル脇の椅子を引いて座り込む。

 うなだれるように卓上へと突っ伏せば、視界の全てをアンティークなブラウン色をしたカバンの表皮が覆い尽くした。


 お気に入りだった。

 色もデザインもシックな雰囲気が気に入って、そんな中でワンポイントに意匠が彫り込まれた金色のボタンが、何だかとても可愛らしく思えて、それはもう特に気に入っていたのだ。


 探せば見つかるだろうか?


「⋯⋯厳しい」


 突っ伏したまま、自問を自答する。

 結構な速度で街なかをあちらこちらと飛び回ってしまった。どの辺りを探せば良いのかの見当を付けるだけでも一苦労だろう。

 と。


「今朝、失くしたんだね?」


 直ぐ傍らから、リニアの声が聞こえた。顔をずらして視線を向ければ、私が張り付いているテーブルの脇に立つ白いローブ姿。

 どうやら両手に一つずつカップを持っているようだ。


 私が「はい」と小声で応えるのと同時に、片方のカップが静かにテーブルに置かれる。すると、カップの中身がふわりと香った。


 深みを感じる朝の香り。彼女がこの店へと転がり込んできて、いつからか始まっていた毎朝の香り。


 そんな香りを細々と吸い込む突っ伏したままの私に、彼女は言う。


「それは残念だったね。まあ仕方ないから、取り敢えず変わりのボタンでも縫い付けておいたほうが良いかね」

「そう⋯⋯ですね」


 力なく答える。まあ、その通りではある。

 もともとこのお店に来店客は多くないのだから、慌てて整える必要もありはしないが、それでもこのコートは私の一張羅だ。いつまでもこのままというわけにも行くまい。


 暇を見て近場の服飾店にでも顔を出しておこうか、なんて事を考えていると、ふいに思い立ってしまった。


 そっと視線を上げれば、傍らに立ったまま自分のカップを口元まで運んでいるリニアの立ち姿。


 むむむ。


 一口すすってその苦みに顔をしかめて見せる、そんな彼女に向けて、何となく思い立った事を口にしてみる。


「見つけてきてくれませんか、リニア」


 これまでにも、知らないはずの出来事をまるで見てきたかのように指摘して見せたことが度々あった彼女なら、あるいは。


 そんなご都合主義に期待した私の物言いに、再びカップを口元まで運びかけていた彼女の手が止まる。そして、ほんの少しだけ間をおいて、


「無茶な相談だね」


 そんな答えが返ってきた。そりゃそうだ。


 藁にもすがる思いで、ひょっとしたらと口を滑らせただけなのだから、彼女の返答はすごく真っ当。


 というか、私の要望を突っぱねるにしては、いつもに比べて間があった。ちょっとだけ不思議。


「ごめんなさい。忘れてください」


 私は短く謝罪の言葉を口にして、上半身をテーブルから引っ剥がす。

 視界の中心には、真っ黒い飲み物で満たされた陶磁器製の白いカップ。


 そろそろと手を伸ばし、持ち手に指を絡めて口元へと運ぶ。

 一口すすれば、不思議と飽きない慣れた香りと未だに慣れない苦みとが、私の顔の下半分を一斉に満たした。


 普段はどうにも馴染めないこの味だけど今だけはなぜか心情に寄り添っているように思え、続けてもう一口を含んでみるのだけれど──やっぱり苦いだけだった。


 しきりに眉根を寄せ続ける、そんな私の耳をリニアの言葉が素通りしていく。


「ところでカフヴィナ。君は今しがた、店まで飛んできたのだったよね」

「ええ、そうですけど」


 通過していく問いかけに適当な返しを押し付けて、私は一口分の含みをだらだらと飲み下す。

 そして「それが何か?」と繋げようとして、ふいに言葉を詰まらせる。


 話しましたっけ?


 指摘と記憶の紐づけに失敗して小首を傾げる私をよそに、リニアは空いている方の手で私のカバンの肩帯を掴み、そのままぐいっと引き上げた。


「ふむ」


 小さく呟きながら、カバンを顔の前に吊り下げる彼女。掴んだ手首の動きを利用して、帯を中心にゆっくりと横回転させ始める。


 何をしているのだろうかと思いつつも、私は前の疑問を投げかけてみた。


「ええと、話しましたっけ?」


 そんな私の問いかけに、彼女は「ん?」とだけ声に出す。

 表情から察するに、主語がなくて問いかけの意図が伝わらなかったと見える。


「ですから、私がお店まで飛んできたこと、話しましたっけ?」


 必要情報を込め直して改めて問いかければ、彼女はカバンを見る目はそのままに小さく笑った。


「いやぁ、聞いてはいないね。見ただけだよ」


 見ただけということは、私が空でてんてこ舞いしている姿を窓から目撃でもしていたのだろうか?


 その旨を言葉にして問いかけを重ねてみれば、しかし彼女は私の推測に首を左右へと振った。


「そうではないね。私が見たのは君の足元だからね」


 足元?


 思いがけない単語の登場に、私は椅子を引いて自らの両足に視線を落とす。


「分かるかい、カフヴィナ。君が履いている黒のタイツ。左足の足首周りが少し濃い色に変色しているだろ?」


 私の視線が、漠然とした両足全体から左足の下の方へと絞り込まれる。


「察するにだ。君は今朝ここに来るまでの道中で、その左足を路上の水たまりにでも突っ込んでしまったんじゃないかい?」


「え、ええ、そうですけど……」


「やっぱりね。まぁそんな所だろうと思ったったから、飛んできたのかなと考えただけだよ」


 何ですって?


 これまでの会話の流れを直訳すれば、水溜りに足を突っ込んだから空を飛んできたと判断した、と。そういう解釈になりそうなのだが?

 いや、どういう筋立てなのかそれは。


 そんな疑問を、怪訝な想いを込めた視線とともにぶつけてみれば、


「いや、普通はそうだよねぇ?」


 口をへの字に曲げた蔑む表情で見下ろされてしまった。いらっとするし、そんな普通があってたまるか。


「いえいえ、普通は繋がりませんよ、そこ」

「いやいやいや、繋がるだろう~? 一般常識だよねぇ~?」


 蔑む表情の口元だけを器用にニヤニヤと動かしながらのこのセリフ。本当にこの人は、いつもいつも。


「そんな常識は持ち合わせていません」


 だからもっと詳しく説明しろと私が催促すると、彼女は面倒くささを全力でアピールするかのような顔作りを見せながらのたまう。


「ええ~。手間のかかる子だねぇ、カフヴィナちゃんは~」


 分かってやってんな、こいつ。


「いいから話してください」


 相手の仰々しさをピシャリとはじき返して先を促せば、やれやれとでも言いたげにカップを持つ手を小さく上下させ、視線を吊り下げたカバンに戻しつつ「いいかい?」と前置きをして始めた。



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