06

「雨が上がったのは今朝方だった。この街の石畳は、あまり水捌けがよくない。なら、路上もかなり濡れていただろうね。

 特に広場の噴水周りは極めて顕著だ。大方、いつものように噴水の中でも覗き込みながら歩いていて下手を打ってしまったのだろうね」


 くっ。図星だった。腹立たしい。


「そしてもしも仮に、君が水たまりに踏み入った後も、濡れた路上をよちよち歩いてきたのだとしたらだね⋯⋯」


 そこまで口にすると、リニアはカバンに向けた視線はそのままに、今度はカップを持つ手をちょいちょいと裏口に向けて動かして見せる。


「裏口の板床に、靴底の形をした水染みの一つでも残りそうなものだ」


 だが、と彼女は続ける。


「君が到着した際に、そんな痕跡は見受けられなかった。つまり、君の靴はここに到着した時点で、すでに乾いていたわけだ。控えめに言っても──」


 目と鼻の先と言ってもいい程度の距離なのにね、と締めくくられた言葉に私が改めて足元に視線を落とせば、

 まぁ確かに左足に残った水たまりの痕跡といえばタイツの足首周りくらいのものではあった。

 一応に見る限りは彼女の指摘のとおりではあるのだけど、しかし。


「ええと、その。乾いた⋯⋯というか、どっちかと言えば単純に私が水気を払ったか拭き取ったかしただけと見られそうなものですけど⋯⋯」


 何となく浮かんだ疑問を口にしてみる。すると彼女は楽しげに目を細めた。


「払ったり拭き取ったりしたのかい?」

「え、いえ、それは⋯⋯」


 確かに。私は水たまりに突っ込んだ左足を、払ったり拭き上げたりした覚えはない。

 覚えはないが、しかしこうもはっきりと言い切られてしまうと、何とな~く釈然としないのも本心。

 しかし何と言い返したものか?


「⋯⋯⋯⋯」


 私が言葉を詰まらせていると、リニアは吊り上げていたカバンをテーブルにドスンと降ろし、小さな声でこう言った。


「ま、大体は分かったかな」

「いや、いまいち分からないのですけど」


 反射的に即答してしまう。いやだって、本当に分からないのだから仕方ない。

 とは言え、またどうせ「どうして分からないんだ?」みたいな反応をされるんだろうと予想して軽く身構えてみれば──


「ん? ああ、そうではなくてだね……」


 と、奇妙な反応。何だ何だ、どうした?


「そうだね。とりあえず、そっちから片付けようか」


 怪訝に見上げる私をよそに、仕切りなおすように一言添えるリニア。カップの中身をもう一口すすり込み、「にが」と眉根を寄せている。


 というか。苦手なのにどうして毎朝毎朝、懲りもせずに淹れ続けているのか理解に苦しむ。と、


「では、そっちに話を戻そうか」


 カバンから開放された手を軽く回しながら、リニアは言う。


「さて。店の裏口から入ってきた君の靴は、すでに濡れていなかった。ちょっとだけ不思議だね。

 靴を巻き込んでタイツまで派手に濡らしてしまった足元だ。多少振り払ったくらいで水気を綺麗に落とせるものではないだろうし──」


 それにだよ、と彼女は微かに目を細める。


「拭き取ったという可能性も考えづらい。だって君、それらしい布切れを持っていなかったじゃないか」


 そう言って、カップを持った手を軽く上下に動かして見せる。

 これはつまり、私が”手”に布切れ的な物を持っていなかったことに対する指摘だろうか? いやいや、そんなのはどうとでも。


「ハンカチやタオルくらいなら、カバンに入れて持ち歩いていますが」


 ちょっと意固地すぎるだろうか? などと思いつつも、しかし反論の成り損ねのような言葉を口に乗せてみる。


「持ってはいるが、しかし使わなかったんだろう?」


 言い切られてしまった。むむむ。


 押し黙ってしまった私の態度を肯定と見たのか、リニアは続ける。


「仮にだね、カフヴィナ。もしも君が少しの水濡れも嫌がるほどの神経質魔女っ子君なのだとすれば。

 それなら靴磨きは水たまりに突っ込んだ直後だけでなく、店の前に踏み込む直前にも行っていそうなものだ」


「どんな神経質さですか」


「そうだね。君がそれほど神経質だったという記憶は私にはないかな」


「当たり前です」


「そう、当たり前だね、当たり前。そして当たり前ついでに言うならね。

 いま例に出した繊細魔女っ子ちゃんの性格を考えると、靴を拭き取った後の汚れた布切れを、後生大事にカバンやポケットに仕舞い込むなんて行動は、やっぱりちょっと考えづらいという見解も、まぁやっぱり当たり前だと思う次第なんだよね」


 あっ。と思った。だから”手”に持っていなかった、と?


 確かに。道すがら泥混ざりの雨水を拭き取った布切れを持ち歩く羽目になったとしたのなら──


「やっぱりそこは、手に持ったまま店まで入ってきて、その上で適切な処理方法を選ぶ。カフヴィナと言う人物像をすれば、そうなる流れが自然だと私には思えるんだよねぇ」


 確かに確かに。汚れた布切れをカバンに仕舞おうなんて事は思わないと⋯⋯思う。確かにそうなんだけど、ああでも。


「な、ならあれですね。きっとその辺の手頃な地面に、ぐりぐりと靴底を擦り付けてから入ってきたんですね。だったら床は濡れませんから」


 実際にはそんなことはしていないのだけれど、なんだか微妙にムッとした私はさやかな抵抗を試みてしまった。のだけれど。


「言っただろう、見る限りに靴は濡れていなかった、と。何だいカフヴィナ。君は地面で靴の側面も拭き取れるのかい? 器用だね、魔女っ子カフちゃんは」


 軽くあしらわれてしまった、無様だ。というか、何だ魔女っ子カフちゃんて。


「と言うわけで」


 区切るように、一つ声を大きくしたリニア。彼女はこんな風に続けた。


 大して長くもない家からお店までの道すがら、水たまりに突っ込んだ左足が到着した時点ですでに乾いていた。

 濡れた路面をびちゃびちゃと歩いてきたにしては、どうにも収まりが悪い。だったらいっそ──


「空を飛んできた、と考えてみるのもまた一興だと思ったり思わなかったりするわけだね」


 どういう言い回しだ、こんちくしょう。


「なにせ店の前まで飛んで来たと言うのなら、路面が濡れていることなんて気にしなくても良くなる」


 と、そこまで明朗に語り上げた彼女は、そこでほんの微かに声の調子を落として「しかしだよ」と繋げた。


「飛んできた、という考え方にも当然ながら問題がある。先にも言ったとおり、君の家とこの店の距離はあまりに短すぎるのさ」


 遅まきながら「ああ」と気付く。確かにそうだ。

 リニアが明示したこれまでの話を前提に据えるならば、濡らした靴はお店に着くまでに乾ききらなければならないわけで。


 ところが、私の住まいとこのお店の近さよ。

 噴水広場をぐるりと回り込めば到達できるほどの近距離で、それこそ鼻歌交じりに家を出ても、曲の主題に入る頃には到着してしまう程度には近い。こんな短時間では──


「ちょっと飛んだくらいでは乾きませんね」


 答えは知っている。街中を飛びまわってきた身としては、当然ながらに靴が乾いた理由を知っている。

 いるのになのに、意味も無く斜に構えて言葉を返してしまう。彼女を相手取ると、なぜかどうにも何時だってこうなってしまう。

 我ながら「なぜだろう?」と思わなくも無いのだけれど、どうせ反りが合わないとかそんな下らない理由なのだろう。


 意地悪をしながら腑に落ちない、そんな奇妙な心持の私の耳を、しかしリニアの言葉が調子を落とすことなく吹き抜けていく。


「これでは、例え空を飛んできたとしても、派手に濡らした左足の靴が乾ききるとは思えない。

 とは言え、歩いてきたとは思えず、なのに飛んできたとしたら辻褄が合わず……。

 それ以前に、大した意味も無く、たったそれだけの距離をわざわざ飛んでくるという判断自体も不自然極まりない」



 ならば答えは何なのか?



 これまででもっとも透き通った声が、店内の空気を微かに揺らした。


「答えだと考えても良さそうな物が、ここに詰まっていたよ」


 そう言って伸ばされた彼女の手が、先ほど卓上に戻されたばかりの私のカバンを指し示した。


「と言うわけで。取り敢えずの結論だよ、カフヴィナ」


 そんな前置きに、答えを知っているはずの私の喉が、立場も忘れてごくりと鳴った。


「失くしたボタンを見つけたいなら、探すべきおすすめは三ヶ所だね」


 一瞬の間をおいて。


「せめて繋げる努力をしてくださいっ!」


 会話の前後を繋ぎ損ねた私の叫びが、開店の差し迫った店内に木霊した。



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