とてもよくできた顔
とてもよくできた顔 一
暗闇の中で、耳にイヤホンを差し込んだ女がノートパソコンの画面を見つめている。画面から発される光だけが、女の顔をうっすらと照らしている。
画面にはマイクを手に持って歌っている様子の女が映っており、左上にyoutubeのロゴが表示されていた。
女はGoogleのページを開くと、検索欄に『tiny バンド』と入力した。検索結果からtinyのホームページを開くと、プロフィールページに飛んで、ボーカルの名前を指でなぞる。
「
厚ぼったい唇の間からふううと息を吐くと、歯を覗かせて、女はにやりと笑った。
ふと、部屋の外から、何かがぶつかるような大きな音がした。続けて男の怒鳴り声が聞こえ、女の悲鳴が上がる。
「うるさい!」
扉を開け、外に向かって女は怒鳴った。
それからふたたびパソコンを開くと、留美の写真を見つめて微笑んだ。
*
人気のない夜道を、ヒールの音をかつかつと鳴らしながら、留美は早足で歩いていた。
終電で慌てて帰って来たが、ライブの打ち上げが盛り上がって、駅に着いたのは午前一時過ぎだった。中学生の頃に露出狂に襲われて以来、夜道は一人で歩かないようにしていたというのに。隼人は他のバンドの人たちとライブハウスに残って朝まで飲むと言うし、なんとも頼りにならない。
本当は駅からマンションの近くまでタクシーを使うつもりだったが、金曜日だからか乗り場には行列ができていて、もういいやと諦めて歩いて帰って来たのだった。
――こんなことなら、タクシーを使うべきだった。
留美は、早くも後悔し始めていた。住んでいるマンションまでの道のりが、昼間に歩いている時よりもやけに長く感じる。もう少し歩けば、マンションが見えてくるはずなのに。
近くの街灯がジジ……と音を立てて明滅しており、留美はつい足を止め、そちらを見た。
街灯には、蛾が何匹か集まっていた。
急に、自分が今いる場所が不気味に感じられて――留美はよりいっそう足を早めようとして、立ち止まった。
誰かの、足音が聞こえる。
自分ではない、誰かの足音が。
留美は、ゆっくりと振り返った。
暗くてよく見えないが、路上には誰の姿も見当たらない。
もし自分以外の誰かがいたとしても同じ方向に帰っているだけだろうし、尾行されているなんてとんだ被害妄想だろう――そう思って留美が前を向いた、その瞬間。
留美の後頭部に、鈍器で殴られたような強い衝撃が走った。
留美はよろめきながら地面にうつ伏せに倒れ、後頭部を右手で押さえた。
右の手のひらを見ると、そこにはべったりと赤い血が付いていた。
*
「――恋人が、以前とは別人に見える?」
「はい。その、上手く言えないんですけど……俺が付き合ってた留美とは全然違うんです。仕草とか、癖とか」
掛橋は山園の紹介でやってきた依頼人、岡山の話を聞いていた。岡山は山園と同じ大学で一年上の先輩だったが、探偵事務所の噂をどこからか聞きつけて、是非とも調べてほしいことがある、と言って声をかけてきたらしかった。
掛橋はううん、と額に手を当てて考えてから、
「その疑惑を、裏付けるような出来事はないですか? 具体的にどこが違うとか……」
「はい。歌声が、違います」
横山は背筋をしゃんと伸ばして、自信満々でそう言った。
「……歌、ですか」
「俺、留美とはバンドで知り合ったんで。まあ、今はサークルの一環と言われればそうなんですけど……一応、メジャーデビュー目指してるんです」
「速水さんって、歌が本当に上手なんですよ。私は学園祭で一度見ただけですけど」
掛橋の横に座っていた
「力強くて、綺麗な声なんです。美人だからステージに立つとオーラもありますよね」
岡山は、まあ、彼女なんであんまり褒めるのもあれなんだけど、と言って、照れくさそうにうなずいた。
「他にも、変わったところはありますか?」
「あとは……最近、化粧をしなくなりました。服もTシャツにジーンズとか、わりと地味めな服装になって」
「そのことは、本人には?」
岡山は顔をしかめて、
「……一応、聞いてはみたんですけど。このほうが楽だからって言われて」
「なるほど。……でも、それだけだと、絶対に違う人だとは決めづらいですね」
掛橋は、眉をひそめてそう言った。長い間歌っていれば声帯を痛める可能性もあるし、服については本人の気まぐれかもしれない。
「それは、そうかもしれませんけど……うまく言えませんが、絶対に別人だと思うんです」
訴えかけるような顔で、岡山はそう言った。
――どうも、岡山は留美が本気で誰かと入れ替わったと信じているらしい。常識で考えればあり得ないことだが、よほどの自信があるようだ。
「留美が別人になってからは、一度スタジオで合わせたっきり、喉の調子が悪いって言って歌わなくなっちゃったんですよね。俺も説得はしてるんですけど……ライブもできなくて困ってるんです」
「……わかりました。とりあえず、少し調べてみます」
「本当ですか? ありがとうございます!」
岡山はそう言うと、両手を体の横に付けてしっかりと頭を下げた。
「良かったらCDも出してるんで、聞いてください。youtubeにもライブ映像を何曲か上げてるので」
帰り際に掛橋は、岡山からバンドのCDを手渡された。CDのジャケットにはアルバムのタイトルと、『tiny』の文字が書かれていた。
掛橋は両耳にイヤホンを付け、岡山からもらったCDを聴いていた。
「……幻想的な声ですね。Bjorkとか、Salyuみたいな」
イヤホンの片耳を外して、掛橋は山園に話しかけた。
「そうなんですよ。つい聴き入っちゃうような独特な声で」
「曲は、岡山さんが作ってるんですよね?」
「そうです。作詞は速水さんが」
作曲と作詞が別人だとは、言われなければ気付かないぐらい雰囲気がぴったりと合っていた。おそらく入念に話し合ってはいるのだろうが、二人の相性が良いのだろう。
「岡山さんは、バンド活動は大学に入ってからって言ってましたっけ」
「はい。高校からギターを弾いてたみたいですけど、軽音楽部で留美さんに会って、その歌声に一目惚れして……自分のバンドでボーカルをやってほしいって
「なるほど。……印象通りというか、実直な人なんですね」
「はい。そうなんですよ」
山園はそう言うと、くすっと笑った。
掛橋は印刷した、留美と岡山がツーショットで写っている写真を見た。
小さい顔に広い二重幅の目、
たしかに留美は、美人ではある。――が、果たして留美になり変わりたくなるほどかというと、掛橋には疑問が残った。
美容整形が手軽になった昨今では、お金さえ足りていればすぐに顔立ちを整えられる。電車に乗っていても、この人は整形したのではないかと、見ているだけでなんとなく思ってしまうこともある。整形とは、世の中の人々にとって特別なことではなくなりつつあるのだ。
掛橋も整形したいほどではないが、前髪で顔を隠してはいるし、自分の見た目には自信がない。人生に思い悩むぐらい外見にコンプレックスがあるのなら、整形すれば良いと思うが――大事な顔にメスを入れるのだから、トラブルを避けるためにも下調べはしっかりしたほうが良いとは思う。
とにかく、もし仮に岡山の言う通り、留美と誰かが入れ替わっていたとしても――ただ綺麗になりたいだけなら、他人と入れ替わるよりも、整形したほうがずっと不便が少ないのではないか。
にもかかわらず入れ替わったということは、他に何か理由があるのでは、と掛橋は思っていたのだ。
「そういえば、
ふと気付いたように顔を上げ、山園が言った。
「ああ、彼は数日休暇を取っていて、家族と旅行に行ってるみたいです。最近は働いてもらってばかりだったので、僕から提案しました」
山園はなるほど、と言って、パソコンの画面に目を戻した。
「さてと、どうしたもんか……」
写真を片手に、掛橋はつぶやいた。
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