新天地

新天地 一

 我孫子あびこは、忙しかった。

 午前六時半に起床、自分が当番の日には弁当を作り、ゴミ出しをして、自転車に乗って子供を保育園に送る。駅の駐輪場に自転車を停め、掛橋探偵事務所に出社。依頼の確認をしてメールの返信や電話連絡を入れ、軽めの昼食。それから小猫の捜索、浮気調査のための尾行、ゴミ屋敷の掃除などの仕事をこなす。運良く定時に上がれたとしても、家に帰ったら子供のオムツを取り替え、一緒に風呂に入って、youtubeでしまじろうチャンネルを見ていたらいつの間にか眠ってしまう。

 探偵の仕事の時間帯は案件によって不規則で、掛橋かけはしは無理をするなとおもんぱかってくれるのだが、我孫子は見た目によらず真面目な性格で、頼まれるとつい予定を入れてしまう。自分は体力ぐらいしか取り柄がないと思っていることも、仕事を詰め込む一因になっているのかもしれなかった。

 妻の真紀も掛橋と同様に我孫子を気遣ってくれるが、子供の面倒を見ながら保育園で正社員として働き、場合によっては家でも仕事をしている姿を見ていると、自分が手伝わなければ苦労をさせてばかりで甲斐性かいしょうがないように思える。

 ――世の中には、もっと忙しい人もいるだろう。そう思って自分を励まそうとするが、毎日毎日やることは増える一方で、ゆっくり過ごす時間はなかなか取れなかった。

 ある日の昼食後、我孫子は無性にコーヒーが飲みたくなり、チェーンのコーヒーショップに駆け込んだ。我孫子は普段、席同士の間隔が広い喫茶店を好んで利用しているが、次の仕事まで時間が少ししかなかったので店を選ぶ余裕がなかった。

 店内は混んでいて隣の客の肩がぶつかりそうな距離の席しか空いておらず、いまいちくつろげなかった。何もしていないとついネガティブなことを考えてしまいそうだったので、我孫子はスマートフォンを取り出し、久々にXのアプリケーションを立ち上げた。

『あたまいてえ』

『あ~仕事行きたくない~~~』

『メンタルガタ落ち。やはり労働は悪』

 仕事に対して悪態をついている友人たちのツイートを見ながら、そういえば今日は月曜日だったと、我孫子は思い出した。探偵事務所の仕事は不定期なので、いまだに曜日感覚が身につかない。

『すっかり元気! 今日も一日頑張ろう』

 ふと、タイムラインの中に一つだけ場違いな明るいツイートを見付け、我孫子はスクロールをする手を止めた。

「あれ……?」

 そのツイートは、我孫子と同じ中学校だった松坂まつざか慎二しんじのアカウントが発したものだった。

 我孫子が松坂に最後に会ったのは、去年の同窓会のことだった。松坂は大学卒業後、アニメ関係の雑誌を作る編集プロダクションの会社で正社員として働いていたが、心療内科で過労による適応障害と診断され、休職すべきか悩んでいた。

 その話を聞いてから少しして松坂とは連絡がつかなくなり、我孫子もそれなりに忙しくなったので、しばらくの間は会っていなかった。

 ――あれから、松坂の環境に何か変化があったのだろうか。

 我孫子は、松坂のタイムラインをさかのぼってみた。松坂は頻繁にツイートをしていたが、そのほとんどが他人のツイートを自分のタイムラインに乗せるリツイートで、まれに松坂自身のツイートがあっても、あまり意味のないアニメや漫画の感想ばかりだった。

 そもそも我孫子はアカウント登録はしているが、Xをほとんど見ない。ただでさえ客に小言こごとを言われることが多い仕事なのに、プライベートの時間まで他人の意見を目にすると、気疲れしておかしくなりそうだからだ。

「だめだ、わっかんね」

 我孫子はアイスコーヒーを飲みながらそうつぶやくと、アドレス帳から松坂の連絡先を探した。


 それから数日経って、待ち合わせ場所の駅前にやって来た松坂を見て、我孫子は驚愕きょうがくした。

 最後に会った時と比べて、松坂は遥かに生き生きとしていた。顔色も良く、肌につやがある。同窓会の時の土色の顔をした松坂とは、まるで別人のようだった。

「慎二。久しぶりだな」

 二人は、松坂が仕事の忘年会で使ったという居酒屋へと向かった。

「俺の職場、この駅の近くなんだ。お前の職場もこの辺だって聞いてたから、いつか会えるんじゃないかって思ってたんだよ」

 でもまあ、今回はお前から連絡をくれたんだけどな、と松坂は照れくさそうに言った。旧友に再会できて、松坂は嬉しそうだった。

「あれから、全然連絡取れなくなったじゃん。大丈夫だったの?」

「そうだ、聞いてよ。それがさあ……」

 松坂はにやけながら、事の顛末てんまつを話し始めた。 


                  *


 松坂は、仕事が忙しくなると会社に泊まり込み、近隣の二十四時間営業しているジムでシャワーを済ませ、会社のソファーで仮眠を取る。場合によっては昼食が取れないこともあるし、諸々もろもろの確認作業に追われ、ほぼ眠れない日もあった。

 上司は事務仕事のほとんどを松坂に投げ、自分は打ち合わせや外出ばかりで、一向に負担を減らそうとしてくれない。この業界は体を壊す人も多く、病気について相談したところで、暗に退職を勧められるのが関の山だろうと松坂は思っていた。出版業界はいまだに人気で、なり手など他にいくらでもいるのだ。

 松坂はとりあえず、仕事を辞めるかどうかはともかくとして、一旦何もかも投げ捨てて逃げ出してみたかった。一ヶ月、いや、一週間でもいい。ゆくゆくは出版社に転職し、金を稼ぎたいという目標を持って入社したが、体はとっくに悲鳴を上げている。

 近頃は食欲が湧かず、食べ物の味もしない。市販の胃薬を常用しているが、一向に良くなる気配はなかった。

 松坂は、職場の白い壁に囲まれていると、仕事が終わるまで、ここからは出られないのだ――とふと思い出して、途端に怖くなることがある。

 そう思った瞬間に、壁が自分に向かって迫ってくるように感じられ、息苦しくなって――今すぐにでも、会社から飛び出したいという衝動に駆られてしまう。

 コンビニに行きたければ他の社員に一声かければ良いし、打ち合わせなどの理由を作れば外出もできる。だが、たとえそうだったとしても――本来は、始業時刻から終業時刻までここに閉じ込められているという事実が、松坂に大きな負担をいていた。

 そんなことも重なって、自分は会社員自体に向いていないのではないかと、松坂は真剣に悩んでいた。

 今日も松坂は締め切りに追われて会社に泊まり込み、店員と顔馴染みになるぐらいに通っている小さなジムで、トレーニング器具は一切使わず、シャワーだけを利用していた。

 シャワーを浴び終え、脱衣所で髪をタオルで拭いていると、

「お困りですか」

 隣に立っていた男性が突然、思ってもみなかった言葉を発したので、松坂は辺りを見回した。

 脱衣所には、松坂とその男性の二人しかいなかった。黒髪の七三分け、やや面長で尖った耳のその男性は、松坂のことをしっかりと見つめていた。

「あの……自分のことでしょうか」

 自分の顔を指しながらそう尋ねると、男性はうなずいた。

「どうも、顔色がお悪いように見えましたので」

 松坂は鏡の前まで行き、自分の顔を見た。目の下にはうっすらとくまができ、頬は青白く、頬骨に沿って影ができている。げっそりとしていて、とても健康には見えなかった。

「ああ、いえ、その……ちょっと、仕事が忙しくて。でもまあ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 会社に戻らなくてはと思い、松坂は男性の発言を適当に流そうとした。

「お困り事でしたら、わたくしが解決しましょう」

「え?」

 脱衣所から出ようとしていた松坂は、思わず振り返った。

「あなたが頭の中に抱え込んでいるものはすべて、綺麗さっぱりなくなって――あなたは今よりずっと自然で、直感的に生活できるようになります」

 そんな、都合の良いことがあるものか。

 松坂は男性を無視して、脱衣所から出ようとした。男性の発言は何だかカルトめいていて、不気味だった。

「脳のキャパシティが、オーバーしているのですよ」

 男性は黒いスーツを羽織り、よく響く声で言った。

「は?……何ですって?」

「今のあなたの状態です。脳味噌の容量過多、ということです」

 松坂がまだぽかんとしていると、

「このままでは――命をおびやかすような事態になりかねません」

 男性は急に、鬼気迫る表情になってそう言った。

 松坂は頭の中で、いくら噛んでも食事の味がせず、食事が終わるとトイレに駆け込み、胃の内容物を便器にぶちまけている自分の姿を思い出した。

 男性は松坂の腕をそっとつかみ、

「ここでご説明するのにも限界がありますから、行きましょう」

 そう言って、微笑んだ。


 道すがら、男性は出門でもんと名乗った。出門は髪の毛にポマードを塗りぴっちりと七三に分け、スーツをしっかりと着ている、今時ではあまり見かけない古風なサラリーマンのようなで立ちをしていた。

 松坂が出門に連れて来られたのは、窓がなく、打ちっぱなしのコンクリートで造られた、四角くて無機質な建物の中だった。

 話を聞くだけ聞いて、怪しそうなら帰ろう。今は他の社員も仮眠を取っている時間だし、会社には朝までに戻れば良い。――そう思いながら、こんな時でもまだ仕事のことを心配している自分に気付き、松坂は苦笑した。

 部屋の中央には、整体院で見るようなマッサージベッドが置かれていた。ベッドの近くには銀色のワゴンが置かれており、その上にトレーが載っていて、そこはさながら簡易的な手術室のようだった。

 出門は松坂に、ベッドの上に仰向けに寝るようにうながした。

「どうぞ、リラックスなさってください」

 知らない男性に見知らぬ場所に連れて来られ、無防備な状態で体をさらさせられる。一体こんな状況で、どうやってリラックスすれば良いのか。

 そう尋ねると、出門は笑いながら言った。

「肩の力を抜いて、何も考えなければ良いのです。こんな風にお休みになられるのは、きっと久々のことでしょう」

 言われてみればその通りだった。毎日仕事に追われ、家で横になってもいつ電話がかかってくるかが不安で眠りに就けず、いざ眠れてもろくに休めた気がしない。毎日がその繰り返しだった。

 出門は松坂に、マッサージでも施す気なのだろうか。疲れが取れないと嘆いていると、周囲の人からは整体院や鍼灸院はりきゅういんを勧められた。あまりにも店の数が多くて行く時間も確保できず、そもそも松坂は接客されること自体が苦手だったので、結局行かずじまいだったが。

 ぼんやりと天井を見上げながら、松坂はついうとうとし始めていた。

 ――次の瞬間、松坂はぎょっとして一気に目を覚ました。

 出門が、松坂の手首を太いベルトでがっちりと巻き付け、固定し出したのだ。

 松坂は体を起こそうとしたが、溜まった疲れが溢れ出た体に抵抗するような気力は残っていなかった。

「暴れるとかえって良くないので、安全のためにこうしているだけです。大人しくしていただければ、痛くはありませんから。大丈夫ですよ」

 子供をなだめるような出門の声を聞き、松坂は諦めてベッドに体を預けた。

 いっそのこと、もうここでどんな目に遭っても良い。騙された自分が、馬鹿だったと思うしかない。――どの道、生きていながら死んでいるような状態だったのだ。

「それでは、失礼します」

 出門が手に持った工具を見て、松坂は体から変な汗がどっと吹き出た。

 ――それは、長さ二十センチほどの錆びた釘抜きだった。

「ちょ、ちょっと。何するんですか」

「暴れるとお痛みがあるかもしれませんので、どうか安静になさってください」

 穏やかな口調でそう言われても、松坂は落ち着けなかった。

「顔をこう、横に向けていただいてもよろしいですか。わたくしが立っているのとは逆の方向に」

 松坂は仕方なく、言われた通りの方向に顔を向けた。

 後頭部にひやりとした鉄が当たる感触がして、出門が釘抜きを押し当てていることがわかった。松坂は恐ろしくなって、ぐっとまぶたを閉じた。

 ――やがて、不思議と頭が軽くなり、先ほどまでの倦怠感が見る見るうちに減っていった。

「……終了いたしました」

 出門がベルトを外したことがわかり、松坂は体を起こした。

 出門はワゴンを手元に寄せ、松坂の頭から出てきたとおぼしき十五センチほどの長さの釘をステンレスのトレーの上に置いた。

 松坂は、トレーの上の釘を見た。何の変哲もない、家具を作る時に使われるようなごく普通の釘だった。

「――これが、俺の頭に埋まってたんですか?」

 出門は黙ってうなずき、

「自分の考えていることが、本当に能動的に自分が考えていることなのかどうかを疑ったことはありますか?」

 松坂は、出門の言葉の意味がさっぱりわからなかった。

「我々が考えていることの大半は、外部からの情報を処理しているに過ぎないのです。正確に言うと考えているわけではなく、。それをさも自分の意思で考えているかのように、勘違いをしているわけです。……ですからわたくしは、そういった雑念を取り除くお手伝いをさせていただいております」

 そんなはずはない。実際に頭に釘が埋め込まれていたとしたら、間違いなく脳の機能に異常をきたすはずだ。だが――。

 だがもしも、通常の人間には見えないものだったとしたら――。

 出門の言葉を裏付けるように、松坂の頭は、今までに感じたことがないぐらいに軽くなっていた。


                  *

 

「な、すごい話だろ?」

「そりゃ、ほんとだったらすごいけどさ、お前……」

 大丈夫なのかよ、と言おうとした我孫子の言葉をさえぎって、松坂は財布から一枚の名刺を取り出した。

「俺、時間を見付けては釘を抜きに行ってるんだ。おかげで頭はえてるし、前よりも世界がはっきりして見える。……嘘だと思ったら、実際に行って試してみてよ」

 我孫子は、松坂から受け取った名刺を見た。

 真っ白な台紙に『出門安則やすのり』という名前、住所と連絡先が記されていた。

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