夏の盛り 五
文博が帰ってきたのは、新幹線の終電まで二十分を切った頃だった。
今からすぐに車で送ってもらったとしても、もう間に合いそうにない。掛橋は今か今かと帰りを待っていたのだが、文博の車を見てからスマートフォンで時間を確認して、肩を落とした。
いっそのこと徒歩で帰ってしまおうかとも思ったが、いったん依頼を引き受けた以上、途中で放棄するわけにはいかなかった。金銭の問題というより、不人情というものだ。
「申し訳ない、思ったより道が混んでまして。明日の朝には車で送ります」
文博は大して悪びれる様子もなくそう言うと、車のトランクから段ボール箱を出し、運び始めた。
「それ、何ですか?」
「妻の遺品です。東京の家に置いたままだったので」
「じゃあ、俺も手伝いますよ」
山園へのメッセージを送り終え、なかばやけくそ気味で、掛橋は声をかけた。
「申し訳ない。二階の寝室までお願いします」
「封は解いていいんですか?」
「ええ、構いません」
寝室に着くと、掛橋は段ボール箱のガムテープを剥がし、中を見た。
乱雑に詰め込まれたワンピースやブラウスなどの衣服の上に、緩衝材に梱包された写真立てが入っていた。
段ボール箱を抱えた文博は、部屋に入ってきて掛橋を見ると、写真立てを手に取って緩衝材を外した。
森林を背景に、白いワンピースを着た黒髪の女性が手を広げ、満面の笑みを向けている。
「妻です。……美人でしょう」
文博は、掛橋に同意を求めるようにそう言った。
「……そうですね」
水槽の中にいた物体を思い浮かべながら、掛橋は答えた。こんなに綺麗な女性があんな姿に変容してしまうなんて、死とはつくづく恐ろしいものだと思った。
「朝子は活発な女性で、私とは正反対の性格です。知人の紹介で知り合ったのですが、歳も離れていたし、この歳まで未婚だった私が、まさか良い返事がもらえるとは思っていませんでした」
ベッドに腰かけながら、文博は遠い目をしてそう話した。
「子供は作ってやれませんでしたが、初めのうちは、二人で過ごしているだけで楽しかった。朝子がそこにいるだけで、私の生活はそれまでに経験したことがないぐらい華やかになりました。ですが、朝子のご両親は、私たちの結婚には最初から反対していましてね。次第に朝子は悩むようになり、私と
文博はうつむき、溜め息をついた。
結婚どころか好きな人もできたことのない掛橋は、曖昧な相づちを打つことしかできなかった。こういった話題は友人間でも上ることがあるが、いつまで経っても実感に乏しい。
「箱は全部運び終わったので、閉めてから部屋の隅に寄せてもらえますか。風呂を湧かしてきます」
文博は部屋を出て行きかけて立ち止まり、振り返った。
「……そういえば掛橋さん、昨晩はよく眠れましたか?」
文博にじっと見つめられ、掛橋は目を逸らした。
「いえ、その、あんまり……」
「よかったら、普段私が飲んでいる薬をお分けしましょうか」
――ひょっとして、睡眠薬のことだろうか。掛橋は慌てて首を振った。
「そういうものは飲んだことがないので……遠慮しておきます」
文博はふっと笑うと、
「冗談ですよ。病院で処方された物ですから、勝手に渡すことは禁止されています。居心地が悪くて申し訳ないですが、どうかご容赦ください」
そう言って、部屋を出て行った。
*
掛橋はダイビングスーツを着て酸素ボンベを背負い、海の底深くを泳いでいた。
天気が悪いのか、海の中は暗くて前がよく見えない。魚の姿もまるで見当たらず、方向感覚がわからなくなる。
暗闇に一人取り残されたような気がして、掛橋はとても心細かった。
――早く、岸に上がりたい。
どこへ行けばいいのだろう。一体、どこを目指したら良いのだろう。
暗くて広大な海の中、掛橋は焦りと恐怖でいっぱいだった。
目を凝らすと、奥に何かが白く光っているのが見えた。ぼんやりとした光に誘われるように、掛橋は両手を動かしてゆっくりと前に進んだ。
やがて、視界の中に、突然それが現れ――掛橋は、進むのをやめた。
それは、大きなクラゲだった。しかし、クラゲの中に、朝子の姿は見えなかった。
クラゲは坂口家で見た時よりもしっかりと傘を大きく動かし、掛橋のほうに近付いてくる。毒を持っているかもしれないのに、その壮大さと美しさに掛橋は見惚れてしまい、息を呑んでその場に留まっていた。
ふと、何かに触られた気がして、掛橋は下を向いた。
――海底から二本の白い腕が伸び、掛橋の体をがっちりと掴んでいた。
掛橋は、声にならない悲鳴を上げた。
――したのに。
どこからともなく、掛橋の耳に、しわがれた低い声が聞こえた。海の中にいるとは思えないぐらい明瞭に、はっきりと。
海底から、また白い腕が現れた。
無数の白い腕が、海底に掛橋を留まらせようとしている。掛橋は腕を振り払おうと懸命にもがいたが、抵抗しようとすればするほど、締め付ける力は強くなっていく。
突然、クラゲの中に、朝子が現れた。
掛橋は、動きを止めた。蛇に睨まれた蛙のように、初めて間近で朝子の姿をしっかりと見た掛橋は、恐怖で身がすくんで動くことができなかった。
朝子の血走った目がぎょろりと動いて、掛橋を睨みつけた。
――あなたが、殺したのに。
口を動かし、朝子ははっきりとそう言った。
*
ソファーの上で、掛橋は飛び起きた。
テレビの横に置いてあったデジタル時計のアラームが、リビング中にけたたましく鳴り響いていた。
どうせ今晩も眠れないし、むしろそのほうが良いだろうと思っていたが、ほぼ丸一日眠っていなかったせいか、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
アラームは、どういうわけか掛橋の知らないうちに設定されていたようだ。起き上がって時計を手に取ると、時刻は午前四時過ぎだった。
――ふと、掛橋の鼻を妙な臭いがかすめた。
焦げ臭い。まさか――。
そう思うとほぼ同時に、掛橋は寝室に向かって走り出していた。
「文博さん! 文博さん!」
叫びながら、階段を一段飛ばしで上る。返事はない。
寝室のドアを開けると――
朝子の遺品が、段ボールに入ったまま燃やされていた。
ベッドの上に、文博の姿はなかった。
掛橋は、天井を見上げた。消火用のスプリンクラーが作動している。火が下の階まで広がることは、おそらくないだろう。
掛橋は次に、クラゲの水槽のある部屋へと向かった。――やはり、朝子もいなかった。
他の部屋の扉も開けて確認したが、文博は見当たらない。掛橋は急ぎ足で、家の外に出た。
――海側の崖の先に、文博は立っていた。その腕には、ぐったりとうなだれたクラゲが抱かれていた。中には、朝子が入っていた。
「文博さん!」
文博は掛橋と初めて会った時のように、穏やかな笑みを
その口が、わずかに動いた。
「あとのことは、よろしくお願いします」
文博は、掛橋のほうを向いたまま、崖下へと落ちて行った。
掛橋は呆然として、その場に膝をついた。
掛橋の通報で救急車と消防車が駆け付け、火は無事に消し止められた。
スプリンクラーのおかげもあって、燃えたのは坂口家の寝室の一角だけだった。出火の原因はおそらく文博が段ボール箱を燃やしたことだが、部屋の隅に箱を寄せていたことが不幸中の幸いだった、と消防署員が話していた。
掛橋は気が動転していて気付かなかったが、リビングのダイニングテーブルの上には、文博の遺書が置かれていた。そこには、残された生き物たちは旧知の教授に託し、遺産は日本動物園水族館協会に寄付してほしい、と書かれていた。遺書の日付は、掛橋がここへ来る一日前だった。
掛橋は、文博が飛び降りる前に言ったことを思い出した。
掛橋が万一、アラームの音で目を覚まさなかったとしても、文博は掛橋を巻き込む気などなかったのだ――たぶん、初めから。
飛び降りてから間もなく通報したはずなのに、文博と朝子の遺体は発見されなかった。
「掛橋さん、お帰りなさい!」
警察の事情聴取を終え、掛橋が疲れ切った様子で事務所に帰宅すると、山園が飛びつくように駆け寄ってきた。
「やっぱり、大変だったじゃないですか」
山園は頬を膨らませ、不満そうに言った。
「まあまあ、とりあえず無事だったことを喜びましょうよ」
笑いながら、我孫子がそう言った。
我孫子
ワックスでセットされたやや長めの茶髪に、こんがり焼けた肌。Tシャツに半ズボン、ビーチサンダルといった格好の我孫子は、ぱっと見には夏休み中の派手めな大学生のようだった。
「大丈夫でしたか? 疲れてるみたいですし、今日は休んだほうが……」
山園は、掛橋の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ありがとうございます。ちょっと仕事したら休みます」
掛橋はデスクに座り、窓の外を見た。ソファーに座り直した我孫子が、山園に向かって、泊まりきりで社員寮の清掃に行かされたことへの愚痴をこぼし始めるのが聞こえた。
商店やビルが立ち並ぶ、普段と変わらない、のどかな景色。先ほどまでに起きたことが、すべて夢だったと錯覚しそうになるぐらいに現実的だった。
――掛橋にはまだ、引っかかっていることがあった。
それは、朝子の死因についてだ。文博はダイビングについて、妻が行きたがったのだと言っていた。
――本当は、文博から誘ったのではないだろうか。
朝子を連れているのにわざわざインストラクターが同伴しないセルフダイビングを選んだ理由も、そのほうが気兼ねなくできる、自分がいるから問題ないと文博が言ったのだと思えば納得できる。
文博は、最初から朝子とはぐれるつもりだったのではないだろうか。
初心者の朝子がまごついている間に遠くへ泳いで行き、夫の姿が見えなくなって混乱した朝子は、慌てふためいて溺れてしまう。
つまり、文博は――朝子を殺したのかもしれない。
文博は朝子の両親と揉め、そのせいで朝子とも関係が悪くなったと言っていた。朝子を殺してよみがえらせることができれば、朝子を独占することができる――。
だとしたら、文博は自分の手で妻を殺し、殺した妻を生き返らせ、ふたたび殺したことになる。
一体、何のために?
考えていた掛橋は、暗闇の中で朝子に許しを乞うていた文博の姿と、朝子のいた部屋だけが埃にまみれていたことを思い出した。
――ひょっとしたら文博は、自分の手でよみがえらせたはずの朝子のことが、怖くなったのではないだろうか。
いくら生き返ったといっても、一度は殺した相手なのだ。朝子が自分に見捨てられて死んだことを思い出し、自分のことを呪い始める――文博は、そんな妄想に取り
「不老不死、か……」
とはいえこれらはすべて、掛橋の妄想だ。確認すべき相手はこの世にもういないのだから、証明のしようがない。
――二人は、どこに行ったのだろう。
掛橋は目を閉じて背もたれに身を預けると、文博が両腕に朝子をしっかりと抱き、海の上を静かに漂っている姿を思い描いた。
耳の中に、波の音が聞こえてくる。
二人は、文博が望んだ通り、二人きりの世界に行けたのだろうか。
――それは、誰にもわからない。
参考
『鉄鼠の檻』 京極夏彦著/講談社
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