夏の盛り 四
「そんなわけで、今日、明日はこちらにいることになりました。文博さんが戻ってきてからすぐに出たとしても、そちらに帰るのは明日の夜遅くになると思います」
『わかりました。とりあえず今日は私がここに泊まって、さとちゃんの面倒も見ますから、心配しなくて大丈夫です。
「でも、事務所に一人きりって……大丈夫ですか?」
掛橋が心配そうに尋ねると、電話口からは山園の快活な笑い声が聞こえた。
『これでも一応、高校生の頃から一人暮らししてますから。……それに、家であろうと事務所であろうと、女性一人で過ごすことの危険度は変わらないと思いますよ』
茶目っ気を含んだ声で、山園はそう言った。それはそうなのかもしれない。掛橋が、勝手に負い目を感じているだけだ。
「それじゃあ、本当にすみませんが……事務所のこともさとのことも、どうかよろしくお願いします」
『掛橋さん。……そちらのほうこそ、大丈夫なんですか?』
山園にはよけいな心配をかけたくなかったので詳しくは話していなかったが、自分に何かあった時のために、妙なものがあったことだけは伝えていた。
「俺も、自分の身は守れるように気を付けるつもりですし、大丈夫だとは思います。……ただ、もし、明日の夜になっても俺から連絡がなかったら、叔父に連絡して、こちらに来るように伝えてもらえますか。伯父の連絡先とこちらの住所は、あとで送ります」
掛橋の脳裏に、山園から聞いた未来の映像が浮かんだ。
掛橋の背後にあったという、火の手が上がっている建物――やはりそれは、坂口家のことなのだろうか。
掛橋は山園に、スマートフォンで撮影した家の写真を送っていた。ありふれた外観の建物なので断言はできないが、映像の中で視た建物と似ている気がする、と山園は言っていた。
――ふと、掛橋は思い付き、
「そういえば、山園さん。今、俺の未来って更新されてたりしませんか?」
「……掛橋さん。私は対象者と直接会っていないと何も視えないって言ったじゃないですか」
そういえば、以前、そんなことを聞いたかもしれない。
掛橋は山園に礼を言うと、電話を切ってから小華田の連絡先とこの家の住所を送った。
それから掛橋は癖でスマートフォンをポケットにしまおうとして、浴衣にはポケットがないことに気付いて苦笑した。持ってきた巾着型のバッグの中を見て、護身用の折り畳みナイフが入っていることを確認する。帯の間に忍ばせようかと思ったが難しそうなので、バッグごと肌身離さず持ち歩くことにした。
文博は明朝すぐに家を出るとのことだったので、今晩は文博と一つ屋根の下で過ごすことになる。
自分の妻をあんな姿に変えた者が同じ家にいる、というのはやはり、考えれば考えるほど、不気味なことのように感じられた。
掛橋は、夜空にくっきりと浮かんでいる丸い月を見上げた。耳を澄ませると、遠くから波の音が響いてくる。世間から
不意に寒気を感じ、掛橋は腕をさすりながら、家の中へと戻った。
「汗だくでしょう。風呂を湧かしておきましたが、先に入られますか?」
外から戻った掛橋に、文博が声をそうかけた。
「じゃあ……すみませんが、そうします。ありがとうございます」
風呂から出た掛橋に、文博はパジャマまで用意してくれた。少し気が引けたが、それ以上に身体がべたついて気持ち悪かったので、ありがたく使わせてもらうことにした。ナイフは、パジャマのポケットに入れた。
夕飯は文博が出前で取った寿司を食べた。あんなものを見たあとなので、いまいち味はしなかったが、腹は満たされた。
――掛橋は、一人で暮らしている気の優しい老人の世話になっているような錯覚に
だが――掛橋は自分に言い聞かせるようにして、一階の天井を見上げた。
決して、忘れてはいけない――二階には、彼女がいるのだ。
寝室には一人用のベッドしかないので、リビングに布団を敷いて寝てもらうことになる、と文博が申し訳なさそうに言ったので、掛橋は快諾した。もとより文博と同じ部屋で眠るほうが、抜群に落ち着かなさそうだと思っていたのだ。
夜になっても掛橋は電気をつけたまま、ソファに座って持ってきた本を読もうとした。が、様々な考えが頭の中を渦巻き、とても集中できなかった。
結局、山園が視た映像は何だったのだろう。本当に彼女の言った通りになるとしたら、いずれこの家は――
その時、天井の上から物音が聞こえた気がして、掛橋は現実へと一気に引き戻された。
とん、とん、とん……。
それはゆっくりとした、誰かの足音のようだった。
さっきまでは静かだったのに、文博が用を足すために起きたのだろうか。彼の年齢なら、不思議なことではないだろう。
だが、その足音は、朝子がいる部屋の方角で止まった。
文博だとしたら、こんな時間に朝子に何の用があるというのだろう――。
掛橋は、音を立てないようにそっと起き上がった。
何もなければ適当な理由を言って、リビングに戻ればいい。そう思いながら、掛橋は階段を上った。
掛橋は、朝子の部屋の扉の隙間から中の様子を覗き見た。部屋の電気はついていなかったが、水槽に付いている照明が室内を薄ぼんやりと照らしていた。
部屋の奥には、文博がいた。
「なあ、今も……るのか?……して……れ……、俺は、本当に、お前を……して……」
文博は床に膝をついて水槽のガラスに指を這わせ、クラゲに向かって話しかけていた。
掛橋の位置からだと文博の顔の右半分が見えるか見えないかといったところで、口が動いていることはかろうじてわかるが、表情までは読み取れない。
文博は――朝子が、返事をするとでも思っているのだろうか。
クラゲも人の頭もよく見えず、透明な傘に包まれた生首が揺れているのが見えるだけだ。もちろんあのような状態で、朝子が喋るはずはないのだが――。
「お前……俺から…………てたのが、俺は…………った。どれだけ……」
わずかに聞き取れた文博の言葉の調子は、それまでに聞いたどの口調とも違っていて――とても、感情的だった。
闇の中で、独りで何かを告白し続けている文博は――少し壊れてしまっているのかもしれないと、掛橋は思った。
掛橋はそのまま、しばらく文博の様子を見ていた。が、文博は当分その場から動きそうになかったので、そっと部屋をあとにした。
朝になり、文博は家を出て行った。
掛橋は用意された朝食を食べ、文博からもらったメモを頼りに、餌をやらなければいけない魚たちの水槽を回り終えた。例のクラゲの水槽は、朝のリストの中には入っていなかった。
水槽の数は多く、普段から運動不足気味の掛橋にとって、餌やりはなかなか骨が折れる作業だった。指示された全ての作業を終えると掛橋はソファーの背もたれにどさっと身を預け、バッグの中から持ってきた小説を取り出した。
昨晩もほとんど眠っていないから疲れ切っているはずなのだが、この家にいると、どうも神経を張り詰めてしまう。
しんとした家の中に一人でいるとどうしても朝子のことを思い出してしまうので、掛橋は、普段は見ないテレビをBGM代わりにつけて過ごすことにした。
――やがて昼になり、昼食前に餌やりを終えてしまおうと思い、掛橋は腰を上げた。文博が洗濯してくれた浴衣に着替えると、テーブルの上に置かれたメモを手に取り、説明が書いてあるページまで何枚かめくっていく。
と、メモの一点に目が吸い寄せられた。
『2F 西向きの部屋 朝子』
どくん、と心臓が大きく鳴った。
心のどこかで、その時が来ることはわかっていたはずなのに――逃げ出したいのか、それとも期待していたのか、掛橋にはよくわからなくなっていた。
掛橋は、考えながらゆっくりと階段を上っていった。
あの物体は生きていないと思ったはずなのに、なぜこれから
何もかもが
小窓にかかったカーテンを開き、水槽の中をなるべく見ないようにしながら、棚に置かれた餌の粉末が入った箱を手に取る。メモに書かれた量を参考に手のひらに粉末を出し、シリンジで吸い上げた。
――掛橋の手は、わずかに震えていた。
親指でシリンジの内筒を押し込み、クラゲに向かって、外筒に入れた餌を吹きかける。するとクラゲは水面のほうを向いて、触手を動かして餌を巻き込み、傘の内部にある胃に、餌を吸収するような動きを――。
掛橋は、手を止めた。
クラゲはメモに書かれた通りに大量の触手を動かし、餌を口のほうへ誘導していった。餌が傘のてっぺんにある胃に到達すると、透明だった胃の色が、餌の粉末と同じ茶色に変わっていく。
生きて――いるのか。
掛橋は、もはやこの状況に理屈を付けることを放棄した。目の前にいるのは、まぎれもなく能動的に触手を伸ばしているクラゲだ。ならば、このクラゲは――生きているのだと、そう解釈するほかなかった。
――だとすると、朝子はどうなのだろう。
掛橋は、クラゲとその中にいる朝子を見つめた。広がっては
朝子は最初に見た時と変わらない様子で、虚ろな目を開き、うつけた表情のままだ。
――ふと、朝子の口がわずかに動いたような気がした。
左の口角が、ほんの少しだけ持ち上がって――朝子はまるで、掛橋に向かって微笑んでいるかのようだった。
掛橋は、途端に背筋が寒くなった。
今すぐここから離れたい、逃げ出したいという気持ちが湧き上がってきた。が、それに反して、まだ朝子を見ていたいという好奇心もあった。
――朝子の口元に運ばれていった餌は、いつまで経っても口の中に入ってはいかなかった。薄開きの口元の入口で、所在なげに漂っているだけだ。
掛橋は、ひとまず安堵した。朝子が自分に襲い掛かって来るのでないかという、根拠のない妄想が振り払えなかったからだ。
掛橋がシリンジを片付けていると、水槽のガラスの表面に指が当たり、そこにもうっすらと埃が積もっていることに気が付いた。
部屋を出て行く前に、掛橋は振り返った。
相変わらず、朝子が動く気配はなかったが――その目は掛橋が餌をやっていた時よりもしっかりと、こちらを向いているような気がした。
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