夏の盛り 二
掛橋は、探偵事務所の元持ち主である、小華田
依頼主は小華田の通っていた大学のOBで、依頼内容は会ってから直接話すとのことだった。依頼主たっての要望で、なるべく一人で来てほしいということだった。
『海洋生物の研究をしてる人でな。友達の紹介で、俺がやってたマジックの公演に、たまに来てくれてたんだよ。一、二回打ち上げで一緒に飲んだぐらいで、大した面識はないんだけどな。……まあ、悪い評判を聞いたこともないし、大丈夫だろ』
先日の電話で、小華田はぶっきらぼうにそう言っていた。
小華田はマジシャンを引退してから地方で細々と暮らしており、事務所にはもう関わっていない。なのにいまだに依頼の半分以上は小華田からの仲介なので、なんとも情けない話ではある。
だが、どんなに広告を出したり、駅前でビラを配ったとしても、ただでさえ何をやっているかよくわからない探偵事務所などに用がある人間など、そうそう見つかるものではなかった。
小華田から紹介してもらった仕事は、ペット探し、引越しの手伝い、不倫調査などの探偵としてはありがちな仕事からそうでないものまで
それでも、今回の依頼を断らなかった理由は――日々、便利屋のように扱われて
『文博さんと最後に会ったのは、三年前ぐらいだったかなあ。年下の奥さんと来てたんだ。似つかわしくない……と言ったら失礼かもしれんが、ずいぶん綺麗な人だったぞ』
電話越しに小華田のにやついている顔が想像できるくらいの声で、小華田はそう言った。
年下の嫁と地方でひっそり暮らしている研究者からの、人には言いたくないような依頼――。
そんなはずはないと思いながらも、掛橋の頭の中には、先日読んでいた不老不死の小説の内容がよみがえり、好奇心がむくむくと頭をもたげるのを感じた。
――要するに、掛橋は退屈していたのだ。
都会の賑やかなランチタイムとは正反対のように、『いこい食堂』の店内は静かだった。客は掛橋の他にはあと一組、家族連れが店の隅で食事をしているだけである。
外の駐車場にも、停まっている車は少なかった。平日の昼中で、海からも少し離れた場所なので、利用客は地元民に限られているのだろう。
「お待たせしてすみません、海鮮丼です」
人のよさそうな笑みを浮かべながら、エプロンをつけた中年の女性が海鮮丼を運んできた。ありがとうございます、と掛橋が言って割り箸を手に取ろうとすると、女性はそのまま小上がりに腰を下ろした。
いくら店員とはいえ、他人に近距離で見られながら食べるのは落ち着かない。掛橋は迷ってからそっと割り箸を割ると、白飯の上に載った卵焼きを小さく噛み切って口に入れた。
「お客さん、そんなに痩せてんだから。ちまちまくわねど、いっぺえ、けえ」
笑いながらそう声をかけられ、掛橋は箸を持ちながら、頭の中で必死で方言を噛み砕いた。
おそらく『痩せて』と『くわねど』という単語からして、痩せているからいっぱい食べろ、と言われたのだと思った。が、もともと自分はそこそこに食べるほうで、見られているからこうなっているのだ、と掛橋は思った。
掛橋は仕方なく、はあ、と頭を下げ、白飯を一気にかきこんだ。相変わらず視線を感じていたので、あまり味はしなかった。
その様子を見て、女性はにこにことしながら、
「お客さん、どこからいらっしゃったのぉ?」
「あ、はい。東京です」
「東京。まあ、そんな遠いところから、よく……海水浴で?」
「いえ、知人がこの近くに住んでいて……
「さかぐち。さかぐち……下の名前は?」
掛橋はスマートフォンを取り出し、小華田から来たメッセージを確認した。
「坂口
「さかぐち、ふみひ……ああ、あの。あの人ね。ごめんねぇ、滅多に見かけないさげ、ほろけちゃって」
ほろけるの意味がわからなかったが、掛橋は
「しっかしまあ、あの人に会うためにここさ来るなんて、よいでねぇ」
「文博さんと、話されたことはあるんですか?」
女性は首を横に振った。
「んでね。あの人は町内会にも入ってねど、うちに一回挨拶に来たぐらい。うちの旦那はのぉ、教授さんだで立派な人だっつって褒めてたけんど……」
女性は眉をひそめ、掛橋から目を逸らした。
「こげなこと言うのも悪いけんど、私にとって、あの人はなんだが……」
そして、顔をゆがめながら、
「おっかね」
と、一言だけ言った。
どうやら依頼主は、近所付き合いが良いほうではないらしい。ますます嫌な予感がしてきたな――と、掛橋は思ったが、ここまで来たのに引き返す選択肢はなかった。
掛橋は店を出る前に足の親指と人差し指の間に
掛橋は女性に礼を言い、海鮮丼を食べ終わって店を出た。女性はもっけだのぉ、と言っていた。
その建物は、奇妙な場所にあった。
外壁は白く、四角い形をした、横長の事務所然とした近代的な建物だった。海の上にせり出したような断崖を背に、いかにも無理矢理床を敷きつめたように、所狭しと建っている。こんな場所にあえて建てているのだから、おそらく借家ではないだろう。崖の高さはそれほどでもないが、大きな地震でも来たら崩れてしまうのではないかと、掛橋は人事ながら不安に思った。
インターフォンを押す前に興味本位で建物の外観を見て回っていた掛橋は、不思議なことに気が付いた。
二階の裏側の部屋から、壁に沿って先が枝分かれした配管が伸びている。配管の元を目で辿っていくと――
「海、か」
掛橋は、そうつぶやいた。
配管の続きは崖沿いに敷かれており、そのまま海底へと繋がっているようだ。この配管は、海水を汲み上げるためのものだろう。
文博は海洋生物の研究者だと、伯父が言っていた。ここでも研究をしているのだろうか。
突っ立ったまま考えていてもわかりそうにないので、掛橋は家の表に回り、ようやくインターフォンを押した。
掛橋が名乗ると、インターフォンから声がする前にドアが開き、初老の男性が顔を覗かせた。見ると、上には小さなカメラが付いていた。
「遠いところから申し訳ない。お暑かったでしょう」
いえまあ、大丈夫ですと掛橋が言うと、お上がりください、と言って、文博は家の中に入っていった。
掛橋は廊下を歩いてすぐの左手にある、キッチン兼リビングのような部屋に通された。
リビングは広かった。事務所の一・五、いや、二倍ぐらいはあるだろうか。
しかし、それよりも掛橋が気になったのは、壁二ヶ所に埋められ、ソファーの後ろにも設置されている大きな水槽だった。
高さ一メートルはありそうな水槽の中は水草が生い茂っているもの、小さな流木や岩が置かれているものと様々である。魚だけではなく、亀やエビが泳いでいる水槽もあった。ちらりと見ただけだが、廊下の先にも小さな水槽が埋められていた気がする。
「どうも、この度は遠い所まで足を運んでいただき、ありがとうございます」
文博はそう言うと、掛橋にソファーに座るように勧めた。
「掛橋創人です。よろしくお願いします」
文博は一旦部屋を出て、名刺を手に戻ってきた。
「これ、大学時代のものではありますが」
渡された文博の名刺には勤めている大学の名前と、『海洋生物学 教授 坂口文博』と記されていた。
文博はところどころに黒色が混ざった白髪で銀縁の眼鏡をかけており、白いポロシャツにチノパンを履いている。上品さはあるが神経質そうではなく、どことなくふんわりとした雰囲気をたずさえた男性だった。表情は終始にこやかで、まるで恵比寿様のようだ。
「掛橋さんは――前髪で表情がわからないから、考えていることがよくわからないと、よく、言われませんか」
相変わらずにこやかな表情のまま、文博はそう言った。
「よくというほどではありませんが……そうですね、時々は言われます」
そう答えながら、掛橋は、文博は自分の目を見て話したいのだろうかと思い、自分の目を覆っている長い前髪を両手で分けた。その仕草を見た文博は、お気になさらなくて大丈夫です、と言って、
「いや、私もね、こんな顔だから、考えていることがよくわからないと言われるんですよ。仲間だな、と思って」
そう言って、自分の顔を指差して笑った。どう反応して良いかわからず、掛橋は曖昧に笑った。
少しの間、沈黙が続いた。
自分から呼び出したにもかかわらず、文博は一向に話を切り出そうとしない。いよいよ気まずくなって、掛橋は口を開いた。
「文博さんの名刺には海洋生物学の専門と書いてありますが、ここで飼っているのは熱帯魚ですか?」
「熱帯魚もおりますが、淡水魚が多いです。海洋生物は二階に」
そう言いながら、文博は視線を二階に向けた。
掛橋は辺りを見回しながら、
「俺は、生き物をあまり飼ったことがなくて……。こんな風に色んな生き物に囲まれて暮らすのって、良いものなんでしょうか。
文博は首をかしげ、
「どうでしょう。私は小さい頃から、海や川の生き物に興味がありましたから。捕まえてきて、家で飼ったりもしてね。……ですから、いるのが自然というか、むしろいないと落ち着かないんですよ」
聞いてはみたものの、やはり掛橋にはよくわからなかった。掛橋はペットを飼ったこともなかったし、事務所にはさとという猫が一匹いるが、真由花に出会わなければ飼うこともなかっただろう。ペットを飼うことの喜びよりも、自分以外の生き物の命綱を握る責任に尻込みする気持ちのほうが、よほど大きく感じてしまう。
「ところで、依頼の内容なんですが……」
黙ったままにこにことしている文博を見て妙な居心地の悪さを感じ、掛橋は切り出した。
文博はうなずき、
「そうですね。……まず、見ていただきたい物があります」
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