かげろうの夢
ねぱぴこ
夏の盛り
夏の盛り 一
透き通った巨大な生き物が、水の中を浮遊している。
美しい曲線を描いているつるりとした傘、水の中をゆらめく触手の束。ドレスの裾が膨らんではしぼむように、傘のふちが優雅に動いている。
じっと見ていると、まるで自分まで飲み込まれてしまいそうだ。
それは少し不気味で、神秘的で――。
ぞくりとするほど、美しかった。
*
七月二十九日。
駅から一時間もかかるから車で迎えに行きますよ、と依頼主が親切に申し出てくれたにもかかわらず、つい気を遣って断ってしまった。つまりは自業自得である。わかっていても、想定以上の地獄の窯の底のような暑さに、掛橋は心底まいっていた。
人がすれ違えないぐらいの狭い歩道を、スマートフォンで道を確認しながら、何も考えずひたすら前に進み続ける。車通りははほとんどなく、乗用車やトラックが時おり横を通り過ぎるだけだ。
浴衣の通気性は良いものの、汗のせいで薄い布が身体中にまとわりついて、歩きづらい上に
前日になぜか伯父の
――ふと、掛橋は立ち止まり、目を覆い隠すほどの長さの前髪を持ち上げてハンカチで額の汗を拭いながら、車道とは反対方向の防波堤の先を見た。
そこには青々とした、広大な海が広がっていた。降り注ぐ太陽の日差しを反射して、海面がところどころ白く光っている。グラデーションがかった水色の空と、それよりも少し濃い青色の海がコントラストになっており、この暑さにはうってつけの爽やかな光景だった。
――ところが、掛橋は軽く眉をひそめ、その景色からすぐに目を逸らした。
掛橋は、ずっと前から海が苦手だった。どうしてなのかはわからない。幼い頃に溺れたとか、友人が海で事故に遭ったとか、そういったつらい思い出はなかった。ただ、海を見ていると、得体の知れないものに飲み込まれるような――気付かぬ内に自分がいなくなってしまうような、
軽度だが、いわゆる海洋恐怖症というのに近いのだろうか。海に入ったことはないが、友人の誘いで何度か行ったこともあるし、プールの授業も嫌々ながら受けていた。ただ、自分からは見たくないし、近付きたくもないという程度の嫌悪感だった。
ふたたび歩き出すと、少し遠くに食堂らしき建物が見えた。
古めの民家のような建物の入り口近くにのぼり旗が何本か立っており、その中の一つに『定食』と大きく書かれている。
掛橋は、スマートフォンで時間と現在位置を確認した。約束の時間まで、あと一時間。目的地には二十分ほどで到着するので、時間の
一刻も早く涼みたくて、足早になりながら、掛橋はその建物を目指した。
*
四日前の、夕方のことである。
掛橋は事務所の中央に置かれた革張りのソファーに座り、小説を読んでいるふりをしていた。実際は眠気がひどくて横になりたかったのだが、山園の目があったので
縦に持った本の隙間から、掛橋は山園の様子を盗み見た。
――山園
ひょんなことから彼女は掛橋の依頼主となり、依頼が解決したあとも、この探偵事務所でアルバイトとして働いている。
山園は事務所でただ一つのデスクの前に座り、切り揃った前髪の下のアイラインに囲まれた大きな目を見開きながら、パソコンの画面を見つめている。経費の精算作業を任せたのだが、何か気になることがあったのだろうか。といっても掛橋ともう一人の従業員が仕事で使った微々たる額しかないので、一般の企業よりも作業量は少ないはずだ。
一見すると清楚で大人しそうに見えるが、実際は奔放だったり、時には深刻そうな顔つきで物事を考えるこの女子大生との接し方を、掛橋はいまだに
――突然、山園は、何かに気付いたように顔を上げた。そして、
「掛橋さん」
掛橋が返事をするよりも前に、
「……暇ですね」
と言って、あくびをしながら大きく両腕を伸ばした。掛橋は山園も自分と同じ気持ちだったことがわかって、ほっとした。
特にやることがなくても、
「何、読んでるんですか?」
山園は立ち上がり、ソファーに来て掛橋の持っている本を覗き込んだ。
「『夢山恭一郎』シリーズという児童文学です。知ってますか?」
「あ、それ、子供の頃に何冊か読みました。ドラマもやってましたよね。夢山さんって探偵の出番は少なかったけど、謎解きが痛快で格好良かったです」
掛橋は小さくうなずき、
「俺も、小さい頃に読んでたんですよ。本屋で最新刊を見かけたので、懐かしくなって……つい買ってしまいました」
探偵事務所の本棚には半年に一回はスーツケースに入れて売りに行かなければならないぐらいみっちりと本が並び、入らない本は手前に平積みされている。それでも興味が湧くとつい本を買ってしまうのが、掛橋の良いところでもあり、悪癖でもあった。
山園は掛橋をじっと見つめてから、
「……ひょっとして掛橋さん、夢山さんを目指してるんですか?」
いたって真面目な顔つきで、そう尋ねてきた。
掛橋は慌てて、
「まさか、違いますよ。俺がこんな、頭脳
山園はきょとんとした顔になって、そうですか、と答えた。頭脳明晰ではない、という点については否定してくれないらしい。
「たしかその小説って、一つ前の巻から十年ぐらい経ってますよね? すごいですね、まだ書いてるんだ」
「そうなんですよ、作者の筆力もまったく
「……それで、どんな内容なんですか?」
「夢山を頼りにしている子供たちが、あることがきっかけで、不老不死である主の館に迷い込んでしまう、というストーリーです」
説明をしながら掛橋は、先日読んだ『鉄鼠の檻』という小説にも、
「不老不死、ですか……」
――山園のようなさっぱりとしたように見える人でも、やはり老いとは恐ろしく、不老不死には憧れるものなのだろうか。
考えている様子の山園を見ながら、掛橋はそんなことを思った。
もちろん、掛橋にとっても、老いていくことは恐ろしい。歳月を経るごとに、物事に対する
世の中には、年を取ること自体を肯定するような本もたくさんあるが――何も
だが、誰しもがそうなってしまうと、社会が破綻する未来が予想されるせいなのかはわからないが――
創作の中で不老不死になった人物は、たいてい、
「山園さんは、不老不死になってみたいと思いますか?」
子供の質問のようだなと思いながら、掛橋は尋ねた。
「私は……」
山園は言葉を区切り、真剣な顔つきで考え込むと、
「ううん、どうでしょう。この体質じゃなかったら
苦笑いしながら、そう言った。
未来が
これは山園と出会った時に聞いた話だが、山園には、他人の未来が白昼夢のように視えることがあるらしい。もっとも掛橋は白昼夢すら見たことがないので、そういった神秘的な体験はとても想像がつかなかった。
山園の視る未来は良い結果のことも、悪い結果のこともある。人と相対している時ではあるが、それ以外は何をきっかけに視えるのかはわからず、自分の未来は視たことがない。必ずその通りになるわけでもなく、当たった確率は八割ぐらいだ――と、山園は話していた。
やはりその体質のせいで、つらい思いをしているのかと――掛橋は尋ねたかったが、どのように聞けば山園の気を害さずに済むのか、わからなかった。
その気持ちを察したように、山園は、
「悪い映像を視ると、良い未来に変えられるんじゃないかって頑張りたくなっちゃうんですよ。……変えられたこともあったし、そうじゃないこともあったし」
山園は立ち上がり、事務所の隅に置かれたペット用のベッドで眠っているさとという名前の猫を撫でた。さとはにゃおん、と軽く鳴いて、ふたたび眠りに就いた。
「悪い未来になった時は……なんで私だけが、わかってるからってこんなにつらい思いをしなきゃいけないんだって、そう思っちゃって」
うつむいて話している山園の横顔は、心なしか寂しそうに見えた。
悪い未来を視て視ぬふりをするわけにもいかず、必要以上に他人に深入りせざるを得ないが、行動したところで、良い方向に転ぶとも限らない。――だから、この体質は嫌なのだと言って、山園は笑った。
掛橋には、他人の未来が視えることの苦しさはわからない。だが、掛橋も一人が好きなので、他人と関わらなければいけないことの
そんな二人が、いくら生活のためとはいえ、他人との関わりが多い探偵事務所の仕事をしているとは、なんとも奇妙な話である。
その時、事務所の電話が鳴った。立ち上がろうとした掛橋を手で制し、山園が取りに向かった。
「お電話ありがとうございます、掛橋探偵事務所です。……あ、私、山園
山園はそう言って耳から受話器を外すと、掛橋に差し出した。
「小華田さんからです。掛橋さんに用だって」
小華田から依頼について聞き終えた掛橋は、電話を受話器の上に置いた。
「掛橋さん、掛橋さん」
その姿を見て、山園ははっとして、掛橋に駆け寄った。
「……どうしました?」
「今、視えたんです。その……」
「未来が、ですか」
山園は、深刻な顔つきでうなずいた。
「掛橋さんが走りながら、誰かを探している映像でした。でも、背後の建物から――」
山園はそう言うと、ゆっくりと息を吸った。掛橋は次の言葉を待った。
「火の手が、上がってたんです」
「……火事、ってことですか?」
山園は、そこまではわからないですけど、と言って、首を振った。
「もしかしたら、依頼の関係じゃないでしょうか。だとしたら、危険なので行かないほうが――」
山園はそう言うと、
掛橋は、じっと考えていた。――が、顔を上げ、
「大丈夫ですよ。最初からわかっていれば、対処できることもあるはずです」
「でも……」
「安心してください。ちゃんと連絡しますから」
そう言って、山園の肩に手を置いた。
山園はまだ不安そうな表情だったが、ゆっくりとうなずいた。
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