夏の盛り 三
文博に連れられて、掛橋は家の二階へと向かった。
二階も部屋数は少ないが、ほぼリビングに占有されている一階と違って、いくつかの部屋があるようだった。文博は、その中でも入り口から一番遠い、奥の部屋に入っていった。
「暗いので、足元に気を付けてください」
そう声をかけられながら、掛橋もその部屋に足を踏み入れた。
十畳ほどの部屋には家具はほぼ置かれておらず、入居したての時のように殺風景だった。奥にぽつんと縦長の水槽が置かれているようだが、暗くて中がよく見えない。一階と同じように、ここでも魚を飼っているのだろうか。
――しかし、ずいぶん大きな水槽だ。掛橋は百六十五センチだが、背丈以上の高さがあるように見える。
文博は何も言わず、その水槽のほうへとゆっくり歩いて行き、近くの窓のカーテンを開けた。
窓から一気に日の光が入ってきたので、掛橋はまぶしくて目を細めた。室内には、微生物のように
水槽に目をやると、掛橋はひどい立ちくらみのようなものに襲われた。
なんだ、あれは。あれは――。
それはひどくゆっくりとした動きで、水中を漂っていた。
一メートル以上はありそうな大きさの、巨大なクラゲだ。傘は人の頭の二回り以上の大きさで、そこから伸びた糸のような細い大量の触手が束になってうごめいている。
だが、掛橋が驚いた理由は、クラゲの大きさではなかった。少し前に似たような大きさのクラゲが海に大量発生していたことは、ニュースを見て知っていた。それよりも――。
巨大なクラゲの半透明な傘の中には、女性の頭が入っていた。
黒髪が水中で不規則に揺らめき、顔色は青白く、白濁した
――あれは、この世のものではない。掛橋の頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。自分が今いる場所が現実であることが理解できず、目に映る景色がぐにゃりとゆがんだ。
「あ、あの、これは……」
長い長い時間が経ったように感じられたあと、ようやく、掛橋は口を開いた。いまだに動悸が治まらず、手のひらにはじっとりと嫌な汗が
「……ベニクラゲというクラゲは、危機的状況に
文博は突然、スイッチが入ったかのように
「この品種は交雑させて作ったものなので、ベニクラゲではなく、国際海洋生物種目録にも登録されていません。……ですが、不老不死という言葉には、夢がありますよね」
夢があると言うわりには、文博の口調は、相変わらず淡々としていた。
文博の表情はリビングにいた時と違って、目は硬く見開かれ、口は真一文字に結ばれていた。自分が責められていると勘違いしてしまうような、
「それよりも、あの人は――あの人は、誰なんですか」
「妻です」
ジリリリリリリリ、ジリリリリリリリ、ジリリリリリリリ――。
窓の外から、
「……私は、趣味でダイビングをやっていました。仕事の都合で、海に行くことが多かったので」
文博はそう言うと、水槽の表面のガラスを指でなぞった。
「二年前、妻の
二年前――文博がここに越してくる、一年ほど前のことだ。
「朝子にとっては、人生初めてのダイビングでした。私はライセンスも持っていましたし、この歳でもまったく問題はありませんでしたが……」
文博は言葉を区切ると、掛橋を見た。
「ダイビングって、慣れていないと怖いんですよ」
それは、海が怖い掛橋にとっては容易に想像がつく。進んで海底に潜っていくことなど、もっての
「あいにく朝子は、海に潜ってから先を泳ぐ私を見失ってパニックになり……そのまま溺れて、亡くなりました」
そう言って、文博は軽く溜め息をついた。
「……幸い、溺れた場所が浅瀬だったので、遺体はすぐに見付かったんです。損傷も少なかった」
尋ねてもいないのに、文博はそう付け足した。
「それから、文博さんは――」
「私は大学を辞め、東京の自宅を離れて、新しく建てたこちらの別荘にこもるようになりました。妻をどうにかして生き返らせられないかという気持ちもありましたが、妻と暮らしていた家にそのまま住むのは、どうも――辛くて」
「……それは、そうかもしれませんね」
曖昧な相づちを打ちつつも、掛橋は心のどこかで安心していた。自分の妻の死を淡々と語っていた文博の、人間らしい一面が
「ベニクラゲの一件を知っていた私は、ここでひたすらに研究を続け、クラゲの交雑を繰り返しました。……そしてついに、朝子の
「ですが、彼女は――」
生きているんですか、と尋ねようとした掛橋は、刺すような視線を感じて押し黙った。
生きている――わけがない。
掛橋の頭に、そんな言葉がよぎった。
仮に外側のクラゲが奇跡的に生きていたとしても、朝子は頭しか残っておらず、人間の生命を維持するのに必要な器官がほとんどなくなってしまっている。
いや、いくらクラゲに脳や臓器や血管がないとはいっても、異物を体内に抱えたままで生きていられるとは思えない。
やはり、クラゲも死んでいるのだ。目の前のクラゲが自立的に動いているように見えるのは、水流に流されているだけだ。
すると、文博は――自分の妻と、クラゲの
しかし、人間の遺体は空気にさらすと腐敗するし、クラゲは死ぬと水に溶けて消えると聞いた。
だとしたらこれらは、なぜ今も原型を保てているのだろう――。
「そこで、探偵さん。お願いなんですが」
文博の声で、掛橋は我に返った。
「は、はい」
「私は明日一日、前々から決まっていた用があって、この家をどうしても空けなければならないんです。予定通りなら、夕方頃には戻って来られるんですが……」
文博は腕を組んで考えたあと、掛橋を見た。
「その間、この家の留守を預かっていただきたいのです」
「留守番、ですか……」
掛橋は見てはいけないものでも見るように、水槽の中をちらりと見てから目を逸らした。
ただの留守番ならまだしも、彼女がいる家に一晩以上滞在するのは、正直言って気味が悪い。どう返事したものかと考えあぐねていると、
「大したことじゃない、ここにいてくれれば良いんですよ。私がお願いしたいのは餌やりと、誰かが家に訪ねてきた場合に、私に連絡していただきたいだけですから」
いつの間にか、文博の顔つきはリビングで受けた柔和そうな印象に戻っていた。
「ここに越してから一度も家を空けたことがなくて、心配なんですよ。妻のこともあって、ほかに留守を頼めそうな知り合いもいませんし……」
文博は困ったように眉をひそめると、
「遠い所から来ていただいて、さらに失礼なお願いだとは思いますが、それ相応の報酬はお支払いします。申し訳ありませんが、どうか、お願いします」
そう言いながら掛橋の右手を両手で握り、深々と頭を下げた。
「あっ、頭を上げてください」
掛橋は慌てて言ったが、文博はびくとも動かなかった。依頼を引き受けると言うまで、この姿勢のままでいるつもりなのかもしれない。
「……わかりました。お引き受けします」
掛橋が言うと、文博は顔を上げ、
「ありがとうございます。とても助かります」
満面の笑みを浮かべて、そう言った。
もちろん掛橋は、文博を信用したわけではない。自分の身を守るために出来るだけのことはしようと、腹を括った上での承諾だった。
部屋を出て行く前に、掛橋は水槽の中を横目で見た。
一体なぜ、文博はこのようなものを作ったのだろう。いくら妻が生き返ったといっても、これではまるで、まるで――
化け物ではないか。
掛橋は文博の背中を見つめ、食堂の店員が「おっかね」と言っていたことを思い出していた――。
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