無痛 四
穂香に案内されて十畳ほどの部屋に入った瞬間、山園は強烈な既視感に襲われた。
――間違いない。この部屋だ。
穂香の使っている部屋は、山園が試合で視た未来の映像とまったく同じ内装だった。
薫に小突かれ、山園は我に返った。緊張するなあなどと言いながら、慌てて浮かれているふりをする。
「普段使ってるグローブはこれで……これが予備で、これがヘッドギアとユニフォームです」
穂香はスポーツバッグからボクシングに使っている道具の一式を取り出し、床に並べて見せた。
「あの、触ってもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
山園はグローブを手に取って眺めるふりをしながら、部屋の隅にあるクローゼットをちらりと見た。
映像は、あのクローゼットの前から映されていたような気がする――。
クローゼットに何かを隠しているはずだと言っていた我孫子の話とも、きちんと合致する。
「……この人って、穂香のお父さん?」
本棚の上に置かれている写真立てを見つめながら薫がそう言ったので、山園も同じほうを向いた。
写真には、リングの前で白髪の眼鏡をかけた男性と中年の女性の間に挟まれ、グローブをはめた拳で誇らしげにファイティングポーズを取る少女が写っていた。
「ああ、うん。……父と、母」
よく見ると、白髪の男性の手にはミットが
「お父さんも、ボクシングをやってらっしゃったんですか?」
さりげない風を装って、山園が尋ねた。
「父は昔、私のトレーナーをやっていたんです。……一年前に
「試合の時、よく二人で話してたもんね。仲良くていいなあって思ってた」
薫がそう言うと、穂香は
「……良くないよ。あの人は、ずっとボクシングのことだけだったもの。弱い私になんて価値がないと思ってた」
「……そうなの?」
穂香はうなずき、
「せっかくお父さんに強いところを見せられると思ったのに、あっけなく死んじゃったし。……こんなに苦労したのに、ばっかみたい」
吐き捨てるように、そう言った。
父のことを話している穂香の様子は――それまでの臆病な彼女の姿とは違って、どこか自暴自棄になっているようだった。
「あ、すみません、変な話しちゃって。そろそろ……」
穂香は我に返り、二人に帰るように
「ね、穂香、このあとって何か予定あるの?」
「……練習は休みだから、何もないけど。なんで?」
「せっかくだから、みんなでご飯食べようよ」
「じゃあ私、出前取るから……」
そう言ってスマートフォンを手に取ろうとした穂香を薫は制し、
「あっ、いいからいいから。私作るよ。台所借りていいんだったら」
「……えっ、そう?」
「うん、料理は得意だから。近くのスーパー教えてよ。材料買いに行こ」
「わかった。……じゃあ、ちょっと私、その前にトイレ行ってくるね」
穂香が立ち上がって廊下に消えた隙に、山園はクローゼットを開けた。かかっている洋服の間に何もないことを確認してから、視線を上に移す。
――クローゼットの枕棚に、ちょうど手のひらに載るぐらいの大きさの黒い箱が置かれていた。
山園は足をぴんと伸ばして背伸びをすると、それを手に取った。
箱には、白いリボンがかかっていた。山園がリボンを解き、箱を開けようとした瞬間――トイレから戻ってきた穂香が、部屋の扉を開けた。
箱を持っている山園の姿を見た穂香は――急に体をこわばらせ、硬い表情になった。
それから、やめてえええっ、と絶叫して、山園のほうに駆け寄った。
山園は、箱のふたをゆっくりと開いた。
箱の中から白い煙のようなものが現れ、穂香の体へすうっと吸い込まれていく。
途端に穂香は、膝から崩れ落ちた。それからふたたび大きな叫び声を上げ、悶絶し始めた。
山園は、慌てて箱のふたを閉めた。だが、穂香はまだ自分の体を両手でかばうようにしながら、床をのたうちまわっていた。
言葉にならないような
穂香はまるで誰かに暴力を振るわれているかのように痛がり、暴れ回っていたので、その姿はある意味グロテスクにも感じられたが――その体には、傷一つ見えなかった。
「これって……」
薫が唖然としながら、山園の近くにやって来た。
「……これは、あくまで予想だけど。たぶん、この箱が今まで肩代わりしてた痛みが、穂香さんのもとに戻ったんじゃないかな」
山園はそう言って、しばらく穂香を見つめていた。
穂香は息を切らしながら体を起こし、二人を睨みつけた。
「……あんたたち、何のつもりよ」
薫は、穂香の目の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、穂香。こんなこと、もうやめない?」
「……は?」
「真由花たちが、色々調べてくれたの。穂香が痛みを感じない体でボクシングをやってることも、変な人と取り引きしたことも……あたしはもう、全部知ってる」
それを聞いた穂香は、ものすごい形相で山園を睨んだ。それから、薫を見て、
「……あんたに、あたしの気持ちがわかるわけない」
吐き捨てるようにそう言うと、薫は穂香をじっと見つめた。
――そして、穂香の頬を思いっきり殴った。
「そんなん、わかるわけねえだろ」
穂香は、きょとんとした顔で薫を見つめた。
――殴っても、意味はないのだ。穂香は痛みを感じないのだから。
「こっちは必死で練習して、自分の力だけでリングに上がってるんだから。まがいもんに頼るような人の気持ちなんて、わかるわけない」
「……」
薫は、穂香の肩を両手で
「ねえ、穂香。お父さんは、もう死んだんだよ。穂香は、一体何と戦ってるの?」
「!……」
穂香は、大きく目を見開いた。
「こんなことしたって、どうせいつかさっきみたいにがたが来るだけだよ。ボクシングがやりたいなら、トラウマでもなんでも、克服する努力をすればいいだけじゃない。そうじゃなくて、もしボクシングがお父さんのせいで辞められなかったんなら……本当に好きなことを探して、今から始めたっていいんだよ」
「……他の、こと?」
薫はうなずき、
「ボクシングに縛られる必要なんてないよ。あたしは自分の意思でやってるけど、穂香はそうじゃなかったでしょ?」
「……」
うつむいて何も言わない穂香をじっと見てから、薫は立ち上がった。
「……あたし、帰るね」
アパートから出て行く薫を、山園は慌てて追いかけた。
「薫! 薫、待って!」
早足で歩いて行く薫を山園が走りながら呼ぶと、薫は足を止めた。
「……なんか、勢い余って出てきちゃった。大丈夫だったかな」
息を切らしながら穂香の家のほうに振り返って、薫はつぶやいた。
「……薫の言ったことには、私も賛成する」
山園は慰めるように、薫の肩に手を置いた。
「でも、責めるようなことばっか言っちゃった。……今から戻ってでも、話を聞いたほうがいいかな」
「今の穂香さんには……一人で考える時間も、必要な気がする」
山園がそう言うと、薫は納得したようにうなずいた。
二人は並んで、駅に向かって歩き始めた。
「そういえば薫は、なんでボクシングをやってるの?」
ふと思い付いて、山園は尋ねた。
「えっ? あたしは……」
「なに、秘密?」
薫が気まずそうに目を逸らしたので、山園は薫を肘で軽く小突いた。
「……年末にテレビ見てて、かっこいいなって思っただけ。ダイエットにもなるし」
「あら、単純」
わざとらしく手を口に当て、目を丸くしている山園を見て、
「そうやって茶化されると思ったから、言いたくなかったの」
薫は駄々をこねるように、不服そうに言うと顔をしかめた。
「ごめん。……でも薫は、本当にすごいと思うよ」
「……何が?」
「自分の好きなことをちゃんと見付けて、続けられて。私だって、まだ見付かってないし……それって、なかなかできないことだと思う」
「……おっ。じゃあ、あとで焼肉でも
薫がおどけてそう言うと、
「もう。そうやってすぐ調子に乗るんだから」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
薫は立ち止まって、赤く染まっていく空を見上げた。
「……穂香も、いつか見付かるかな。本当に好きなこと」
「うん。そうだと良いよね」
夕日を背景に、何羽かの鳥が羽ばたいていった。
穂香はソファーに仰向けになり、天井を見つめていた。
頭の中ではずっと、薫の言葉がぐるぐると回っていた。ボクシング、お父さん、自分の好きなこと――。
そもそも父の話を他人にしたことがなかったので、薫の言ったことはわかるような、いまいちしっくりこないような、
穂香は起き上がり、クローゼットの枕棚から黒い箱を取り出して見つめた。
もし私がこの先もこのまま、試合を続けたら――
この箱にはどんどん痛みが蓄積して、私はますます、これから目を離すことができなくなるだろう。
好きかどうかすらわからないことに
――私は、誰と戦っているのだろう。
穂香は黒い箱の下に置いてあった、出門の名刺を手に取った。
「我孫子さん」
街を歩いていた我孫子は聞き覚えのある声に呼び止められ、振り返った。
「あれ、出門さん。なんでここに……」
出門はお辞儀をすると、我孫子の質問には答えず、
「宮下穂香に、何をしたんですか?」
「何って……」
我孫子は、山園から聞いた先日の出来事を思い出した。
黒い箱の中から煙のようなものが出てきて穂香の体内に吸収され、痛みが戻ってきたこと――。そのあとの、薫と穂香のやり取り。
「穂香さんが、どうかしたんですか?」
出門は戸惑うように、視線を虚空にさまよわせた。普段から隙がない出門のそんな姿を見るのは、我孫子にとって珍しいことだった。
「……あのあと宮下様から、わたくしのほうに連絡がありまして。契約を取り消したいので、方法があるなら教えてくれと――」
それを聞いて思わず、我孫子の頬が緩んだ。
「……それで、教えたんですか?」
「まあ、元に戻す方法がないわけではございませんから。箱はわたくしのほうで引き取って、宮下様には痛覚をお戻ししました。ただ……」
「ただ?」
「どうして突然、宮下様がそのような判断をされたのか……。わたくしなりに最善を尽くしたつもりだったのですが――理由を聞いても、話してはいただけませんでした」
出門は少し、落ち込んでいるようだった。
「……出門さん。人間は、必ずしも願いが叶えばそれで終わりってもんじゃないんですよ。人生は、その先も続くんですから。人には、心変わりってものがあるんです」
「心変わり……ですか」
出門は意外そうに、目を大きく見開いた。
我孫子はうなずき、
「その時はいくら強く願っていたとしても、あとから後悔することなんて、いくらでもあるんっすよ。……松坂だって覚えてさえいれば、自分の取った選択肢を、あとから悔やんだかもしれない」
「松坂様……」
出門はうつむき、
「適当と言えばそうかもしれませんけど、それが人間の持ってる柔軟性ってやつで――人間の良いところでもあると、俺は思ってます」
「なるほど。ふむ、そうですか……」
出門はいまいち要領を得ない様子で眉をひそめていたが、やがていつも通りのしっかりとした顔つきに戻り、
「わかりました。お話を聞かせていただき、ありがとうございました」
そう言うと、頭を下げて立ち去ろうとした。
「出門さんはまだ、人助けを続けるんですか?」
出門の背中に向けて、我孫子は叫んだ。
「……それが、わたくしの仕事ですから」
そう言うと、出門はふたたび頭を下げ、立ち去って行った。
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