脊椎がオパールになる前に 六

 光希が就職活動をし始めてから二ヶ月目に、とうとう仕事が決まった。

 なんでも小さな建築会社の事務ということで、光希は初日から張り切って、スーツを着て出社した。

「私服で良かったのにって言われちゃった。……恥ずかし」

 帰ってきてから、光希は照れくさそうにそう言った。

 それから、光希は熱心に働いた。

 夜遅くまで職場に残り、建築関係の資格を取りたいと言って本を買い、家でも勉強している姿を見る機会が増えた。私は大学の講義に出てからアルバイトをし、帰ったら課題のレポートをまとめていた。それでも光希とは時おり一緒に食卓を囲んで、お互いの職場や大学の話をした。

 光希は友達の家に泊まると言って、家に帰って来ない日もたまにあった。そんな時に私は、ソファーに横になりながら、自分の将来について考えた――。

 けれど、もしも光希が自分の傍からいなくなったらどうなってしまうのかは考えたくなくて、結局問題を先延ばしにし、テレビやインターネットを見て気を紛らわせた。

 

 ――終わりは、あっけなく訪れた。

 光希が職場で働き始めてからおよそ半年が経ち、私がアルバイトから帰って来ると、光希がかしこまった様子でダイニングテーブルの向こう側に座っていた。

 私は少し、嫌な予感がした。

「……ねえ、朱里。ちょっと話があるんだけど、いい?」

 いいよ、と私は言うと、光希の向かい側に座った。

 光希は目を閉じて胸に手のひらを当て、ゆっくりと深呼吸をしてから、私のほうをまっすぐに見た。

「――今の会社に入ってから、付き合ってる人がいるの。まだ三ヶ月ぐらいなんだけど」

「……それで?」

 自分の心臓が早鐘を打っているのを悟られないように、私はそっぽを向いたまま尋ねた。

「それで……私のお金があんまりないって知ったら、その人が同棲しようかって言ってくれて」

「……」

「つまり、その……ね。プロポーズされたの。でも、いきなり結婚するのはお互いに不安だろうから、まずは同棲からって……」

 光希は顔を赤らめ、照れくさそうに言った。

 ――私は突然、奈落に突き落とされたような気持ちだった。 

 目の前が真っ暗になって、向かいに座っている光希の顔がはっきりと見えなかった。喉の奥からなんとか声を絞り出して、おめでとう、と言うと、光希はありがとう、とはにかみながら言った。

 ――いつか、こんな日が来ると、わかってはいたのに。

 光希は男の人と交際していたこともあったし、気を遣いながらそういう話をしてきた時も、私は笑って受け流していたはずだ。それなのに――。

 頭の中で、光希との思い出がぐるぐると回っていた。博物館で初めて話した時のこと、団地に行ったこと、公園で話したこと――。

 光希が笑った顔、悲しんだ顔、子供のように反省している顔、無邪気にはしゃいでいる顔、真剣な顔――。

 わかっていても、どうしても――この家で光希と一緒にいられないという現実が、私には受け入れられなかった。


 私は家で自分の荷作りをしながら、光希が立ち去るのを見送ることにした。

 一人でここの家賃を払い続けるのは厳しいので、私も引っ越そうと思う――そう言うと光希は悲しそうな顔をして、ごめんね、私の都合なのに、と言った。

 私がこの家を出たかったのは、金銭面が原因というより、光希との思い出が多すぎたからだった。けれど私は気にしないで、と笑いながら首を振った。

 ――自分の部屋で荷作りをしていると、ふと、写真立てに入った祖母の遺影が目に入った。

 写真の中の祖母は、柔らかくて優しい笑みを向けている。私にちょうちょの話をしてくれた、大好きなおばあちゃん。おばあちゃんも、今は死んでしまって、この世にはいない。

 光希が家を出て行く当日、私は玄関口で光希に言った。

「ねえ、光希」

「ん、なあに?」

「……もし私が死んだら、私の遺骨を食べてくれない?」

 私がそう言うと、光希は目を丸くした。

「なんで、急にそんなこと言うの。朱里、どっか悪いの?」

 心配そうに尋ねる光希に、私は笑いながら首を振り、

「ううん。……なんとなく、急にそう思っただけ」

「縁起でもないこと言わないでよ。同棲してからも、絶対に連絡するって言ったでしょ」

「……うん。わかってる」

 わかっては――いるのだけれど。

 光希は不安そうな顔で私のことを見つめていたが、階段の下で引っ越し業者のトラックがエンジンをかける音が聞こえ、気にするようにその方向に顔を向けた。

「……じゃあ、またね。絶対連絡するから」

 光希はそう言うと、私に手を振った。

「うん。……いつか、またね」


 ――光希の乗ったトラックを見送ってから、私は家に帰った。

 私は洗面台に向かって剃刀を手に取り、リビングの真ん中で仰向けになった。

 そういえば、結局二人で花火は見られなかったな、と私は思った。

 季節はすっかり、春になっている。それでも一度だけ、光希と高校生の頃に聞いた花火の音が耳の中によみがえってきて、何度もこだました。

 どおん。

 ばちばち、ばちばち、ばちばち。

 ばちばち、ばちばち、ばちばち。

 花火の下には大勢の観客がいて、光に照らされて驚嘆の声を上げている。

 ――私は、剃刀をゆっくりと首筋に当てた。

 どおん。

 ばちばち、ばちばち、ばちばち。

 カップル、友人同士、家族連れ。大勢の人々が生き生きとした顔で花火を見ながら、綺麗だね、などと言い合っていて――

 浴衣を着た光希と私が、その中で手を繋いで座っている。

 すごいね、来年もまた来ようよ、と興奮した様子で光希が私に言う。

 私は微笑んで、光希の手を強く握る。

 ――人間は皆、いつか死ぬのだ。

 それなら私は――今、ここで、自分の人生を終わりにしたい。

 私は、剃刀を内側に引いた。


                   *


 灰の上に、光希の涙がぽとりと落ちた。

 私の骨は、すべて骨壺に収められた。私の意識も次第に遠のいていく。

 私は、光希の顔をずっと見ていた。そんな顔をさせてごめんねと、何度も何度も思いながら。

 ――さようなら、光希。

 いつか、私の脊髄がオパールになる前に、また会いましょう。


                   *


 ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱち。

 爆竹のような音が聞こえ、ソファで本を読んでいた掛橋は顔を上げた。

「あれ、今日って花火やってるんですか?」

 デスクでキーボードを叩いていた山園は手を止め、掛橋に尋ねた。

「……たしかに、音がしますね」

 山園は窓のほうに近付き、花火を見ようとした。しかし、並び立つ周囲のビルに邪魔され、いくら体勢を変えても結局花火は見えないようだった。

「全然見えませんね。今から見に行きます?」

 茶目っ気を含んだ眼差しを向けて、山園が尋ねてきた。

「混んでるでしょうし、遠慮しておきます」

 それもそうか、と山園は少し残念そうに言った。

「……そういえば、そろそろ夏も終わりですね」

 壁に掛かったカレンダーを見ながら、掛橋はぽつりとつぶやいた。

 事務所のドアが勢いよく開き、浴衣姿の我孫子が入ってきた。我孫子は左手に巾着袋、右手にたこ焼きの乗った舟皿を持っていた。

「我孫子さん。大きな音を出さないでくださいよ。びっくりしたじゃないですか」

 掛橋は冷や汗をかきながら、我孫子に抗議した。

「どうせみんな花火大会には行ってないんだろうなと思ったら、案の定じゃないですか。ほら、たこ焼き食べましょうよ」

「……でも、花火はまだやってるみたいですよ?」

 振り返って、山園がそう言った。

「いいのいいの。こういうのは、雰囲気が大事」

 我孫子はそう言うと、たこ焼きをローテーブルの上に置いてソファーに座った。

 ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱち。

 外からは、まだ花火の音が聞こえている。

 掛橋は、ゆっくりと目を閉じた。

 この夏に出会った人々の顔が、次々と脳裏に浮かび上がっては消えていった。

「掛橋さん、食べないと冷めちゃいますよ」

 目を開けると、山園と我孫子がローテーブルを囲んでたこ焼きをつついていた。たこ焼きを口の中ではふはふとさせながら食べている山園を見て、掛橋はふっと笑った。

 掛橋はソファーに腰かけ、花火の音をしっかりと耳に残そうとした。

 ――この夏の思い出が、自分の中に、ずっと残るようにと。

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かげろうの夢 ねぱぴこ @nerupapico

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