脊椎がオパールになる前に 五

 それから光希は、昼の仕事を探し始めた。

 事務職に就きたかったようだが、経験者の募集が多く、光希はなかなか採用されなかった。それでも光希は泣きごと一つ言わず、ほぼ毎週のように面接に行っていた。

「頑張りすぎると、体壊しちゃうかもしれないから。無理しないでね」

「うん、わかってる。ありがとう」

 私は複雑な気持ちで、求人雑誌を熱心に見ている光希を見つめた。

 本当は家賃を多く支払ってあげたかったのだが、私も大学生のかたわらアルバイトで稼いでいる身なので、そこまでの余裕はなかった。光希のことを支えてあげられなくて心苦しかったが、キャバクラで働いていた時の貯金があるからしばらくは大丈夫、と光希は言っていた。

「……あ、そうだ、そんなことよりさ」

「うん?」

 光希は求人雑誌を自分の傍に置いて、座ったまま私のほうに近寄ってきた。

「来週、阿波踊り大会があるんだって。花火とは違うんだけど」

 そう言うと、スマートフォンの画面を見せてくれた。

 それは、阿波踊り大会の公式サイトのトップページで、編み笠を被って浴衣を着た綺麗な女性が映っていた。

「これ、聞いたことあるよ。有名だよね」

「え、そうなの? じゃあ行ったことある?」

 私は首を振った。阿波踊り大会の存在自体は知っていたが、私の実家は大会の開催場所から離れていたからだ。

「じゃあさ、今年の夏はこれに行ってみない?」

「……そうね、いいかもね」

 顎に手を添えたまま、私はそう言った。

「ね。花火は来年にしようよ。楽しみも増えるし、いいよね」

 満面の笑みを私に向けて、光希はそう言った。


 阿波踊り大会は二日にわたって行われるらしく、二日目が混むと予想した私たちは、一日目に向かうことにした。

 やはり人は多かったが、阿波踊りが行われる場所が散り散りだったので、なんとか道を歩けるぐらいの余裕はあった。外で食べ物を売っている店もあって、光希は焼きイカを買って、おいしそうに頬張っていた。

 光希たっての希望で、私と光希は浴衣を着ていた。私も光希も浴衣は持っていなかったので手痛い出費になったが、こういうことは後悔しないからいいの、と光希は割り切っている様子だった。

 歩行者天国になった道路の上で、しなやかに踊る演者たち。お腹にまで響いてくるリズミカルな太鼓の音、鉦鼓かねの音――。

 会場周辺はとてつもない熱気に包まれ、普段のこの場所とはまったく違う、非現実的な様相を見せていた。

 ――やがて、普段着の人がその踊りに加わり、見物客が次から次へと阿波踊りに参加し始めた。あとで調べて知ったのだが、それは『にわか連』と呼ばれる、誰でも参加できる飛び入り専用の連の踊りらしかった。

 呆気にとられている私を見てから、光希はにやりとして、

「あたしも行ってくる!」

 そう言うと、突然飛び出していき――自分で考えたとおぼしきめちゃくちゃな踊りを、道路の上で披露した。

 その姿を見ながら、私はずっと笑っていた。

「――相田さん?」

 突然、肩を叩かれ、私は驚いて振り向いた。

「ああ、やっぱり相田さんだ。覚えてる?……俺、高校の頃に同じクラスだった島津しまづだけど」

 うろたえながら、私はうなずいた。

 ――なんでこの人が、こんなところに。

「浴衣、着てるんだね。よく似合ってるよ。彼氏と一緒?」

 私は首を横に振った。

「みつ……光希と」

 私はそう言うと、道路のほうを見て光希の姿を探した。が、人混みに紛れて、その姿は見当たらなかった。

「……ああ、志賀さん? そっか。相田さん、仲良かったもんね」

「……」

 私がその場を立ち去ろうとすると、島津は私の左腕をつかんだ。

「ねえ、もしよかったらちょっと話さない? 俺、大学の友達と一緒に来てるんだ。よければ一緒に……」

「……いい。いい」

 私は懸命に首を横に振り、島津の手を振りほどこうとした。島津の手に、さらに力が込もった。

「いいじゃん、ちょっとぐらい。なんなら志賀さんも一緒でいいから」

「……離して」

 その言葉にかっとなって、私は島津の手を思いっきり払いのけた。

「……なんだよ。調子乗んなよ、ブス」

 光のない真っ暗な目をして、薄ら笑いを浮かべながら島津はそう言った。

 ぽっかりと開いた、空洞のような二つの目――。

 その目を見て、私は島津に恐れを抱き、思わず後ずさった。

「朱里!」

 光希の声がして、私は振り向いた。

「ごめん、ちょっと迷子になっちゃって――って、この人……誰だっけ?」

 まじまじと島津の顔を見つめる光希を見て、島津は舌打ちをした。

「出たよ、変人。……もういいや」

 そう言うと、立ち去っていった。 

「何かされてない? 大丈夫だった?」

 島津の姿が見えなくなると、光希は私の両肩を掴み、焦った様子で聞いてきた。

「光希、今の、高校の同級生の――」

「島津くんでしょ。朱里にずっとちょっかい出してた……それより大丈夫? 何もされてない?」

「……大丈夫。ちょっと、トイレ行きたい」

 ――光希と一緒に私は公衆便所を探し、近くの公園に向かうと、個室で思いっきり嘔吐おうとした。

 個室から出てから、私は何度も入念に手を洗ったが――島津に掴まれた腕の部分には、何をしてもその痕跡が残っているような気がして、考えれば考えるほど気分が悪くなった。

 

「ごめん、お待たせ」

 公園の遊具に座っている光希に、私はそう言いながら近付いた。

「なんか、こうしてると高校の頃のことを思い出すね」

 遠くを見つめながら、光希はつぶやいた。

「二年前なのに、すごく前のことみたい。色んなことがあったからかなあ」

「……そうだね。私も、そう思う」

 少しの間、沈黙が続いた。

 遠くから、お囃子はやしの音が聞こえてくる。

「光希。ここ、触ってくれない?」

 私はさっき島津に掴まれたほうの腕を光希に差し出し、掴まれた場所を指で差した。

「えっ、なんで?」

「いいから」

 光希は恐る恐る、私の腕を手のひらでさするようにした。ありがとう、と私は言って、その部分を手のひらで包み込んだ。 

「……このままずっと、一緒に住もうか」

 私が小さな声でそう言うと、え、と言って光希は私のほうを見た。

「――冗談だよ。お互いに、生活もあるしね」

 私はわざとしっかりした声を出してそう言うと、立ち上がった。

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