脊椎がオパールになる前に 四

 それから一年半以上が経ち、夢にまで見た光希との共同生活は、不穏な幕開けとなった。

 私と光希は入念に相談して、駅からは少し歩くがそこそこに広い、都心へも乗り換え回数が少ない場所のアパートを借りることにした。

 ダイニングキッチンも入れると、部屋は合計で三部屋。見学に行った時、光希はひろおい! と喜んで飛び回っていたので、不動産業者は苦笑いしていた。

 無事に部屋も借りられることになったが、問題は、そのあとに起きた。

 光希が――新宿のキャバクラで働くと言い出したのである。

 私は猛反対したけれど、光希は聞く耳を持たなかった。手っ取り早くお金を稼ぐなら、母親と同じ水商売が一番良いのだ、と言い張った。

 公園で話を聞いていた時も、どうやら光希は私と一緒に住みたかったわけではなく――水商売のお客さんと一緒に住むことについてどう思うかと、私に相談しようとしていたらしかった。

「だって朱里は、私の男関係の話とか聞きたがらないでしょ。だから、言おうかずっと迷ってたんだ」

 キャバクラで働き始めてから、いつの間にか光希の一人称は『私』に変わっていた。

 近頃は朝まで帰って来ないことも多く、私は大学に行かなければいけないので、光希と顔を合わせる機会も減っていた。

「……ねえ、違ってたらごめんね。朱里は男の人が嫌いなの?」

 出勤の支度をする手を止め、光希は私のほうを見て聞いた。

「嫌い、っていうか……」

 私は光希を見ることができず、それ以上、何も言えなかった。

 光希の言った通り、私は男が嫌いだ。だからといって、それを話したところで、一体何になるというんだろう――。

「……まあ、言いたくないなら別にいいよ」

 光希はそう言うと、バッグを持って部屋から出て行った。

 一人取り残された私は、コンビニのアルバイトの出勤までまだ時間があったので、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。

 ――どうしてこうなってしまったんだろう。二人で楽しく生活するはずだったのに。

 私は、花火を見に行った日に、光希と公園で二人で撮った写真を見つめた。

 二人とも、良い顔で笑っている。たった二年前のことなのに、もう遠い昔のように感じられた。

 去年は受験で忙しくて、花火に行く余裕もなかったけれど――

 夏になったら、また、光希と二人でどこかに行けるだろうか。

 私はふと、卓上カレンダーを見た。七月まで、あと二ヶ月以上もある。

 光希と過ごしたあの夏が、ふたたび来るのが待ち遠しかった。


 その日、私がアルバイトから帰って来ると、珍しく家の鍵が開いていた。

 ようやく光希とゆっくり話せると思い、玄関からリビングへの扉を開けようとして――私は手を止めた。

 リビングの中から、光希と知らない男の声がする。じゃれ合っているような、すごく不快な声の調子だ。

「もう、やめてよ。帰ってきちゃうったら」

「んなこと言うなよ。家に上げたってことはそういうことだろ?」

 二人は、くすくすと笑い合っている。

 玄関を見ると、たしかに見慣れない男物の革靴があった。

 やだあ、と光希が私の知らない声を出したのをきっかけに、私はかっとなって、勢いよく扉を開けた。

 知らないスーツ姿の男性が、リビングのソファの上に横になっていて――男性の肩に両腕を回した光希は、お嬢様抱っこをされていた。

 光希の顔は赤く、だいぶ酔っ払っているようだった。

「あ、朱里。……おかえり」

 ろれつの怪しい口調で、ぼんやりとした目で私を見ながら、光希はそう言った。

「……最低」

 私はぽつりとそう言って、家を飛び出した。

 背中から光希が何か言っているのが聞こえたが、何も聞きたくなかった。

 何もかも忘れようと、私は息が切れるまで、とにかく走った。

 力尽きて近くの石段に腰を下ろすと、スマートフォンがうるさく振動していた。画面を見ると、光希からたくさんの着信が来ていた。私は、スマートフォンの電源を切ってうずくまった。

 ――友達なのだから。

 ――当たり前だ。

 ――私と光希は、

 色んな言葉が頭の中をぐるぐると回っていたが、今はとにかく何も考えたくなかった。

 油断をすると、光希を抱いていた男の、にやつきながらこちらを見る気持ちの悪い顔が脳裏に浮かんで、吐きそうになる。

 私はよろよろと立ち上がり、看板を頼りに近くの漫画喫茶を目指した。


 大学に行ってから、私は一度、家に帰ることにした。光希とは顔を合わせたくなかったので、光希の出勤時間が過ぎてから家に向かった。

 家へと向かう道のりを歩いている最中、私は光希にどうやって同居の解消を切り出そうかと考えていた。あんなことが続くのなら、さすがに一緒に住み続けるわけにはいかない。あのままでは、

 光希のお金は、ある程度貯まっただろうか。今なら同居を解消しても、一人で暮らしていけるのだろうか――。

 同居の解消を持ちかけるにしても、今後、光希との縁が切れるような終わり方は、私はまだしたくはなかった。

 結局、結論は出ないまま家に帰り、玄関の扉を開けると――

 リビングの真ん中で、光希が思い詰めたような顔で正座をしていた。

「み、つき――」

 仕事はどうしたの、と言いかけた私に、

「ごめん!」

 と言って、光希は頭を下げた。

「ごめん、私、調子に乗ってた。朱里の嫌なことまで聞いて、挙句の果てに酔っ払って、あんな男まで連れ込んで――幻滅したよね。本当に、ごめん」

 話している間も、光希は頭を上げなかった。

「いや、えっと……仕事は?」

「今日は休んだ。……っていうか、もう辞める」

「……えっ?」

 突然の展開に、私は戸惑いを隠せなかった。

「朱里がいない間、ずっと考えてたの。最近、お酒を飲むとしゃっくりが止まらなくなるし、喉の調子も悪いし、あんな風に調子に乗って、男の人を家に上げちゃうし――」

「……」

 驚いて何も言えなくなった私に、光希は弁解を続けた。

「あっ、でもね、この家では何もしてないよ。朱里が出て行ったあとに酔いがさめて、あの人のことはちゃんと追い出したから。散らかした分も、ちゃんと掃除したから」

 違う。

 きっと、光希は誤解している。

 でも――それでも良いのかもしれないと、その時、私は思ってしまった。

 私は、光希の右腕を取った。腕の外側には、小さな擦り傷ができていた。

「……怪我、したの?」

「ちょっと、あいつと揉めた時にね。でも、全然痛くないし大丈夫――」

 私は、なるべく触れないように、光希を抱きしめた。

「……朱里?」

「花火、今年は一緒に行こう」

「……うん」

 光希は、私を抱きしめ返した。

 ――そういう意味ではなかったとしても、それで良いと思った。

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