脊椎がオパールになる前に 三
――それから一年ほど経って、祖母は旅立った。
棺に横たわった祖母の遺体を見ながら、私は、いつか祖母が話してくれた物語を思い出していた。
それは、オーストラリアに伝わる神話だった。
夢の時代、大地の生き物は『死』とは何かを知らず、幸せに生きていた。
ある日突然、インコがユーカリの木の枝から落ちて、首の骨を折った。そのままインコは動かなくなってしまい、他の動物たちは途方に暮れた。
すると、ヤゴとイモムシが、インコに起きたことを実際に見せてあげましょう、と言う。
ヤゴとイモムシは冬の間中眠りに就いて、春になっても見当たらない。
彼らはどうしてしまったのだろうとみんなで話し合っていると、突然、イヌワシが大声を出す。
――色とりどりのちょうちょが、動物たちの周りを舞っていた。
ちょうちょはこう言う。
「わかりませんか? わたしたちは、イモムシだったのですよ!」
つまり、生き物はたとえ死んだとしても、いつか別の姿になってまた現れると――祖母は、そういう話をしてくれたのだ。それは、幼いながらに死を恐れていた私にとって、唯一の希望だった。
――いつか、私は祖母にまた会えるのだろうか。祖母も私も、お互いのことがわからなかったとしても。
そんなことを考えながら、私は祖母に向かって手を合わせた。
私と光希は、高校二年生になっていた。
クラスは離れてしまったものの、私たちは共に帰宅部だったので、放課後に待ち合わせて学校近くのファーストフード店に寄り、とにかく喋った。学校や学生に対して感じていることや、ニュースを見て思ったこと、家族との間で起きたこと。
話したいことがない時は、スマートフォンを見たり、ぼんやりとしていた。そうしていると、私と光希のどちらからともなく話し始める。無理に話題を作らずに過ごせるこの空間が、私にとってはとても居心地が良かった。
ある日、私と光希は、学校の玄関の外階段に座って弁当を食べていた。出入りする生徒たちが時おりこちらを見ていたが、建物の中で食べるよりもこっちのほうが気持ちいいと思うんだよね、と言った光希の言葉はもっともだった。白色の閉鎖的な壁に囲まれて生徒たちの噂話を耳に入れながら食べる弁当よりも、外で食べるほうがうんと開放的で、気分も清々しかった。
病院で祖母を見た時の気持ちを話すと、光希はうんうんと、うなずきながら熱心に聞いてくれた。
「朱里の気持ち、わかる気がする。あたしもお父さんが死んだ時……悲しいよりも先に、ああ、あっけないなあって思っちゃった。隣でお母さんがずっと泣いてたから、その時はそんなこと、口が裂けても言えなかったけど」
言い終えてから光希はペットボトルのジュースを飲もうとして、あっ、と言った。
ペットボトルの口からジュースがたちまち光希の服に流れ出て、光希はやっちゃった、と小さくつぶやいた。
「もう、駄目だなあたしは。ほんと駄目」
光希は自嘲的に笑いながら、染みになったシャツを見つめた。
私は光希にポケットティッシュを貸しながら、
「……その、自分のことを馬鹿とか駄目って言うのって、口癖?」
と、さりげなさを装って聞いた。
光希はきょとんとしていたが、
「すっごく、正直に言うとね……」
こういう風に言うとお母さんが何も言わなくなるんだ、と光希は小さな声で言った。
「だから、こんなこと考えてるあたしは、もっと駄目。ほんとはちゃんと、お母さんと話さないといけないのに……めんどくさいから、謝ってやり過ごそうとしちゃう」
光希はそう言ってかすかに笑うと、自分のシャツをティッシュでごしごしとこすった。
「……ペットボトルはね、飲み口に自分の口がしっかりはまったことを確認してから、容器を斜めに倒すと良いよ」
「……へ?」
光希は手を止めて、私のほうを見つめた。
「光希は自分の口元を意識してないから、こぼしちゃうんだと思う」
「……」
光希はじっと地面を見つめてから、
「それは、そうかも」
と、納得したようにうなずきながらつぶやいた。
「たぶん、光希はやり方を教わってないだけなんだと思う。馬鹿とか駄目とかじゃなくて」
「……」
「お母さんのことも、話が通じないと思うんだったら、無理に話さなくて良いんじゃないかな。自分の親だとしても、子供が責任を取る必要はないと思う」
「……そう、なのかな」
私は光希の目を見て、強くうなずいた。
光希は、何も言わなかった。私も黙って、光希の次の言葉を待った。
「あっ、そうだ」
突然、光希は立ち上がった。
「そういえばさ、今度、高校の近くで花火大会があるんだって。朱里、誰かと行く予定ある?」
私は首を振った。私はそれで良いと思っているのだが、光希と付き合い始めてから、以前仲良くしていた生徒たちは私に話しかけてこなくなっていた。
「じゃあ、一緒に行こうよ。あたし、花火って見たことないんだ」
「……私も、ないかも」
本当は、人混みもやかましいのも苦手だったから、私はそういったイベントは避けていた。
――でも、光希となら。
「やったあ。じゃあ、駅で待ち合わせね」
光希は嬉々としながら、スマートフォンで過去の花火大会の写真を眺めていた。
そしてとうとう、花火大会の当日がやってきた。
電車に乗った時から、嫌な予感はしていた。花火大会はまだ始まっていないのに、駅前は人でごった返していて――私と光希は、スマートフォンでやり取りをしながら合流するだけでも精一杯だった。
「花火ってすごいんだね。こんなに人がいると思わなかった」
目を丸くしながら話す光希に、私は同意した。
「……浴衣、着てくればよかったかなあ」
浴衣姿で手を繋いで前を歩く若いカップルを見ながら、光希は名残惜しそうにそう言った。
「嫌だよ、動きづらいし。誰かに見せるわけじゃないんだから」
「だって、朱里がいるでしょ」
光希は私を見て、にまにましながらそう言った。もちろん、冗談だとわかってはいたが――私の心臓の鼓動は、少し早くなった。
前にいる人が多すぎて、私たちは会場にはおろか、花火が見える位置にさえ辿り着けないでいた。
どん、と花火の打ち上がる音がした。
「あっ、花火。花火、やってるのかな」
光希は精一杯爪先を伸ばし、体の角度を変えて、なんとかして花火を見ようとしていた。壁のように立ちはだかっている人の列は、一向に進む気配がない。
どん、どん、とまた音がした。
「ううん、見えない。……列、全然進まないね」
光希は、悔しそうに言った。
――結局、私たちは花火を見ることができず、私が人混みに酔ってしまったので、やむなく退散することになった。
ごめんね、と言うと光希は、
「違うの、あたしの下調べが悪かったんだよ。有料観覧席もあるらしいから、次に行く時はそれにしよう。ねっ」
光希なりに励ましてくれていることがわかったので、私はうなずいた。
そのまま解散するのも惜しかったので、私たちは近くの公園に向かった。ここからでは花火が見えないからか、駅近辺とは打って変わって
「……気分、大丈夫? 落ち着いた?」
光希は近くの自販機でスポーツドリンクを買って、遊具に腰かけている私に渡してくれた。一口飲むと、体の中がすっきりとした。
「ありがとう。結構良くなったかも」
光希は、私の隣に腰を下ろした。
少しの間、二人とも黙っていた。
鈴虫の鳴く声が聞こえる。秋が、すぐそこまで近付いてきている。
私は、光希の横顔をさりげなく盗み見た。
鼻筋の通った、綺麗な横顔。
光希は今、何を考えているのだろう。
私は――
「ねえ、朱里は、もう進路って決まった?」
思いがけぬことを聞かれて、私は慌てて我に返った。そういえば、私たちはこんなに一緒にいるのに、将来の話をほとんどしたことがなかった。――というか、無意識のうちに私が避けていたのかもしれない。
「都内の大学の、文学科に行くつもりだけど。……光希は?」
「さっすが朱里。……うちは大学に行くお金もないし、お母さんに仕送りもしたいから……あたしは、働くつもりなんだ」
「……そうなんだ」
私はその時、光希が進学しないことを初めて知った。
「でもね、すっごく正直に言うと、あの家からは出たくて。だからといってすぐに一人暮らしできるようなお金もないし、どうしようかなって考えてて、それで……」
「それなら、私と一緒に住む?」
間髪入れずにそう言った私を、え、と言いながら光希は見た。
「私も、大学行きながらバイトもするつもりだったから。家はちょっと狭くなっちゃうけど……家賃が折半できるなら、得だと思わない?」
「でも、なんていうか、そうだなあ……」
光希は一人でぶつぶつ言いながら考えていたが、急に腹を決めたようにうなずいた。
「うん、そっか。そうだね」
光希はそう言うと、立ち上がり、
「それじゃあ、再来年の春から。あらためて同居人として、よろしくお願いします」
そう言って、私に向かって手を差し出しながら頭を下げた。
「何、いきなり改まっちゃって」
私は笑いながら、光希の手を握り返した。
――こうして、十八歳の春から、私は光希と一緒に暮らすことになった。
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