脊椎がオパールになる前に 二

 その日、私は病院へ見舞いに行った帰りだった。

 商店街のスーパーで野菜を物色している光希を、偶然見かけたのだ。

「志賀さん」

 後ろから声をかけると、光希は文字通り飛び上がった。

「ひゃあ、びっくりした」

 昭和の漫画のようなリアクションだなと思いながら、私は笑った。

「相田さん。なんでここにいるの?」

「それは、こっちの台詞。志賀さんって、このへんに住んでるの?」

 辺りを見回しながら、私は言った。近くに大きい病院があるとはいえ、駅からはずいぶん離れているし、辺鄙へんぴな場所だ。

「うん、そこの団地」

 光希は、スーパーから目と鼻の先にある団地を指差した。

「……ねえ、このあと予定あるの?」

「予定? 特にない……けど」

「何だったら、今からうちに来る?」

 相変わらずにやにやしながら、光希はそう言った。なんだかナンパされてるみたいだな、と私は思った。


 光希の家は、ゴミ屋敷だった。

 床には洋服やチラシなど、あらゆるものが散らばっており、食べ物はほとんどがビニール袋でまとめられているが、コンビニ弁当の箱がそのまま転がっていたりする。光希は慣れた様子で台所に向かってビニール袋を持ってくると、手近なところにあった弁当箱を中に放り込んだ。

 それから光希は奥の部屋へと向かった。どうやらそこが、光希が普段使っている部屋のようだった。

 光希の部屋は廊下に比べて片付いており、多少のゴミはあったが驚かない程度だった。女子の部屋のわりには物が少ない。小さい本棚、箪笥と、真ん中に布団が敷きっぱなしになっているだけだ。布団の横には扇風機と、ぼろぼろになった漫画本が数冊積まれていた。

「ごめん、散らかってて。窓開けるね」

 光希はへへとおどけたように笑うと、近くの窓を開けて網戸にした。それから光希は少し恥ずかしそうに布団を雑に丸め、押し入れに詰め込むようにしてふすまを閉じた。

「あとは……そうか、お茶。お茶入れてくる」

 光希は急に思い付いたように手を打ち、台所へとどたどた走って行った。

 私はしばらく、立ちすくんだまま茫然ぼうぜんとしていた。

 少しすると、光希は冷たい緑茶を入れたグラスが載った盆を持ってやって来た。リビングで勉強してるから机はないんだけどね、と言い訳のように早口で光希は言うと、グラスを床に置いた。ありがとう、と私は返した。

「親は? 出かけてるの?」

「ううん、かな。たまにしか帰って来ないから、あたしもよくわかんない」

 光希はへらっと笑うと、両手を伸ばして床に寝転がった。

「会えてよかった。いつか、相田さんと話してみたいと思ってたんだ」

「……それは、なんで?」

 光希はがばっと起き上がり、

「博物館で話した時のこと、覚えてる?」

「う、うん。覚えてるよ」

「あたし、あれからあの時のこと、ちょいちょい思い出しててさ。もっと話したかったなあって何度も思ってたの」

 光希は感情を込めてそう言うと、私に邪気のない笑顔を向けた。

「……そう、なんだ」

 私はなぜか気まずくなって光希から目を逸らすと、グラスの中のお茶を一口飲んだ。

「中学生の頃に、お父さんが死んだんだ」

 ――突然、何を言われたのかわからなくて、私は思わず光希の顔をまじまじと見つめた。

「お母さんは……まあ、もともとちょっとそうだったんだけど、ヒステリーが悪化しちゃって。家にいても喧嘩するだけだし帰りたくないなあって思ってたら、そのうちどっか行って、よその男の人の家にいるみたい。うちに帰ってくるのは週に二、三回ぐらい。……でも、お金はちゃんと置いてってくれるよ」

 一気に話し終え、光希はふう、と息をついた。私は何と返して良いものかわからず、ただ唖然としていた。

 窓の外から、蝉の鳴き声が聞こえていた。

 あっちいね、と光希は言って手の甲で額の汗を拭うと、扇風機の電源を入れた。

「……ねえ、なんでそんなこと、私に話したの?」

 私はようやく、ずっと気になっていたことを口にした。

「えっ、なんでだろ。……わからない」

 光希は目を丸くしてから、ころころと笑った。

「べつに、秘密にしてるつもりもなかったけど……しいて言えば、相田さんと博物館で会った時に……こんなことを話せる人は他にいないって思ったからかなあ」

 光希は首をかしげたあと、二、三度ゆっくりとうなずきながら、うん、うんと自分に言い聞かせるように言った。

「……あたし、馬鹿だから、それ以上はわかんないや。ごめん」

 光希は誤魔化すようにそう言うと、へへ、と笑った。


 帰路に就きながら、私は光希と会う前に見舞いに行った祖母の様子を思い出していた。

 私の両親は仲が悪く、家の中では必要最低限の会話しかなかった。お互いに仕事が忙しく、家にも空けがちだったので、私は小さい頃から祖母に面倒を見てもらっており、祖母に育てられたようなものだった。

 祖母は胆道癌たんどうがんを患っており、もってあと一ヶ月だと言われていた。

 祖母の肌は絵の具で塗られたぐらい黄色く、手足は枝のように痩せ細り、目の周りは落ちくぼんで、生前の面影はまったくなくなっていた。私に色んなことを教えてくれた祖母は、癌にかかってからほんの一年足らずで、あっという間に枯れ木のようになってしまった。

 ――人気のない病室で、様々な機械に管で繋がれて呼吸器を付けた祖母を見つめながら、私は悲しいというよりも、怖いと強く感じている自分に驚いた。

 変化した祖母の姿を受け入れきれないと母には少し話したが、怖いのなら無理に来なくても良いのよ、という、的外れな返答しかもらえなかった。

 結局、私は祖母の病院に通い続け、父と母よりも多く見舞いに行くようになっていた。自分が感じている恐怖感の正体を知りたかったからというのもある。けれど結局、それは死への恐怖でしかなかった。

 ――人間はどうあがいたって、骨と肉の塊でしかないのだ。どんなに見栄を張っても、見た目が良くても、賢いふりをしても。

 そう思った途端――今まで自分が守っていた生活が、急に馬鹿馬鹿しく感じられた。

 とはいっても、結局、親や友達をいきなり無下むげに扱うわけにもいかず――近所の人の噂話や誰々ちゃんの悪口などの薄っぺらい会話に黙って相づちを打っている自分も、次第に嫌になっていった。

 私たちにはもっと他に、考えるべきことがあるのではないだろうか。もし、どうにもならないことばかりだったとしても――。

 毎日が噂話や悪口で満たされているよりは、よほどましな気がした。

 ――光希の家に行ったその日から、私は学校でも、光希と頻繁に話すようになった。

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