とてもよくできた顔 二
留美はマンションに
マンションの一室は防音室で、気兼ねなく大きな声が出せる。留美はそこで、自分の声を録音しては聴き直すことを繰り返していた。
防音室にはグランドピアノもあったので、時おり鍵盤の音と照らし合わせて、音程が合っているかどうかを確認もした。どこがどの音かぐらいならわかるが、今の留美はピアノが弾けない。
自分の声を聴いて顔をしかめると、留美は防音室から出た。リビングを通過して、引き戸で仕切られたもう一つの部屋に向かう。
「――ねえ、あんた、なんであんな声が出せてたの?」
部屋の奥には――テープで口をふさがれ、縄で後ろ手に縛られた、もう一人の留美が横たわっていた。
「……私の歌が、あんたに歌えるわけない」
もう一人の留美は敵意を剥き出しにして、留美にそう言った。
――留美は、もう一人の留美の頬を思いっきり平手打ちした。
「このクソアマ、調子に乗んなよ」
留美はうなだれているもう一人の留美の口に、ふたたびテープを貼り付けた。
部屋を出ると留美は洗面所の前に行き、鏡に映っている自分の姿を見た。
白いTシャツに、ジーパン。髪の毛は軽く櫛でとかしただけで化粧もしていないのに、以前の自分とはまるで違う。素材が良くなっただけで、女っ気がない、だらしがないとも言われなくなった。やはり周囲の人間はそれらしいことを言っても、結局自分の顔しか見ていなかったのだ。
けれど留美は、この容姿を使って男をたぶらかそうなどとは
私はようやく、自由に生きられる――。
留美は
掛橋は留美と岡山が通っている大学に向かい、もらった写真を片手に辺りを見回していた。
「掛橋さん!」
遠くから、見知った顔が手を振りながら駆けてきた。
そういえば薫も山園と同じ大学だったなと、掛橋は思い出した。
「その
薫はそう言うと、深々と頭を下げた。
「……その後、
掛橋はさりげなく、その時の調査対象者だった宮下
「たまに会いますけど、元気そうですよ。ボクシングは休んでて、やりたいことはまだ決まってないみたいだけど」
薫は片手に、芋けんぴが入った透明な袋を持っていた。食べますか、と聞かれ、昼食を食べてきたので、と掛橋は断った。
薫は芋けんぴをぽりぽりとかじりながら、
「こんなところで何してるんですか。また調査ですか?」
「そうなんですよ。実は……」
岡山から聞いた留美のことを、掛橋は要点をかいつまんで説明した。薫はふんふん、と言って聞き終えてから、自分のことを指差し、
「……実は、あたしなんです。岡山先輩に掛橋探偵事務所のことを紹介したの」
掛橋は目を丸くして、
「えっ、そうなんですか」
薫はうなずき、
「でも、依頼内容は聞かなかったから。速水先輩のことで困ってるなんて知らなくって……友達に軽音サークルの子がいるから、ちょっと聞いてみましょうか?」
「是非、お願いします」
スマートフォンを操作している薫を見ながら、掛橋は、柄にもなく事務所の顧客拡大について考えていた。ひょっとすると薫の人脈は掛橋が想像しているよりも広く、ここで評判を得られれば、新規顧客の獲得に繋がるかもしれない。伯父である小華田からの紹介に頼り切っていた掛橋にとっては、なんとも渡りに船だった。
――とはいえ、すべては、薫と探偵事務所を繋いでくれた山園のおかげでもある。
「軽音サークルの子と、連絡取れました。でも、速水さんはサークルにも顔を出してないそうです」
留美の家の住所は、岡山から聞いている。とはいえいきなり家を訪ねて、あなたは速水留美とは別人なのではないですかと聞いたところで、もしそうだったとしてもはいそうですと言ってくれるわけがない。
「……一応、最近の速水さんに何か変わったところがなかったか、聞いてもらっても良いですか?」
「ええと、ちょっと待ってください。……あ、来た来た」
薫は遠くからやって来た友人に手を振ると、掛橋に紹介した。
「軽音サークルの、
小牧はそう名乗ると、掛橋にお辞儀をした。
「この人、あたしのいとこなんだけど。CDを聴いて、速水さんのファンになっちゃったんだって」
そういう設定にしたのかと、掛橋は感心した。が、小牧は、
「……ストーカーみたいなことするんだったら、協力しませんよ」
そう言って、軽蔑した様子で掛橋を見た。薫は慌てて、
「違う違う、そういうんじゃなくて。……なんでも、お父さんがテレビ関係の人らしくて。速水さんのことを紹介したいって」
「えっ、すごいじゃないですか」
小牧は目を丸くして、掛橋のほうを見た。事実ではないのに褒められたような気がして、掛橋は反射的にどうも、と頭を掻いた。
「そう。でも、肝心の速水さんと連絡が取れなくて困っててさ。……最近、速水さんに、変わったこととかなかった?」
「えっ? いや、ううん……あんまり思い付かないけどなあ。あ、でも」
小牧は、思い付いたように目を見開いた。
「なんか、何回かライブに変な人が来て、気持ち悪いみたいなことは言ってたかも」
「……それこそ、ストーカーとかですか?」
掛橋が顔をしかめて尋ねると、小牧は首を振った。
「そういうんじゃないと思います。女の人って言ってたから」
「女……」
掛橋は腕組みをして、考え込んだ。
留美はもう一人の留美の前に屈み込み、
「ねえ、今日はあんたの彼氏とデートしてきたよ。ちょっと冴えないけど、真面目なやつだね。あんたならもっと派手な男と付き合いそうなのに」
そう言うともう一人の留美は、留美を睨みつけた。
「……あんた、一体、何が目的なの? 私を殺す勇気もないくせに、このまま私になりすまし続けようとでも思ってんの?」
「ごちゃごちゃうるせえな。お前には関係ねえだろ」
留美はそう言うと、もう一人の留美を足蹴にした。もう一人の留美は、体をくの字に折り曲げて
留美はもう一人の留美の前髪を手で
「あたしはこうやって、あんたをいたぶるのが楽しくてたまらないの。……飽きたら殺すよ。別に、あんたのことなんてなんとも思ってないんだから」
吐き捨てるようにそう言うと、乱暴に手を離した。
「……」
留美は立ち上がって、部屋から出て行った。
――何か、何かないだろうか。
もう一人の留美は手を縛られたまま部屋を這うと、暗闇の中で目を凝らし、近くに使えるものがないかを探した。
ここは本来、留美が物置きとして使っていた部屋だ。今の留美はまったく関心がないようだが、部屋のそこかしこにいらなくなったものが置かれている。
そうだ。そういえば――。
留美は部屋の隅にある使わなくなった椅子にもたれかかると、周囲を探した。思った通り、留美が使っていなかった昔のスマートフォンが近くに落ちていた。
あの女、やっぱり部屋の中を確認していなかったのか。相変わらず
留美はそう思いながら、苦心してスマートフォンの電源を入れた。幸いなことに家のWi-Fiが繋がっており、通信もできるようだ。今までの行動からしても、もう一人の留美は、しばらくこの部屋にはやって来ない。たったの三文字でいい。今のうちに、隼人に伝えなければ――。
留美は必死になりながら、スマートフォンで文字を打ち始めた。
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