とてもよくできた顔 三

 旅行から帰って来た我孫子は、すぐにある場所へと向かった。

 ――そこは、『くぐつ珈琲』という、古びた喫茶店だった。サイフォンで入れられたコーヒーが美味しく、落ち着いた雰囲気のゆったりできる店で、掛橋もよく利用している。

 しかし、我孫子がここに来たのは、休憩を取るためではなかった。

「あなたから呼び出してくるなんて、びっくりしましたよ。――出門でもんさん」

 茶色の革張りのソファーに腰かけながら、我孫子はそう言った。――向かいの席には、出門が腰かけていた。

「どうも、お忙しい中ありがとうございます」

 出門はそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。我孫子と出門が顔を合わせるのは、宮下の件以来だった。

 我孫子は、向かいに座っている出門の姿を観察した。普段と同じスーツ姿ではあるが、髪が乱れ、少し疲れているように見える。

「話ってなんですか。しかも事務所じゃないほうが良いって――」

 ミックスジュースを頼んだあと、我孫子は切り出した。

「他の従業員の方と、わたくしは面識がございませんから。それに、自分の姿や名前を知られることは――あまり本意ではありませんので」

 出門は、気まずそうに言った。

 出門がかかわっている出来事は、いつもろくなことにならない。宮下の件といい、松坂の件といい――。出門が彼らにしたことを思い出しながら、それでもこうして平然と会っている自分のことを、我孫子は不思議に思っていた。

「……わかりました。じゃあ、俺にしたい話っていうのを聞かせてください」

 そう言うと、出門はゆっくりと口を開いた。


 ――その客は、出門がわけではなく、のだと、出門は言った。

 客の女性は黒いサングラスにマスクで鼻まで隠しており、見るからに怪しいで立ちをしていた。とはいえ出門は――と、気まずそうな顔で言った。

「私を、ある女の姿にしてほしい」

 くぐもった声で、女性はそう言った。

 出門は戸惑いながら、できないことはないが、、と女性に伝えた。出門は存在するものを取り除くことは得意だが、無から有を生み出したり、既存のものを何かに変えることは苦手なのである。それでも良いと、女性は鬼気迫る様子で言った。

「あいつに――あいつに復讐しないと、あたしの気が済まないの」

「復讐って、たしかにそう言ったんですか?」

 出門はうなずき、

「はい。その時にわたくしも、何か不穏なものを感じたのですが――いくら相手が女性とはいえ、断ると何をするかわからないぐらい、彼女は必死の様相でしたので」

 そう言ってうなだれる出門を見て、我孫子はようやく、自分が出門と付き合い続けている理由を思い出した。

 この男は――決して、人をおとしいれたいわけではないのだ。あくまで相手が困っていることを、それが相手のためになると信じて、何とかしてやっているだけだ。

「……ですが、彼女が去ったあと、わたくしも色々と考えまして。わたくしは、たとえば犯罪ですとか、そういった物騒なことに――加担するようなことをしてしまったのではないか、と」

「女の名前って、聞きました?」

「いえ、聞きはしたのですが言えないと……申し訳ございません」

 出門は本当にすまなさそうな顔をして、頭を下げた。

「……話は、わかりました。でも、その話をなんで俺に?」

「先ほども言ったように、わたくしは大勢の人間との接触を望んでおりません。たとえば警察に行けば、自分のことを根掘り葉掘り調べられるでしょう。……それに、我孫子さんであれば――職業柄、色んな方と接することが多いでしょうから。わたくしのお客様と会うこともあるかと思いまして」

「……なるほど、わかりました。ちょっと事務所に行って掛橋さんに確認してみます」

 我孫子は立ち上がり、席から離れようとした。

 ――が、振り返って、

「……出門さん」

「はい?」

「商売相手は、ちゃんと選んだほうが良いですよ」

 真剣な顔でそう言うと、店から出て行った。


 岡山を含めた留美以外の残り三人のバンドメンバーは、スタジオのロビーの丸テーブルを囲んで話していた。

「いやあ、それにしても今日もひどかったよな。留美の歌」

 ベースの村田が、眉をひそめて言う。留美は練習が終わってスタジオから出ると、早々に帰って行った。

「ばか、もう一回歌う気になってくれただけましだろ。一時は本気で解散かと思ってたよ」

 ドラムの草野が、たしなめるようにそう言った。

 岡山は心ここにあらずな様子で、スマートフォンの画面を見ながらぼんやりとしていた。

「お前、ほんとに知らないの? 留美が歌えなくなった理由」

 村田がいぶかしげな顔をして岡山に聞いたので、岡山は我に返って、

「え?……ん、ああ。なんか、まだ喉が本調子じゃないみたい」

「そんなこと言われても、もう一ヶ月近く経ってるし。せっかく二枚目のCD出そうって話してたのに……このままだと俺たち、マジで解散だよ?」

 村田の深刻な口調に反して、岡山はまだ少しぼうっとしたまま、

「……そう、だよなあ」

 と言ったので、村田は大きな溜め息をついた。

「まあ、ひとまずは良いじゃない。留美ちゃん最近なんか機嫌良いし、愛想も良いし。あそこまでにこにこされると、ちょっと不気味なくらいだけど」

 草野が村田をなだめていると、岡山の手元でスマートフォンが振動した。

 それは、留美からのメッセージだった。『つちや』とひらがなで三文字、文章はそれしか書いていない。

「つ、ち……や?」

 ――岡山ははっとして、椅子から立ち上がった。

「ごめん、ちょっと俺、急用ができた」

 そう言うと、岡山はギターケースを手に取り、スタジオから飛び出していった。


「掛橋さん!」

 岡山が叫びながら探偵事務所のドアを開けると、我孫子と掛橋が向かい合ってソファーに座っていた。

「……あ、どうも、すみません」

 我孫子の姿を見て、途端に岡山は縮こまった。我孫子は相変わらず、前開きの半袖Tシャツにベージュのショートパンツにビーチサンダルといったラフな服装だった。はたから見ると、チンピラと勘違いされても仕方がない。

 掛橋は岡山に手で向かいのソファーに座るように勧めながら、

「この人は、うちの従業員なんで大丈夫ですよ。……例の件で、何か続報がありましたか?」

 我孫子がどうぞ、と言いながらソファーの隅に寄ったので、岡山はおずおずとソファーに座った。

「……留美から、メッセージが来たんです」

 そう言うと、岡山はスマートフォンを取り出し、二人に見せた。

「つちや……この言葉に、心当たりがあるんですね?」

 岡山は、しっかりとうなずいた。

「留美から、前に聞いたことがあるんです。留美の父親はある企業の役員なんですが、女関係がいいかげんで、愛人にも子供がいると。今でも養育費を払っているらしいんですが、その人の苗字が――土屋つちやだと、言ってました」

 掛橋は、大きく目を見開いた。

「つまり、それって……」

 岡山はうなずき、

「はい。……土屋昌子まさこは、留美の異母姉妹です」


 ダイニングテーブルの前に座り、土屋はひたすらにスナック菓子を貪り食っていた。

 テーブルの上には、大量の開いた菓子の袋が散乱している。

 土屋は菓子を口に詰め込みながら、自分がスタジオで受けた屈辱を思い出していた。

 ――精一杯、力を振り絞って歌ったあと、息を切らしながら見た岡山の、困ったように苦笑いをする顔。

 村田からの自分に向けられた、呆れたような表情。へらへら笑っているだけの草野。

 土屋が呆然としていると、村田が近くにやって来て言った。

「――なあ、お前、本当にやる気あんの?」

 村田、と言って岡山がたしなめようとしたが、村田は岡山のほうを向いて、

「俺たちって、デビュー目指してるんだよな?」

 と言うと、岡山は黙ってうつむいた。

「あ、あたしだって、本気で歌ってるよ。調子が悪くてもいっぱい練習して、いつかは歌えるようにって――」

「いつかって思ってんなら、いつまで経っても練習できねえだろ」

 村田は、そう言ってせせら笑った。

 あの時の村田の、あざけるような目つき。

 あれではまるで、留美ではなく――過去の自分が見られているようではないか。

 土屋は、初めて留美をステージで見た時のことを思い出した。

 初めはただ、気まぐれで見に行ってみようと思っただけだった。小さい頃に数回会っただけの自分の姉妹が今はどんな生活をしているのか、名前を検索してバンドをやっていることを知って、見てみたくなった。

 ――そして土屋は、今の留美に出会った。

 力強い歌声に、透明感のある美貌。客は多くはなかったが、誰もが留美の歌声に聴き入り、容姿に見惚れて、羨望の眼差しを彼女に向けていた。

 ――その時、土屋は、自分の中に猛烈な怒りを覚えた。

 人に嘲笑われ、見下されて生きてきた自分は、他人の視線に恐怖を感じ、引きこもりになった。土屋が三歳の頃に母は結婚したが、父は粗暴な男で、気に入らないことがあると母にも自分にもすぐ手を上げる。それなのに母は、実の娘よりも、そんな男のことを大事に思っているようだった。

 たった一つ、違うだけなのに。私たちは、母親が違うこと以外は何も変わらないはずなのに――。

 土屋は、留美を閉じ込めている部屋を思いっきり睨みつけた。

 ――殺してやる。

 あんな女、殺してやる――。

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