とてもよくできた顔 四

 掛橋、我孫子は岡山に先導され、留美が住んでいるマンションへと向かっていた。道中で我孫子は、出門から聞いたことを岡山に説明した。岡山は特に驚いた様子もなく、そういうこともあるんですね、と神妙な顔で言っていた。

 三人は玄関で立ち止まり、岡山が、

「とりあえず、俺が土屋と話してみます。もし何かあったらお二人に連絡を……」

 我孫子は二人から離れたところで、スマートフォンで何かをしていた。

「……我孫子さん?」

「あ、ああ、ちょっとだけ待ってください。もしかしたら、んで」

 少ししてから岡山がインターフォンを押すと、留美の声がした。

「突然来てごめん。ちょっと、話したいことがあって」

「……ちょっと、体調悪くて。今じゃなきゃ駄目?」

「うん。大事な話なんだ」

「……」

 ドアが開き、隠れていた掛橋、我孫子と岡山は、留美の家へと向かった。

「話って何? 家には来てほしくないって言ったのに」

「ごめん、どうしても緊急で話したいことがあって。留美が家から出て来られなさそうだったから、行くしかないと思ってさ」

 岡山はそう言いながら、土屋が閉めたドアの鍵を後ろ手でこっそり開けた。

 リビングは以前岡山が来た時よりもずっと散らかっていて、そこかしこに菓子の袋が転がっている。テーブルの上にも菓子の袋が三つ開いたまま置かれていて、そこで菓子を食い散らかしている土屋の姿が容易に想像できた。

「ごめん、散らかってて。今、お茶入れるから……」

 キッチンに向かう土屋の背に向けて、岡山は声をかけた。

「……お前、本当は留美じゃないんだろ?」

「……え?」

 土屋は立ち止まり、半笑いで岡山のほうを見た。

「隼人、何言ってるの。大丈夫?」

「……探偵事務所の人に依頼して、調べてもらったんだ。お前はある人に、自分の顔や体を留美そっくりに変えてもらうように頼んだんだろ?」

「……ちょっと、何言ってるの。疲れてる?」

 土屋は岡山の肩に手を乗せようとしたが、岡山はその手を振り払った。

 ――こいつは、絶対に留美じゃない。岡山の疑いは、今や確信に変わっていた。

「見た目は留美になりすませても、歌声までは変えられなかったみたいだけどな」

 岡山は土屋を睨みつけ、ゆっくりと口を開いた。

「……土屋、昌子」

 自分の本当の名前を聞いた瞬間――土屋は血相を変えて、岡山に襲い掛かってきた。

「お前、なんであたしの名前を知ってる。どこでそれを……」

 土屋は近くにあったグラスを手に取り、岡山の頭を殴ろうとした。岡山は土屋の手首を掴み、その体を押し返した。土屋は、マンションの壁に勢いよくぶつかった。

 岡山はポケットからスマートフォンを取り出し、掛橋にワンコールだけの電話をかけてから切った。

「――本物の留美は、どこだ」

「……」

 土屋は岡山を見上げたまま、何も言わなかった。

 ――岡山が辺りを見回すと、部屋を仕切っている引き戸が目に留まった。岡山は歩いて行き、その引き戸を開けた。

 ――そこには、両手両足を縛られた留美が横たわっていた。

「死ね!」

 土屋が包丁を持って岡山に背後から襲い掛かろうとした、その瞬間――リビングのドアが開き、我孫子と掛橋が飛び込んできた。

 我孫子は後ろから土屋を抑え込み、そのはずみで土屋の手から包丁が落ちた。

「留美、留美!」

 岡山は留美のもとに駆け寄り、口を覆っていたテープを剥がした。

「隼人――」

 留美の頬には殴られたあとがあり、憔悴はしていたが――幸いなことに、命に別状はないようだった。

「離せ! なんなんだよお前ら、あたしの邪魔ばっかりしやがって――」

 暴れ続けている土屋に、我孫子は後ろから、スマートフォンの画面を見せた。

 土屋は、目を大きく見開いて硬直した。

 肉付きの良い顔、手入れされていない眉毛、切り傷のような細い目。丸い鼻、厚ぼったい唇……。

 そこには――留美とは似ても似つかない、一人の女性の写真が映し出されていた。

 ――土屋は、金切り声を上げ、自分の顔を両手で覆った。

 土屋の顔や体から、見る見るうちに皮膚が溶けていった。体型は留美の一・五倍ほどに膨らみ、目、耳、鼻、口……顔のすべてのパーツが溶けて――あっという間に留美から、土屋の姿に戻った。

 岡山、留美、掛橋は、唖然としてその様子を見ていた。

「……み、見るな」

 顔を押さえたまま、土屋は呻くような低い声で言った。

「見るな見るな見るな見るな見るな、見るなあああああっ!」

 土屋は大きな悲鳴を上げ、リビングから逃亡した。

「待て、土屋――」

 追おうとした我孫子を、誰かの腕が掴んだ。我孫子が振り返ると――そこには、本物の留美が立っていた。

「出門の話だと、時間が経ったら彼女はあなたの姿に戻っちゃうんですよ。今逃がしたら――」

 留美は我孫子に向かって、静かに首を横に振った。


「……昌子は、ずっと人目が怖かったんだと思います。ライブハウスに来た時もすごくそわそわして、周りを気にしてたから」

 ――あれから数日が経った。探偵事務所のソファーに座っている留美は、落ち着いた声でそう言った。

「でも、良かったんですか。せっかく俺が土屋の写真を取り寄せたのに、わざわざ逃がすなんて」

 我孫子は、少し不服そうだった。どうやら我孫子は、変身の解き方を出門から聞いていたらしい。言ってくれれば最初から土屋に写真を見せたのに、と掛橋が言うと、あの時はまだ写真が手に入る確信がなかったんで、と言った。

「……もし昌子を捕まえてたら、あのまま警察に行くんでしょう? 説明できないことばかりだから、どうなるかはわかりませんけど」

 留美が尋ねたので、我孫子はうなずいた。

 留美は後頭部の傷を指しながら、

「この傷、昌子が止血してくれたんだと思うんです。ずっと虚勢を張ってたけど、人を殺す度胸なんて、あの子にはないと、私は思います」

 それから、手元に目を落とした。

「……今回のことは、私にも責任があると思ったんです。父のしたことも、昌子の家庭環境が良くないことも知ってて……それでも、ライブハウスで昌子を見た時すら気味悪がって、何かしてあげようとは全然思わなかった」

「……」

「小さい頃に会ったことがあったから、昌子かもって思ってたのに。気持ち悪いって言って、笑い話にして……ひどいですよね」

 何も言えなくなった我孫子を見て、留美は自嘲的に笑った。

「たぶん私、本当は……昌子のことを心のどこかで、鬱陶うっとうしいと思ってたんです。自分には関係ないから、なるべくなら話したくないって」

「そう思うのも、仕方がないことですよ。いくら血が繋がってるからと言って、相手のことをなんでも受け入れる必要はないですから」

 黙っていた我孫子に代わって、掛橋がそう言った。

 留美は、驚いたような顔で掛橋を見た。

「ただ……一度くらいは、話を聞いてみても良かったのかもしれませんね」

 掛橋がそう言うと、留美は力なく笑った。


 『くぐつ珈琲』で、我孫子は出門と向かい合って座っていた。

「まったく、なんとお礼を申し上げたら良いのか……目的を知らなかったとはいえ、わたくしがいた種も同然でございます。本当に、申し訳ございませんでした」

 出門はそう言い、我孫子に頭を下げた。

「いえいえ。こっちも、出門さんからの情報提供で助かった部分も大いにありますから……」

 恐縮しきっている出門を見て、我孫子はあることを思い付いた。

「あ、だったら、一つ聞いても良いですか」

「はい、何でございましょうか」

 我孫子は身をかがめて声をひそめ、

「……前から思ってたんすけど、ひょっとして出門さんって、悪魔……なんですか?」

 ――出門は少し目を見開いたあと、右の口の端を少し持ち上げた。

「それはまた、どうして」

「だって、ほら……」

 我孫子は紙ナプキンに『出門』と名前を書き、その上に『でもん』とふりがなを振ると、『で』と『も』の間に『い』を足した。

 それを見た出門は、声を出して笑った。たしかにダジャレですけど、と、我孫子は気まずそうに言った。

「悪魔というのは、あまりにも漠然とした表現ですよ。キリスト教において、悪魔は神と同等の力を持った存在だと言われています。わたくしはそんな、大それたものではございません」

「……でも、人の痛みをなくしたり、頭から釘を抜いたり、現実に起こり得ないようなことはしてるじゃないですか」

「それは、その程度のことしかできない、ということでございます」

 ――詭弁きべんだ。我孫子はそう思ったが、それ以上追及するのはやめた。話す気がないのなら、無理に聞く必要もないだろうと思ったのだ。

 出門はすくっと立ち上がり、

「わたくしは少しの間、皆さんの前から姿を消そうかと思っております」

「おっ、修行の旅ですか?」

 我孫子が聞くと、出門は笑って、

「……さあ、どうなるかはわかりませんが。しばらく連絡は取れないかと思います。どうか、ご承知おきください」

 そう言ってうやうやしく頭を下げると、店から出て行った。

「……風のように去って行ったな、あのおっさん」

 我孫子は一人でそうつぶやき、ふっと笑った。


 新宿のとある噴水の段差に座って、土屋はぼんやりとしながら、行き交う人々を見つめていた。

 草むらに寝転んで話しているカップル、テントを張っている家族連れ、ギターケースを背負って歩いている若い男……。

 みんなが目的や、帰る場所を持っている。私にはもう、帰るあてすらない。

 ――これから一体、どこへ行けばいいのだろう。

 土屋は、途方に暮れていた。

 脳裏に母の姿が浮かび、あんなに嫌っていた母のことを少しでも恋しがっている自分に気付いた土屋は、心の中で苦笑した。

 この姿を手に入れて、人から見られることへの恐怖は克服できたけれど――

 結局私は――私自身は、何も変わっていないのだ。

 遠くで土屋を見て何やらひそひそと話していた若い男性二人が、土屋のほうに近付いてきた。

「お姉さん、可愛いね。暇なら飲みにでも行かない?」

 土屋は二人を見ながらしばらく放心していたが、やがて口の端に笑みを浮かべた。

「――うん、行く」

 土屋は立ち上がり、雑踏の中へと消えて行った――。

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