無痛 一
カーン。
リングの上に、ゴングの音が鳴り響く。
――駄目だ。
相手が穂香に、左のグローブを殴りつける。ヘッドギア越しでもわかるぐらいの強い力でグローブが右頬に当たり、頭が揺れるのを感じて、穂香は思わず身を引いてしまう。
――駄目だ。駄目だ。駄目だ。
相手は間髪入れずに、右のグローブで穂香を殴る。穂香は、殴り返すことができない。ただ脇をしめ、両方のグローブで自分の頭をかばって丸くなっているだけだ。
――駄目だ。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
殴り続けられた穂香は、とうとう力尽きてリングに膝をついてしまう。立ち上がろうとするが、レフェリーが間に入って穂香を止める。
穂香は、TKOで負けた。勝者の名前が読み上げられ、レフェリーが相手の腕を上げた。穂香はずっと下を向いたまま、周囲の人々の目が怖くて一度も顔を上げられなかった。
念のために病院で検査をし、手当てを受けてから穂香が外に出ると、小雨が降っていた。
傘は持ってきていなかったので、穂香はそのまま歩いて行った。
小さい頃に練習試合で首の骨を折ってから、穂香はボクシングの試合をすることが怖くなってしまった。あの時のすさまじい吐き気と痛みが忘れられず、昔、ボクシング選手だった父にいくら叱られても、リングに上がると勝手に体がひるんでしまう。選手としては致命的な問題だと思ってはいたが、わかっていても、自分ではどうしようもなかった。
――今日も、負けちゃった。ごめんね。
もう何度繰り返したかわからないその台詞を、穂香は心の中で
突然、
赤信号を待つ間、穂香は近くの金物屋の軒下に駆け込んだ。
軒下には先客がいた。黒いスーツを着た、
少しの間、二人は並んで信号を待っていた。雨はいっそう激しく降ってきて、天気は悪くなる一方だった。
穂香は隣の男性に目もくれず、父のことばかりを考えていた。
信号が青になり、穂香が走り出そうとすると、
「――何か、お困りごとですか」
よく響く大きな声で、男性がそう言った。
その声に反応して、穂香は足を止めた。
*
とある体育館にて、
三人は、山園の大学の同級生である
薫はフライ級という、二番目に軽い階級の選手だった。
ゴングの音が鳴り、ヘッドギアとグローブを付けた薫が戦い始めた。赤コーナーが竹井薫、青コーナーは宮下穂香という選手らしい。観客の数はまばらだったが、客席からは時おり、リング上に野次が飛んでいた。
序盤は薫が右ストレートを入れて攻め始め、優勢であるかのように見えた。薫は穂香をリングの隅に追いやり、激しいラッシュをかけた。――が、穂香はまったく動じず、身を起こすと、薫にしっかりと向き合った。
――すると突然、薫の動きが鈍り始め、穂香が攻め始めた。
穂香の猛攻に耐え切れず、とうとう、薫は膝をついた。
薫は諦めずに立ち上がり、その後も戦ったが――試合結果は穂香の判定勝ちだった。
掛橋は、つい横目で山園の様子を見た。が、山園は顔色一つ変えず、真剣な表情でリングを見つめていた。
「ああ、負けちゃった」
レフェリーが穂香の手を上げるのを見て、山園は一気に緊張が解けたようにそう言い、溜め息をついた。
――その時、山園に、現実のものではない映像が
部屋の中を、白い何かが漂っていた。入り口には穂香がいて、何かを叫んでいる。
その部屋に見覚えはなく、白い何かは煙よりもくっきりとしていて、実際に見たことはないが、
「……山園さん? 大丈夫ですか?」
薫が負けてショックを受けていると勘違いしたのか、掛橋が声をかけた。
「……あ、すみません、大丈夫です。薫、かっこよかったですね」
掛橋はうなずき、
「俺はボクシングの試合を実際に見るのは初めてでしたけど、女性でもこんなに体を張るんですね。……根性がないと、なかなか続けられなさそうです」
「俺は、テレビでは何回か見たことあるけど、生だとやっぱ迫力が違うっすよね」
そう言って、掛橋の隣から我孫子が合いの手を入れた。
二人は二人なりに、良い経験だったと思ってくれたようだ。山園は安心した。
「――あ」
急に、我孫子が椅子から腰を浮かせた。
「すみません、知り合いがいたような気がするんで、ちょっと行ってきます」
我孫子は立ち上がり、急いで体育館から出て行った。
「……ここで、知り合いに会うことなんてあるんですね」
我孫子の後ろ姿を見ながら、掛橋が不思議そうな顔でつぶやいた。
「私もちょっと薫と話してきます。掛橋さんも一緒に来ますか?」
ベンチで荷物をしまっている薫の様子を見ながら、山園が言った。
「そうですね。じゃあ、軽く挨拶だけでも」
そう言って、二人は立ち上がった。
「
我孫子に呼ばれ、歩いていた出門は立ち止まり、振り返った。
「……おや、誰かと思えば我孫子さんですか」
「試合、見に来てたんですね」
出門
「……あれから、松坂様のご様子はいかがですか?」
少し気まずそうに尋ねる出門を見て、我孫子は意外に思った。松坂の話を、出門から持ち出してくるとは思っていなかったからだ。
「最近はだいぶ色々思い出してきて、記憶も順調に回復してきてるみたいです。結局、前の職場は辞めて転職したみたいですけど。比較的ホワイトな会社で、奥さんとも仲良くできてて、仕事で悩むことも少なくなったみたいです」
「そうですか。……それは良かった」
出門は心の底から安堵したような顔になって、うなずいた。
「……出門さんって、試合に出てた二人と知り合いなんすか?」
「知り合いというか、ええ、まあ」
急に歯切れが悪くなったので、これは何かあるな、と我孫子は察した。
「……ひょっとして、また怪しい商売でもやってるんすか?」
出門は笑って、
「人聞きの悪い言い方はやめてください。わたくしは困っている人を助けたいだけだと、以前もお伝えしたじゃないですか。……それに、これ以上は守秘義務がありますので」
出門はそう言うと、ではまた、とお辞儀をしてその場から立ち去った。
「……人助け、ねえ」
出門の後ろ姿を見つめながら、我孫子はつぶやいた。
ベンチにスポーツバッグを置いてグローブをしまっている薫に、山園と掛橋は近付いた。
「薫、お疲れ様」
薫は振り返り、
「あ、ああ、
「そんなことないよ。すっごくかっこよかった」
山園が力を込めて言うと、薫はかすかに笑った。
「……あれ、その人は?」
山園の隣に立っている掛橋に気付いて、薫は尋ねた。
「前に話したことあると思うんだけど、私のバイト先の所長で、掛橋さん。チケットが余ってるって言ったら、観たいって言って一緒に来てくれたの」
「……ああ、探偵事務所だっけ」
薫は何か考え込むような顔をして、掛橋をじっと見つめた。
「掛橋
掛橋はそう言って頭を下げたが、薫はまだ掛橋を見つめていた。
「……あのさ、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
竹井がコーチと話し終えるのを待って、掛橋、山園、薫は、体育館を出たその足で事務所にやってきた。我孫子は中学校の同級生である松坂と会う約束があるので、それが終わったら事務所に戻ると言っていた。
「散らかってて申し訳ないですけど、そちらに座っていただけると」
掛橋は電気のスイッチを押すと、いつも依頼人が座っている革張りのソファーを指した。薫は辺りを少し見回しながらソファーに腰かけ、掛橋と山園は、向かい側のソファーに並んで腰を下ろした。
「それで、相談というのは……依頼ってことで良いんでしょうか」
掛橋がそう尋ねると、薫は真剣な顔でうなずいた。
「……今日、二人とも見てましたよね。あたしが戦ってた相手の穂香って子」
掛橋と山園は、黙ってうなずいた。
「あの子、あたしよりもずっと前からボクシングをやってて。今までにも何回か試合したことがあるんです」
話を聞きながら、掛橋は、リングから下りてヘッドギアを外した穂香の
「戦績はあたしのほうが勝ってたから、今日だって絶対勝てると思ってて。でも……」
薫はそこで言葉を切ると、言いづらそうに口を開いた。
「今日の穂香は、今までにあたしが試合してたあの子とは、まるで別人みたいでした」
薫は眉をひそめながら、山園と掛橋を見つめた。
「ずっと練習してた人が何かを変えていきなり上達することは、べつにおかしなことじゃないんです。そんなの、スポーツじゃなくてもいくらだってあることだし。でも……」
そこまで言うと、薫は続きを言うことをためらうように顔を下に向けた。
「何か、それ以上の違和感があったの?」
山園の言葉に背中を押され、薫は口を開いた。
「なんていうか、今日の穂香は……今まで試合した他の誰よりも、怖かった」
「……どういう意味?」
「……ボクシングって言ってもね、やっぱり殴られるのは嫌だから、先のことを想像しちゃって、一瞬、動きに隙ができるんだよね。上達すればするほどその意識は薄くなるし、プロだとその恐怖を乗り越えてる人もいるけど……あたしたちみたいなアマチュアで、しかも穂香は、あたしの知ってる限りでは痛みに対する恐怖心が人一倍強い人だった。小さい頃に試合で首の骨を折っちゃってさ。いつも殴られることに怯えてたっていうか……」
山園は、黙ってうなずいた。
「……でも、今日の穂香からは、痛みに対する恐怖心がまったく感じられなかった」
「……それって、殴られても気にしてなかったってこと?」
薫はうなずき、
「あの子は……あたしにラッシュをかけられたあとに起き上がってから、あたしに向かってにやって笑ったの。まるで、もっと殴ってくれって挑発してるみたいだった」
一気に話すと、大きく溜め息をついた。
「もともとあの子は、そんなことするタイプじゃなかったから。それであたしはなんか急に、気味が悪くなっちゃって……」
そう言うと、薫はうなだれた。
薫は試合中の穂香の姿を思い出し、ふたたび恐怖感に
少しの間、事務所に沈黙が流れた。
薫を見ながら、掛橋は考えていた。
ボクシングの選手は試合中は興奮状態で、脳からアドレナリンが出るので痛みが麻痺する、と聞いたことはある。だが、その場合は、試合が終わって緊張が解けると一気に痛みに襲われるそうだ。掛橋が見ている限り、穂香はリングを下りてからも平然としていた。
殴られても、痛がる素振りをまったく見せないなんて――それではまるで、痛み自体を感じていないかのようだ。
「だから、あたしは――お二人に、穂香のことを調べてほしいんです」
「それは、たとえば……穂香さんがドーピングをやってないかとか、そういうことですか?」
掛橋が尋ねると、薫はうなずいた。
入手経路は予想がつかないが、あり得ないとも言い切れない。かの有名なボクシング選手のマイク・タイソンも、のちにコカインや、ナンドロロンと呼ばれるステロイドを
薫が出て行ったのとちょうど入れ替わりで、我孫子が事務所に戻ってきた。
我孫子は試合の会場に出門がいたこと、どうやら出門は試合に出ていた二人のどちらかと面識があるらしいことを、掛橋と山園に話した。
そして、山園は――試合前に人魂のようなものが視えたことを、二人に話した。
「あのおっさん、また変なことしてないと良いけどなあ」
一通り話を聞き終えると、我孫子は呆れたようにそう言った。仮に穂香が出門から何かの薬を受け取っていたとしたら――松坂の例からいっても、おそらくそれはただの薬ではないだろう。
「いきなり接触しても警戒されるかもしれませんし、まずは身辺調査から始めましょうか。我孫子さん、お願いしても良いですか?」
「もっちろん。任せてください」
我孫子は頼もしげに、自分の胸を叩いた。
――こうして翌日、我孫子は、穂香の通っている大学へと向かうことになった。
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