悲願 五

 その後、我孫子は無事に木下家に戻れたが、翌日からは調査どころではなくなってしまった。

 美智のマネージャーである立花が、逮捕されたのだ。

 どうやら立花は、美智と同じマンションの違う部屋を自分用の家として借りていたらしく、そこから遺体が発見された。

 遺体の身元は一〇四号室に住んでいる、瀬川伸也しんやだった。

 立花は瀬川を殺したことは認めているが、動機については黙秘しているらしかった。

「……共食い、ですかね」

 立花について報告すると、掛橋は考えながらそう言った。

 掛橋は、本来、同じ巣に住んでいる蟻はたんぱく質が不足しない限り共食いはしない、と前置きした上で、

「いくら蟻に見立てているとはいえど、結局は人間ですからね。天願さんを立花さんが独占したかったのか、それとも瀬川さんが独占したくなって、それを立花さんがとがめたのか――おおむね、そんなところじゃないでしょうか」

 皮肉なことに、美智は、兵隊蟻の人間らしさに足をすくわれたのだ――。

 掛橋の話を聞きながら、我孫子はそんなことを思った。

 また、予想はしていたが、危ない橋を渡ったにもかかわらず、またしても美智の写真は撮れなかった。それも前回と同じ現象ではなく、美智の姿は黒くて大きいぼんやりとした影のように写り、まるで周囲の男性たちを飲み込もうとしているかのようだった。

 我孫子は念のために録音もしたが、甲高い鳴き声のような音と雑音しか録れておらず、とても証拠にはならなさそうだった。

「でも、慰謝料はもらえなくても、私、やっと後腐れなく離婚ができそうな気がします。誠意を尽くしてくださって、本当にありがとうございました」

 事務所を訪れた瑞江は、先日までの思い詰めたような姿とは打って変わって晴れやかな顔つきで頭を下げた。

 あれから寛治の体調は良くなったが、常にぼんやりとしていて、瑞江が話しかけても反応しないことも多いのだそうだ。美智について尋ねても、覚えているのかいないのか、ろくに返事がない。

 仕事はできているようなので日常生活に問題はないが、いかんせん話ができないので、このままでは夫婦の意味がない、と瑞江は言った。

 マンションの近隣の住民によると、どうやら美智の家に出入りしていた男性たちは、皆、寛治と同じような状態になっているようだった。

 自分が未熟なせいでこんな結果になってしまった、と我孫子が反省すると、

「違いますよ。我孫子さんのせいじゃないです。……あの人は私たちには理解が及ばないような、不思議な力を持ってたんですから」

 と、瑞江は笑って、

「……天願美智は、私たちとは違う世界の人だったんでしょう」

 遠い目をして、そう言った。

 ――それから、天願美智のことだ。

 美智は立花の件に直接関わってはいなかったものの、責任を取る、ということで芸能界から姿を消した。木下夫妻のマンションからも、美智はいなくなり――一〇二号室は、売りに出されて無人の部屋となった。

 我孫子が見た巨大な蟻の巣に関しての話題は、どこからも上らなかったらしい。美智がいなくなってからは蟻自体もまったく見かけなくなったので、気にする必要はないだろう、と瑞江は言っていた。


 ――立花が逮捕されたあと、我孫子は街中で、一度だけ美智を見かけた。

 美智は変装もせず、ノースリーブの白いワンピースを着て、スーパーで堂々と買い物をしていた。あんなに世間を騒がせたのにもかかわらず、どういうわけか周囲の人間は、美智の存在にまったく気が付いていないようだった。

 野菜の品定めをしている、美智の下腹部は――大きく、膨らんでいた。

 美智の願いは叶ったのだろうか。と、我孫子は思った。

 彼女の願いは――大勢の男性と交尾し、新たな子孫と巣を殖やし、一族を繁栄させていくことだったのだろうか。

 もしあの時、美智に導かれるまま、あの部屋に入っていたら――

 我孫子も寛治と同じように、戻ってこられなくなったのだろうか。

 美智はゆっくりと顔を上げ、我孫子に向かって柔らかい笑みを浮かべた。 

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