悲願 四
二日後、パート帰りの瑞江がマンションのエントランスに入ろうとすると、数人の女たちが輪になって話していた。
「木下さん」
瑞江が軽く会釈をして通り過ぎようとすると、見覚えのある女性に呼び止められた。
「井上さん。お久しぶりです」
その人は、五〇九号室の井上夫人だった。久しぶりですとは言ったものの、瑞江は井上とは挨拶ついでに天気の話などを少しする程度で、あらためてしっかりと話をしたことはなかった。
「瀬川さんの旦那さん、昨日の夜に家を出たっきり帰ってないんだって。何か心当たりない?」
井上は
瑞江に礼を言うと井上はふたたび輪に加わり、住民たちとの会話を再開した。
エントランスを通り抜けながら、瑞江は寛治のことを思い出していた。寛治は近頃ほんの少しだけ家に帰って来ては、会社から呼び出されている、と言って昼夜問わずに出て行くようになった。
寛治は自分の心が瑞江にないことを、もう隠す気がないように見えた。どうせ離婚するならと、浮気の証拠を増やすために瑞江は寛治のスマートフォンを盗み見もしたが、美智とのやり取りらしきものは一つも見付からなかった。
自由気ままに過ごしているのにもかかわらず、寛治の体調は日に日に悪くなっているように見えた。生気を吸い取られているかのようにげっそりとし、食事の量も少ない。本当に会社が忙しいのかもしれない、と勘違いしそうになって、我孫子から見せられた写真のことを慌てて思い出す。
瑞江は美智の名前を住民との会話で出してもみたが、少なくとも知り合いの住民は、美智の名前は知っていても、ここに住んでいるとは夢にも思っていなさそうだった。我孫子に確認すると言った警備の話も、やはりそんな話は出ていないようだった。
我孫子は昨日と今日は別の案件で用事があり、浮気調査は進められないと言っていた。
――早く、何とかならないのだろうか。私には、時間がないのに。
瑞江は、もどかしい気持ちでいっぱいだった。
家に帰ると、瑞江はバッグの中から、美智の書いた小説である『悲願』を取り出した。まだ途中までしか読めていないが、主人公の女が人に噛み付いてDNAを埋め込み、水面下で自分の種を
ふと、足元で小さな黒い塊がうごめいているのが目に入った。
「あら、やだ」
――瑞江はそうつぶやくと、スリッパ越しに蟻を踏み潰した。
昼間から、美智と寛治は激しく交わっていた。
隣の家に瑞江がいることを、意識していないわけではない。背徳感によって、興奮が増すわけでもない。ただ、寛治はいざ美智を目の前にすると――頭の中がぼんやりとして、美智のこと以外は何も考えられなくなってしまう。
決して記憶を失うわけではないが、美智との性行為も、あとから思い出すと人事のようだった。
寛治は既に、仕事を二日連続で休んでいた。急な体調不良と嘘をつき、一旦は上司も納得したようだが、いつ疑われ出すかはわからない。ただ、そんなことすらどうでも良くなってしまうほど――寛治は、美智に心酔しきっていた。
美智はいつも、寛治が避妊具を付けることを
最初は、自分のような男に美智が本気で惚れているのでは、と疑いもした。だが、美智との性行為や、少しの会話を経ていくうちに――美智がこんなことをしている理由は別にあるのではないか、と寛治は思うようになっていた。それが何なのかは、到底想像もつかなかったが。
美智との性行為は、いつも淡々としていた。決して美智が行為をおろそかにしているわけではなく、誰かに手順を教えられでもしたかのように、ひどく丁寧ではあったが――そこに寛治をいつくしむような行動は一切見られず、親愛の情は
その日、性行為が終わると、寛治はリビングへと続く引き戸の隙間から室内を覗いた。相変わらず、立花は何をするわけでもなく、部屋の隅にじっと立っていた。
立花は美智が何かを指示すれば迅速に動くが、自主的に何かをしているところは見たことがない。その姿はマネージャーというよりも美智の操り人形のようで、およそ人間味が感じられなかった。
「……なあ、美智」
布団に寝そべりながら、寛治は尋ねた。
「なんで、俺だったんだ?」
「なんでって、何が?」
服を着ながら、美智は振り向いて答えた。
「だから、その、こういうことを……俺としようと思った理由だよ」
美智に自分以外にもこういうことをする相手がいるだろうとは、寛治も当然のように思っていた。だから決して、自分が美智に特別視されているとは思っていなかったが――それでも、美智ほどの財力があれば男などいくらでも買えるだろうし、秘密が漏れるリスクを取ってまで、わざわざ同じマンションの住民と性行為に及ぶ意味がわからなかった。
「……私には、悲願があるの」
「悲願?……って、お前が出した本のタイトルだっけ」
美智は笑って、
「本の内容じゃなくって。現実で……どうしても叶えたいこと」
「ふうん。それって、何なの?」
「……」
美智は黙り込むと、右手で寛治の髪の毛を撫で付けた。
「ねえ。今日は、泊まって行ったら?」
――そんな風に声をかけられたのは、初めてのことだった。
瑞江が『悲願』の続きを読んでいると、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。
『もしもし、我孫子です。予定よりも早く案件が片付いたんで、そっちに行けそうなんすけど……』
「……」
『瑞江さん?』
瑞江は黙って少し考え、口を開いた。
「我孫子さん。私、考えたことがあるんですけど」
――それからしばらくして、我孫子が瑞江の家を訪れた。
「しっかし、大丈夫かなあ。ベランダ越しになんて、ねえ……それに、ご主人が隣の家にいる保証はないんすよね?」
「それは、ないですけど……きっといます。仕事がばたついて帰れそうにないって、さっき連絡が来ましたから」
瑞江はだいぶ自信があるようで、きっぱりとそう言った。
「それにしたってなあ……」
「万一何かあったら、私がお願いしたって言いますから。早く行ってください」
瑞江に急かされ、我孫子は渋々、ベランダへと続く窓を開けた。
我孫子は一〇二号室との間にある仕切り板の手前で手すりを持って勢いをつけ、その上に乗った。
次に、仕切り板の外側から回り込んで、隣の家のベランダへと向かう。一階で良かった、と我孫子は心から思った。
回り込む途中で室外機に足が当たり、大きめの物音が鳴った。一瞬ひやっとしたが、美智の家から人が出てくる気配はなかった。
我孫子はなるべく音を立てないように、しゃがんだまま、美智の家の窓へと近付いた。窓にぴったりと耳を当て、そばだてる。
耳に入ってきたのは、女が喘ぐ声と――何かが規則的にぶつかり合っているような音だった。
我孫子は、カーテンの隙間から室内を覗いた。
――和室に、大勢の男性たちがいた。その中には、我孫子が以前写真に撮った、マンションの住民である井上と斉藤の姿もあった。彼らに取り囲まれ、大きな声で喘ぎながら腰を動かしているのは――
家の主の、美智だった。
美智は、自分の頭上付近で呆然と立ちすくんでいる寛治に向かって手招きをした。寛治が美智のほうに顔を近付けると、美智は接吻をした。たちまち寛治は美智に夢中になって、その唇をしゃぶり尽くした。
他の男性たちも、同じマンションの住民が美智の部屋に居合わせていることと、この場で起きていることの異常性がまるでわかっていないかのように、汗だくのまま性行為をしては、美智の体をひたすらに求めていた。
ぼうっと見ていた我孫子は慌てて我に返り、スマートフォンを構えた。無音で撮影ができるアプリケーションを立ち上げ、室内に向かって何度もシャッターを切る。
――ふと、我孫子の目に、天井の隅に白いかたまりが張り付いているのが目に入った。
それは人の頭四つ分ぐらいの大きさで、粘土のようなものでできている。表面には細かい
――それは、蟻だった。
美智の部屋には、巨大な蟻の巣があったのだ。
――不意に、男性の体の上に乗っている美智がこちらを向き、我孫子をしっかりと見つめた。
我孫子はぞっとした。美智の見ている方向は、偶然とは思えないほど的確で――
まるで最初から、我孫子に見られていることがわかっていたかのようだった。
美智は、我孫子の目をしっかりと見て微笑み、ゆっくりと口を動かした。声は聞こえなかったが、口の動きは読み取れた。
「……こっち」
美智の言葉を繰り返して、我孫子はつぶやいた。
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