悲願 三
美智の家の間取りは、寛治が住んでいる家とまったく同じだった。ドアが閉まっているので確認はできないが、廊下を
美智はリビングに向かうと、キッチンの前にある長方形のダイニングテーブルの椅子に座るよう寛治に勧めた。マネージャーは座らず、リビングの隅で兵隊のように立っていた。
「あの……座らないんですか?」
「私の定位置はここですので。どうぞお気遣いなく」
マネージャーはうやうやしく頭を下げ、
食器棚から急須を取り出している美智を、寛治は盗み見た。美智はノースリーブの黒いワンピースを着ていたが、それは昨日よりも装飾が
「ねえ。私のこと、知ってたの?」
急須と湯呑みを二つ載せた盆を持ち、美智がキッチンから出てきながら尋ねた。
「あ……はい。テレビでちょっと」
「……そう」
美智は湯呑みに交互に茶を注ぎ、一個を寛治の前に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
寛治はぎこちなく礼を言うと、茶を一口飲んだ。
茶葉の甘みが、舌の上にじんわりと優しく広がっていく。今まで飲んだどの茶よりも心が落ち着き、
「……私に、興味があった?」
美智はそう言うと、寛治の頬を人差し指でそっと撫でた。寛治は慌てて身を逸らした。
「じ、自分にはその、妻がおりますので……決してやましい意味では」
「冗談よ。面白いひと」
美智は声を立てて笑い、座っていた席に戻ったので、寛治は息をついた。
「あの、ここに住んでらっしゃるんですか? こんな
「それは言い過ぎでしょう。私、この家も結構気に入ってるのよ。……まあ、あと二つ家があるから、どこに帰るかは気分で決めてるけど」
寛治の中で、何となく合点が行った。美智の家は、ここだけではなかったのだ。居住地を三つも持っているなら、一つぐらい、都心から少し離れたのどかな場所のマンションを購入する気にもなるだろう。住民が気付いていないのも、美智がこの家に定期的に帰っていないからだ。
「……すごいですね。俺にはとても真似できないや」
寛治は感嘆して、そうつぶやいた。
「……でも、しばらくはここに帰ってこようかな」
美智はそう言うと、両肘をテーブルの上に突き、手の上に顔を置いて寛治をじっと見つめた。
「……俺、そろそろ失礼します。お茶、本当においしかったです」
寛治はどぎまぎしながら、慌てて席を立った。
「また、いつでも来てね」
美智は、ふっと笑った。
背中に美智のまとわりつくような視線を感じながら、寛治は急いで家を出た。
マンションの住民がオートロックを解除する時に、偶然を装って後ろからついていき、敷地内に侵入する――
我孫子のそんな
エントランスの前には、四十代ぐらいの男性が仁王立ちしていた。男性は何をするでもなくただ周囲に目を光らせていて、まるで警備員のようだった。
我孫子が素知らぬ顔で前を通り過ぎようとすると、男性は我孫子の前に立ちはだかった。
「……あんた、見ない顔だな。ここの住民か?」
男性は我孫子の姿を、上から下までじろじろと眺めた。
「ええ、まあ。ちょっと、友達に呼ばれて」
「友達が住んでるってことか? 何号室だ」
「ええと、ちょっと……すみません」
我孫子はポケットからスマートフォンを取り出し、
「あ、もしもし。今、おまえんちの前にいるんだけど。……あ、そうなの? じゃあ、そっちに向かうわ」
男性の元に戻り、
「すみません、友達が近くのコンビニまで来てくれたみたいで。そっちに行きます」
我孫子はいぶかしむ男性を残し、ようやくその場を立ち去ることができた。スマートフォンで時刻を確認すると、午後十時過ぎだった。
我孫子は内心で舌打ちをしながら、それにしてもあの男性はなぜあそこに立っているのだろう、と考えていた。あれではまるで、自らマンションの警備をしているかのようではないか。――しかも、こんなに遅い時間に。
警察関係者だろうか。最近、この辺りで事件があったとか――いや、我孫子は調査に来る前に念のため、このマンションと周辺の地域の名前をインターネットで検索したが、不穏な事件が起きた記録はなかったはずだ。
「なんなんだよ、一体……」
瑞江に電話してエントランスのドアを開けてもらう手もあったが、あの男性の前ではやりづらい。電話で口裏を合わせて友達として入れてもらおうかと考えたが、あの男性に目を付けられても
雑居ビルに戻ってから、我孫子は午前零時頃まで粘ったが、美智の家から寛治がいそいそと出てきただけで、他には何の収穫も得られなかった。
――撤収する前にもう一度マンションの様子を確認しようと、我孫子は望遠鏡を覗いた。
マンションの五〇九号室から、私服姿の老人が出てきた。寛治と同じように辺りを軽く見回し、エレベーターに乗り込む。
しばらくすると、一階のエレベーターの方向から同じ老人が現れ、美智の家に入っていった。
少しすると、二階、三階、六階の家からも男性が出てきた。先ほどの老人と比べても、四人は年齢も背格好もばらばらだった。
――男性たちは皆、老人と同じようにエレベーターに乗り込み、全員が美智の家の中へと吸い込まれていった。
家から出て来るタイミングが絶妙にばらけていたので、外でお互いが顔を合わせることはなかった。
一体、なんなんだ、このマンションは。あの女は――。
我孫子はぞっとしながら望遠鏡から離れ、そびえ立つ茶色い箱の形をした巨大な建物を、その目でじかに見つめた。
『天願さんの『願』、本のタイトルである『悲願』の『願』ということで、願うという漢字をよくお使いになられていますが、何かこだわりがあるんでしょうか?』
『……そうですね、私にとっては……生まれた時から授かっている、使命のようなものでしょうか。私の願いというよりは、家そのもののですけど』
そう言うと、美智はくすっと笑った。
『家というのは、美智さんのご実家、ということですか?』
『ええ、まあ……そうです』
『宜しければどういったものなのか、お伺いしてもよろしいでしょうか』
『……それは、秘密です』
美智はそう言うと、微笑んだ。
「何なんでしょうね、天願美智の願いって」
頭の後ろで手を組んで美智のインタビューを見ながら、我孫子が投げやりにつぶやいた。
「男を誘惑すること、とか?」
ボールペンをもてあそびながら、山園が言った。
「男なんて、この見た目なら余裕で釣れるでしょ。わざわざ願いって言うほどかなあ」
掛橋はソファーに座って二人の話を聞きながら、我孫子が持ち帰ってきた写真を見ていた。
事務所の扉がノックされ、掛橋は返事をした。瑞江です、と声が聞こえ、掛橋は立ち上がってドアを開けた。
掛橋と瑞江は、向かい合ってソファーに座った。
「……確証はありませんが、木下寛治さんは浮気をしているかもしれません」
「えっ、……そう、ですか」
瑞江は一瞬、動揺したようだったが、すぐに平静を取り戻した。
「昨日、うちの従業員がマンションの写真を撮ってきました。ですが……」
掛橋は、我孫子がデジタルカメラから印刷した写真を瑞江に差し出した。しかし、肝心の美智の顔だけがすべて手ぶれがひどく、寛治、マネージャー、誰かの三人が、ドアの前に立っていることがかろうじて認識できるぐらいだった。
「これではとても、証拠として扱えません。こちらの不手際です。申し訳ありません」
掛橋は、瑞江に向かって頭を下げた。
「いえ、そんな……」
「今までなかったんすけどね、こんなこと。ほんと何なんでしょうね」
我孫子は少し不満そうに、しきりに首をかしげていた。
「あの、主人の浮気相手って……」
瑞江は、恐る恐る尋ねた。
「……作家の、天願美智さんです」
「えっ!? あの、有名な方ですか?」
瑞江は浮気を報告された時よりも驚いた様子で、目を丸くした。
「まだ、浮気と決まったわけじゃありません。一〇二号室に天願さんが住んでらっしゃって、寛治さんがその家を訪ねた、というだけです」
瑞江をなだめるように、掛橋は慎重に、ゆっくりと言い聞かせた。
「……あんなに綺麗な人が相手だったら、私なんかじゃ、かないっこないですね」
瑞江は諦めたように、力なく微笑んだ。
「瑞江さん。個人情報ですから、くれぐれも、天願さんが住んでいるということは、近隣の方には……」
「はい、わかってます。誰にも言いません」
瑞江は、きっぱりとそう言った。
「……あ、木下さん、そういえば」
我孫子が印刷された写真の中から、一枚を取り出して瑞江に見せた。
「この人のこと、知ってますか?」
それは、我孫子がマンションから追い出されたあとに隠れて撮影した、エントランス前に立っていた中年男性の写真だった。
瑞江は写真を手に取り、
「えっと、この方は……たぶん、隣に住んでる瀬川さんです」
「隣。……ってことは、一〇四号室ですかね」
瑞江はうなずき、
「そうです。奥さんとはたまに話しますけど……ご主人とは、挨拶程度しか」
「職業とかって、わかりますか?」
「奥さんは主婦なんですけど、旦那様は……ええと、たしか、テレビ局のディレクターをされてるって聞いたような気がします」
我孫子は手帳にメモを取りながら、
「……それから、総会や住民の間で、マンションに見張りを立てようって話を聞いたことはありますか?」
瑞江は首をかしげ、
「いえ、特には……。私は引っ越してきたばかりなので、知らないだけかもしれませんけど……変な事件が起きなくて安心だって聞いたこともありますし、そんな話はないと思います」
「……なるほど。じゃあ、この中に、木下さんが知ってる人はいますか?」
我孫子は美智の家に入っていった四人の男性の写真を見せ、瑞江は写真をめくりながら確認していった。
「この方は、五〇九号室の
瑞江は写真を指差しながら、次々と住民の名前を口にした。
「あとの方は……すみません、わかりません。委任状を出して総会に来ない方もいらっしゃいますし、賃貸契約の方とはほぼ交流もないので……」
「わかりました、ありがとうございます」
苗字を書いた付箋を写真に貼り付けながら、我孫子は礼を言った。
警備の話は念のために他の住民にも聞いてみます、と瑞江は申し出た。浮気調査は続ける方向で話は進み、瑞江は事務所から去って行った。
「……管理組合の関係じゃ、ない。ならなおさら、なんでこんなことしてるんだよ」
我孫子は、そうつぶやいた。
掛橋は考えていた。エントランスの見張り、次々と美智の家に入って行く男性たち……。
「外部の人間を、巣に立ち入らせない……」
「え? なんて言いました?」
我孫子は、掛橋のほうを向いた。
「……まるで、
「蟻? 蟻って、虫のですか?」
掛橋はうなずき、
「蟻の役割は、女王蟻、監視役の蟻、それを監督する兵隊蟻に分かれています。監視役の蟻の役割は、外部からの侵入を阻止することです。木下さんのマンションの場合、監視役は彼」
掛橋は、瀬川の写真を指差した。
「兵隊蟻は彼、女王蟻は……」
――掛橋は、天願美智の写真を指した。
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