悲願 二

 次の日の朝、会社から帰宅した寛治は、ベッドで眠っていた瑞江を揺り起こした。

「……なあ、なあ、瑞江」

「なあに、帰ったの?……今、何時?」

 瑞江は寝ぼけまなこをこすりながら、しんどそうに寛治のほうを向いた。

「なあ瑞江、お隣さんに会ったことあるか?」

「……お隣さんって、どっち? 一〇二? 一〇四?」

「……いや、どっちでも」

 部屋を特定すると詮索せんさくされるかと思い、寛治は適当に言った。

「一〇四の瀬川せがわさんは自治会の集まりにもいらっしゃったし、たまに会って世間話ぐらいはするわよ。たしか、小学生ぐらいのお子さんがいて……」

「じゃあ、一〇二は?」

 瑞江の話をさえぎって、寛治は聞いた。

「一〇二は……あんまりない、かなあ。総会にも出てなかった気がするし。あ、でも、引っ越しの挨拶に伺った時は、スーツの男の人が出てきたよね。あなたもいたじゃない」

「そう……だったかな」

 寛治は曖昧に答え、瑞江はなんにも覚えてないんだから、と冗談交じりに言って笑った。

 あの時はフロア内の住人に次々と挨拶をして回らなければならなかったので、頭が混乱していたのだ。ここに越すまで寛治と瑞江はアパートに住んでいたので、挨拶回りなどはろくにしてこなかった。

 それに――あの時は、隣の住人が天願美智だなんて、想像もしていなかった。

 どうやら瑞江と面識があるのは、マネージャーだけのようだ。多忙のために美智が夜にしか姿を見せないのだとしたら、住人にはあまり認識されていないのかもしれない。あんな有名人がこんなにありふれたマンションに住んでいると知れたら、とっくに噂話の種になっているはずだ。

「ねえ、急にどうしたの? お隣さんと話したくなった?」

 瑞江に声をかけられ、寛治は我に返った。

「いや……ちょっと、気になっただけ」

「……ふうん」

 瑞江は寛治をじっと見ていたが、やがて起き上がり、

「……私、今日はパート休みだけど、大学の同級生と会ってくるから。夕方ぐらいには帰るね」

 そう言って、寝室から出て行った。

 寛治はベッドに入ったが、美智の姿ばかりが頭に浮かび、なかなか眠ることができなかった。


「――浮気調査のご依頼、ということでよろしいですか?」

 テーブルの向こうで、瑞江は深刻な顔つきでうなずいた。

「ですが、旦那様はエンジニアですよね。夜間に呼び出されることは、珍しくはないのでは?」

 瑞江が記入した書類を見ながら、掛橋は尋ねた。

「それは、そうなんですけど。近頃、その……夫婦仲が、あまり上手くいってなくて」

「それは、その……」

 デスクでキーボードを叩いている山園やまぞのの様子を横目でうかがいながら、掛橋は口ごもった。

「私、子供が欲しいんです」

 きっぱりと、瑞江が言った。

「だから、曖昧な状況から早く抜け出したいんです。もう三十六になりますし」

「……はっきりさせたい、ってことですか」

 瑞江は、強くうなずいた。

「わかりました。初回は無料にさせていただきますが、その後も調査を続けるとしたら、一時間でこのぐらいの金額になります。……よろしいですか?」

 掛橋は電卓を叩き、瑞江に示した。

 瑞江はうなずき、

「独身時代に貯めたお金もありますから、大丈夫です」

 その後、契約書に署名をしてから、事務所を出て行った。

「……なんか、大変ですね。旦那さん、仕事で忙しいだけかもしれないのに」

 パソコンの画面から顔を上げ、山園が話しかけてきた。

「万一のこともありますから、不安を払拭ふっしょくしたいんでしょう。そういう依頼もありますよ」

 山園は遠くを見つめながら、

「……子供かあ。私には当面、縁のない話ですね」

 大きく伸びをして、掛橋のほうをちらりと見た。掛橋はまったく気にせず、本棚をじっと見ていたので、

「掛橋さんは、彼女とかいないんですか?」

 何気ない風を装って、山園は尋ねた。

 掛橋は手を止めると、ふっと笑って、

「いませんよ。俺みたいな、伯父の脛をかじって本ばっかり読んでるような暗いやつと、付き合いたいと思うような変わり者もいないでしょう」

 その言い方があまりにも自虐的だったので、そんなことないですよ、と山園はさりげなくフォローしたが、掛橋はさほど気にしていないようだった。

「私も今は、彼氏がいないんです」

「へえ、そうなんですか」

「……」

 掛橋は興味のない様子で本を手に取ってぱらぱらとめくり始めたので、山園はその後ろ姿を、眉をひそめながら見つめた。

 黙っていても何も発展しなさそうだったので、山園は仕方なく、話題を変えることにした。

「そういえば、我孫子あびこさんには彼女っているんですかね」

 掛橋は一冊の本を脇に抱えて振り返り、

「あれ、言ってませんでしたっけ。彼は結婚してますよ」

「えっ、そうなんですか!?」

「ひょっとして山園さん、我孫子さんのこと……」

 意外そうに言う掛橋を見て、山園は慌てて首を激しく横に振った。

「ちっ、違いますよ。なんかチャラそうなイメージだったんで、びっくりしただけです」

「……まあ、そういう時期もありましたけどね。今は奥さん一筋ですよ。お子さんもいらっしゃいますし」

 そう言うと、掛橋は棚から写真を取り出し、山園に見せた。

 探偵事務所の前で撮られたとおぼしき写真には、小華田、掛橋、我孫子とその妻が写っており、我孫子の妻は腕に三歳ぐらいの女の子を抱きかかえていた。

 写真を見てから山園はデスクに戻り、掛橋はソファーに座って本を読み始めた。

 ――さとの喉を撫でながら、山園は、瑞江の深刻な様子を思い出していた。

 山園には、子供を産みたいという願望がない。まだ若いから、と言われればそうかもしれないが――自分が子供を産んで育てている姿が、どうしても想像できないのだ。

 日本では少子化が進んでいるので、山園のような考え方の女性は珍しくないかもしれない。だが、山園の大学の友人などは、当たり前のように家庭を持って、子供を産もうとしている女性も少なくない。

 未来がえる体質が子供に遺伝したらどうしようと、無意識に思っているふしもあるのかもしれない。だが、仮にその体質がなかったとしても――出産したいと思うのかは、はなはだ疑問だった。

 一度、山園は、なぜ子供が産みたいのかと、友人のかおるに聞いたことがある。薫はけろりとした顔で、

「なんとなく、かなあ」

 と、要領の得ない返事をした。なんとなくじゃわからない、ちゃんと教えてと言っても、

「……なんとなくはなんとなくだよ。そういうものだから」

 と、笑っていた。

 もし、女性が物心ついた時から、出産をと思っているとしたら――山園は女として、どこか欠落しているのだろうか。

 そんなことを考えながらぼんやりとテレビを眺めていると、画面には美智が映っていた。

 美智も、子供を産みたいのだろうか。

 山園は漠然ばくぜんと、そんなことを思った。


 自室の椅子に座り、寛治は迷っていた。

 どうも、昨日の美智の姿が脳裏に焼き付いて離れない。今までにも接待などで美人な女性を見たことはあるが、どう形容したら良いのか――

 美智は、美人と一括ひとくくりには言えない、言語化しがたいような魅力を持っていた。

 明日は休日で、特に予定もない。妻には会社から呼び出しがかかった、とでも言えば誤魔化せるだろう。

 寛治は決意して立ち上がり、リビングへと向かった。

「瑞江、ごめん。会社から呼び出しかかったから、ちょっと行ってくる」

「……また?」

 さすがの瑞江も、露骨にいぶかしげな顔をしている。寛治は、自分の良心がちくりと痛んだような気がした。

「しょうがないだろ、仕事なんだから。お前、明日の予定は?」

「明日……は、午前中はスーパーのパートがあって、そのあとは店長から話があるみたい。だから、帰るのは夕方ごろかな」

「そっか。……まあ、無理すんなよ」

 柄にもなく瑞江にねぎらいの言葉をかけ、寛治は家を出た。

 廊下に出てから周囲に誰もいないことを確認して、一〇二号室の前へと向かう。瑞江が家から出てきたらどうしようと、そればかりが気がかりだった。

 正直なところ、ふたたび美智に会えたらどうしたいのか、寛治には自分の気持ちがよくわからなかった。

 ただ、あの姿をもう一度、この目にじかに焼き付けたい――まるで磁石に引き寄せられているかのようなあらがいがたい欲望が、寛治の心を支配していた。

 寛治はインターフォンを押そうか、ひどく迷っていた。もしも美智が出てきたとしても、用などないのだから、追い返されるのが関の山だというのに――。

 ――ふと、寛治の鼻を、例の独特な甘い香りがかすめたような気がした。

「何してるの、そんなところで」

 振り返ると、目の前に美智が立っていた。

 寛治は、心臓が飛び出しそうになった。

 美智は、一〇二号室の鍵を開けた。寛治はいや、その、これは、などと口ごもった。どうも美智のことを考えると、自分の体が自分のものでなくなったように、言葉が上手く出てこなくなってしまう。

「入る?」

 寛治は、自分の耳を疑った。美智は何も言わず、寛治を真っ直ぐに見つめていた。

 美智の背後には、例のスーツ姿の男性が立っていた。男性のほうをちらりと見ると、何やら下卑げびた薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。

 寛治は、黙ってかすかにうなずいた。


 ――寛治が美智の家に行こうかと、ちょうど迷っていたのとおよそ同時刻。

 我孫子あびこは、木下夫妻が住んでいるマンションとは正反対の位置に建っている雑居ビルの、テナントが撤去して今は使用されていないフロアにいた。

 我孫子は窓から望遠鏡を覗き、マンションの廊下の様子を窺った。ポケットの中のスマートフォンが鳴ったので、我孫子は望遠鏡から目を離し、電話に出た。

『もしもし、瑞江です。……今、主人が仕事に行くと言って家を出ました』

「はい、了解です。また、何かあったら連絡ください」

 話している最中にもすでに、一〇三号室のドアから木下寛治が姿を現していた。

 寛治はすぐにエントランスに向かおうとせず、立ち止まって辺りをきょろきょろと見回していた。

「……あいつ、何してるんだ?」

 我孫子は、誰にともなくつぶやいた。

 やがて、寛治はエントランスとは逆方向の一〇二号室へと向かうと、その部屋の前で少し迷った素振りを見せてから、ドアにぴったりと耳をくっつけた。

「なんだ、あれ。中に誰かいるか確かめてんのか?」

 我孫子は念のため、暗視機能付きのデジタルカメラでその様子を写真に収めた。

「あ! あれ――」

 次の瞬間、我孫子は驚いて、言葉を失った。

 エントランスの方角から廊下に現れたのは、天願美智――。

 普段あまりテレビを見ない我孫子も書店で顔写真を見たことがある、時の人だった。美智の後ろにはスーツを着た男性が一人、あとをついてきていた。

「ええ。このマンションに、あんな人が住んでんの?」

 我孫子はまだ、木下家のマンションの居住者名簿は手に入れていなかった。それにしてもこんなありふれた集合住宅に、あんな有名人が住んでるとは想像もしていなかった。

 美智は我孫子と同じく驚いた様子で硬直している寛治に歩み寄り、顔を近付け、何かをささやいた。

 我孫子は何回も、カメラのシャッターを押した。

 ――やがて、寛治、美智、スーツを着た男性は、一〇二号室へと消えていった。

「おいおい、うちみたいな弱小探偵事務所があんな芸能人は……」

 手に負えないって、と心の中で思いながら、我孫子は雑居ビルから出て、マンションのエントランスへと向かっていた。

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