悲願

悲願 一

 暗い和室の中央に置かれた布団に、白い着物を着た女が一人横たわり、苦しそうに喘ぎながら身をよじっている。明かりは枕元に置かれた行燈あんどんだけで、その周囲だけがわずかにぼおっと照らされている。

 女の隣にはスーツ姿の老人が立っており、白衣を着た男が女の体を支えていた。同じく白衣を着たもう一人の男が、女の股下から胎児らしきものを引っ張り出そうとしている。

 ――んぎいいいい、んぎいいい、んぎいいいいいい。

 金属音のように甲高く、所々に雑音が混じった奇怪な泣き声が部屋中に響き渡った。

 男は取り上げた胎児を腕に抱き、女に見せた。胎児の姿は、暗くてよく見えない。

 女は汗だくで、額には濡れた髪の毛が張り付いていた。

 老人が女に近付き、

「長い間、ご苦労様でした」

 ――耳元でささやくと、女は、安堵の表情で目を閉じた。


                  *


 テーブルの上を、指の爪先よりも小さな黒い物体がい歩いている。 

 夕食を食べていた木下きのした寛治かんじはそれに目を留めると小さく舌打ちし、ティッシュを手に取って潰した。

「おい、瑞江みずえ。……瑞江!」

 なあにい、と不審ふしんげに言いながら、皿洗いをしていた妻の瑞江がキッチンから出てきた。

「また蟻がいるぞ。今月だけで何匹目だよ」

 瑞江は首をかしげ、

「さあ、覚えてないけど……なんでしょうね」

 のんびりとした返事に、寛治は余計にいらついた。四角い皿の上に載ったさばを、無造作に箸でつつく。

「ったく、巣でもあるんじゃねえのか。管理会社に言って、害虫駆除の業者でも頼んどけよ」

「はい、はい。時間ができたらね」

 念願のマイホームが一ヶ月も経たないうちに虫の巣窟になってしまい、寛治は鬱々うつうつとしていた。他の住民は苦情を出さないのかと疑ったが、普段顔を合わせた時も、総会でもそんな話は出ていないと瑞江は言っていた。

 食べ終えた皿を片付けようとした手を止めて瑞江がテレビに目をやったので、寛治の目も自然と同じほうに向いた。

『――長い時を経て、彼女はようやく悪魔になった。振り返った彼女の口から、真っ赤な血がしたたり落ちた。……彼女は、満面の笑みを浮かべた』

「この人、最近よく出てるよね」

 黒くてまっすぐに伸びた髪、雪のように白い肌。釣り目がちでくっきりとした目に、鼻梁びりょうの通った鼻。それから――つややかな、紅い色のぷるんとした唇。

 じっと見ていると恐ろしくなるぐらい整った顔立ちのその女性の下に、『天願てんがん 美智みち』というテロップが表示されていた。

「良いわよね、三十八歳で作家デビューして、自分で書いた小説を朗読して動画にしたら大ヒットして。声もすごく綺麗で聞き取りやすいし……美人だし」

「お前、小説なんて読むの?」

 意外に思い、寛治はそう言った。瑞江が本を読んでいる姿など、今までに数回しか見たことがない。それも料理本や整理整頓のノウハウ本だけだ。

「読んでないわよ。ちょっと動画で見ただけ。私と同学年らしいから、どんな人なのか気になって」

 やがて、テレビの画面は本の表紙に切り替わり、『悲願』という本のタイトルが映し出された。帯には『七十万部突破!』と書かれていた。

「……私にも、何か才能があればなあ」

 瑞江は、遠い目をしてつぶやいた。

「……こいつよりも給料が低くて、悪かったな」

「……そういう意味じゃないわよ」

 瑞江は笑ってそう言ったが、何を考えているのか、寛治はよくわからなかった。同じ屋根の下で暮らしているというのに、近頃は妻の存在を遠く感じてしまう。

「……あれ。これ、なんだ?」

 テーブルの上に置いてある長方形のチラシを手に取り、寛治は瑞江に尋ねた。

 そこには『掛橋かけはし探偵事務所』と書いてあった。

「ああ、駅前で配ってたの。可愛い女の子が大変そうで、断り切れなくてもらっちゃった」

「何、おっさんみたいなこと言ってんだよ。探偵事務所って……お前、浮気調査でも頼む気か?」

 冗談めかしてそう言うと、瑞江は声を上げて笑った。

「そんなことしないわよ。お金がもったいない」

 瑞江はそう言うと、探偵事務所のチラシをごみ箱に捨てた。

「それもそうか」

 寛治はそれを見て、ふっと笑った。

「……じゃあ、行ってくるから」

 寛治は箸を置き、椅子から立ち上がった。

「また会社から呼び出し?」

 瑞江は眉をひそめながら、控えめに聞いた。

「うん。最近入った若い奴のせいでトラブル続きでさ、ばたばたしてんだよね。まあ、そろそろ慣れて落ち着く頃だろ」

 瑞江は、壁にかかっている時計をちらりと見た。時計の針は午後十一時を指していた。

「……そうだといいね。いってらっしゃい」

 寛治は薄手のジャケットを羽織り、家を出て行った。


 寛治はエンジニアとして、今の会社で八年勤めていた。

 いわゆる大手企業で、富裕層まではいかずともローンの返済に心配がない程度の給料はもらえているし、急なトラブル対応はあっても、事前に申請すれば有給休暇も取れる。下積み時代はつらいこともあったが、中小企業やフリーランスに転職した元同期の顛末てんまつを見ていると、転職などは考える気がしなかった。大きな成功に憧れはあっても、怠惰な自分の性格をかえりみると、どうしても夢物語のように思えてしまう。

 ――エントランスで見覚えのある顔が遠くに見え、寛治は足を止めた。

 まさか、という気持ちと、本物かもしれないという気持ちが交錯し、動悸が激しくなる。

 寛治の正面から歩いてきた女性は、先ほどまでテレビで見ていた、天願美智――その人のように見えた。

 美智はサングラスをかけ、テレビで見た時と同じく全身に黒い衣装をまとっていた。白い肌に赤い唇が際立ち、そこだけがいっそう濃い色を放っているように見える。

 美智は袖部分がレースで縦に細かくドレープが入ったワンピースを着て上からカーディガンを羽織り、ハイヒールを履いていた。寛治に近付いてくるたびに、ヒールの音がコツ、コツ、と音を立てた。

 美智の隣には小柄で神経質そうなスーツ姿の男性がおり、せわしない様子で、手帳にメモを取りながら喋っていた。マネージャーだろうか、と寛治は思った。

 呆然として立ち止まっていた寛治と、美智がすれ違った。

 花の蜜のような、甘い香りが鼻をついた。

 ――テレビの画面を通して見るよりも、美智はずっと魅力的に思えた。

 寛治は思わずきびすを返し、美智のあとを追っていた。

 美智はエレベーターには乗らず、廊下を歩いて端から二番目の部屋の前で立ち止まった。

 一〇二号室。隣の家だ――。

 寛治の心臓が、どくん、と大きく脈打った。

 寛治はエントランス付近の廊下に立って、美智を見つめていた。美智は家に入ろうとしたが手を止めて、ふいに寛治のほうを向いた。

 そのまま美智は寛治を見て、微笑んだ――ように見えた。

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