新天地 四
――我孫子は、困っていた。
松坂に出門を紹介されてから一週間ほど経ったが、当の松坂とはまったく連絡がつかなくなっていた。
送ったメッセージは既読になっているが、電話には出てくれず、返信も来ない。あれほど更新していたXのツイートも途絶えている。掛橋と話した内容はメッセージに書いたが、反応がないので、松坂がどう思ったかはわからなかった。
時間ができたら、松坂の家にでも行ってみるか――。
我孫子がそんなことを考えていると、スマートフォンが振動した。画面を見ると、松坂からメッセージが来ていた。
『壁打ちに行こう』
画面を見ながら、我孫子は首をかしげた。
たしかに松坂と我孫子は、中学生時代に男子テニス部に所属していた。我孫子は中学生からだったが、松坂は幼い頃から父親にテニスを習っており、部活内ではエースだった。とはいえ、卒業してからは壁打ちに誘われたことなど一度もない。
我孫子が戸惑っていると、ふたたびスマートフォンが振動した。
『いつものとこでいいか?』
――我孫子は壁打ち用の高いコンクリートの壁がそびえ立っている公園に、松坂と自転車でよく行っていたことを思い出した。それは、二人が部活の自主練習でいつも利用していた場所だった。
松坂の様子がおかしい気もしたが、仕事疲れで昔のことが懐かしくなって、体を動かしたくなったのかもしれない。我孫子は了承し、予定を調整する
探偵事務所が休みの日に、我孫子は地元の駅前で松坂と待ち合わせた。
現れた松坂の姿を見て、我孫子は驚いた。
「お前、まだそれ使ってたの? 俺らが中学生の頃のジャージだろ?」
松坂は胸に『松坂』と刺繍された、二人が通っていた中学校のジャージを着ていた。
「……あれ、変かな」
いたって真面目な顔つきでそう言ってから、松坂は照れくさそうに笑った。
そんな松坂を見て、我孫子はまたしても妙な違和感を覚えた。
我孫子と松坂は二人で自転車に乗り、例の公園へと向かった。並んで自転車を漕いでいると、まるで中学生の頃に戻ったかのような気持ちだった。
「お前、メッセージ返してくれなかっただろ。ちょっと心配してたんだよ」
「……え? あ、そっか。ごめんごめん」
「メッセージの内容って、ちゃんと見た?」
「……いや、よくわかんなくて。ごめん」
「んなことだと思ったよ。あのな、お前が紹介してくれた出門さんのことだけど……」
「え? 何? よく聞こえない」
「だから、出門さんのことだけど……」
「聞こえないってば。もう、着いてからにしてよ」
松坂は、笑いながらそう言った。
それもそうかと思い、我孫子は黙って自転車を漕ぐことにした。
とりあえずは松坂も元気そうだし、我孫子の心配も思い過ごしかもしれない――。
松坂の案内で、二人は高さが五メートル以上あるコンクリートの壁がそびえ立っている、公園内の壁打ち場所に到着した。そこにはすでに二、三人の学生らしき人がいて、ラケットを持って壁打ちに
二人は近くのベンチにテニスバッグを下ろし、ラケットを取り出した。
松坂は我孫子よりも先に壁打ちをし始め、我孫子はラケットを持ったまま松坂の姿を見つめていた。
「お前が急に壁打ちしたいなんて言い出すから、大変だったんだよ。ラケットはなんとか見付かったけど、ガットは緩くなってたし。これ、わざわざ店で張り直してもらったんだぞ」
「……そうなんだ。大変だったんだね」
いつまでもはっきり喋らない松坂を見て、我孫子はいよいよ限界だった。
「……お前、やっぱなんかおかしくない?」
「え、何が?」
「だから、釘の話とかさ。仕事のこととか、彼女のこととか……こんなことよりも自分の近況報告とか、俺に話すことがあるだろ?」
「……ないよ、そんなの」
松坂は笑うと、壁打ちを続けた。パッコン、パッコンとコンクリートの壁とラケットにテニスボールが交互に当たり、辺りに小気味の良い音が響く。
「……じゃあ、釘の話はどうなったんだよ。出門さんのところにはまだ通ってんの?」
「行ってないよ。最近、めちゃくちゃ調子いいし。……たぶんもう、あそこには行く必要がなくなった」
「必要って……」
我孫子は言葉を失い、がむしゃらにラケットを振り続ける松坂を見つめた。
「仕事は? 仕事は順調なのか?」
「……」
壁から跳ね返ったボールをラケットで返しそこね、松坂は跳んで行ったボールを追いかけて雑木林へと分け行っていった。我孫子は、そのあとに続いた。
しゃがんでボールを拾おうとした手を止め、松坂は言った。
「……思い出せないんだ」
「……え?」
「前に釘を抜いてもらってたことは、なんとなく覚えてる。両親のことも、お前のことも、俺が中学生の頃にテニス部だったことも」
松坂は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……でもこないだ、家で漫画読んでたら、知らない番号から電話がかかってきてさ。電話に出たら 『リードインパルス』って名前の会社で、知らない女が俺の上司だって言ってきて……」
我孫子は思わず身の毛がよだった。松坂が口にしたその会社名は、まさに松坂が勤めている会社のはずだ。
「とりあえずその会社に行ってみたんだけど、俺がやってたって言われた仕事の内容も、何もかもが思い出せなくて。……上司の女にはだいぶ疲れてるみたいだから休職届を出して、病院に行ったほうがいいって言われた」
「……で、病院には?」
松坂は、笑いながら首を振った。
「そのあと、俺の彼女だって人から電話がかかってきたんだ。電話もメッセージもいっぱい来てたんだけど、怖くて返せなかった。彼女が言うには、俺の子供がお腹にいるらしい。でも、そんなこと言われたって、本当に何も思い出せない……」
松坂の顔は、見る見るうちにゆがんでいった。松坂はすがるような顔で、我孫子が着ていたジャージの胸のあたりを掴んだ。
「なあ、我孫子。俺はどうしたらいい?」
松坂の目から、ぽろぽろと涙がこぼれだした。我孫子は唖然として、ただ松坂を見つめていた。
――そのまま松坂は、ゆっくりとうずくまった。
松坂は、しばらく泣き続けていた。
我孫子の
松坂がやたらに不安がるので、我孫子もそのまま病院に付き添った。以前の松坂なら、一人で行くから大丈夫だと言うはずなのに――
我孫子の目から見ても、松坂はまるで、中学生の頃の気弱で臆病だった松坂に戻ってしまったかのようだった。
松坂の記憶がなくなった理由は医者にもはっきりとわからず、心的外傷やストレスが要因で起こる解離性健忘ではないかと言われ、心療内科への紹介状をもらった。
――それから一週間が経ち、松坂から、我孫子のもとに電話がかかってきた。
「おう。どうだった、何かわかったか?」
『今日、MRI検査の結果を聞いてきたんだけど……なんか、医者も驚いてたよ』
「え、なんか異常あった? 釘を抜いた跡が写ってたとか?」
松坂は苦笑して、
『そういうんじゃないんだけど。……なんか俺の脳、年齢のわりに、
「かいはく……なんだって?」
『……えっと、医者が言うには、人間の脳の灰白質の体積は五~十二歳がピークで、そこから減っていくもんなんだって。……ちょっと待って。写真をもらったから、メッセージで送るよ』
我孫子は松坂から送られてきた、MRI検査で撮られた脳の写真の画像を見た。
脳味噌の周りをふちどっている灰色の枠線のようなものを灰白質と呼ぶらしい、と松坂は言った。
『俺の脳は、灰白質の体積が十二歳……だいたい、小学六年生から中学一年生ぐらいの体積で、脳の隙間も全然空いてなくて、前頭葉や側頭葉の委縮も見られない』
松坂は松坂なりに、懸命に医者の言葉を思い出そうとしているようだった。
「……つまり、どういうこと?」
『……ええとつまり、頭の大きさは違うけど、俺の脳は、多くの記憶を詰め込める、いたって健康な子供の脳みそらしいんだ』
「いやでも、それって……」
我孫子は考え込んだ。いくら健全な脳を手に入れたところで、中学生から今までの記憶がなくなってしまったら――。
『……我孫子。俺、思ったんだけどさ。記憶がなくなる前の俺はずいぶん悩んでたって言ったよな?』
松坂の声で、我孫子は我に返った。
「お、おう。少なくとも、俺からはそう見えた」
『……じゃあさ、これって逆にチャンスなんじゃないかな』
「……やり直すための、ってこと?」
『うん。澪とはこれからちゃんと話して責任も取るつもりだし、俺のこの状況についても、多少は話すかもしれないけど……俺、今の仕事を本当にやりたいかどうかももう一回考えて、一からになっちゃうけど、また頑張ってみるよ』
松坂は少し照れくさそうに、けれどしっかりとした口調でそう言った。
――電話を切ると、我孫子は目の前の『売地』と書かれた立て看板が立った空き地を見つめた。
出門が使っていたコンクリート造りの建物は、すでに更地になっていた。松坂があのビルを訪れたのは、およそ二週間前だと聞いた。急きょ建物を解体しようとしても、今日までには到底間に合わないだろう。
我孫子も松坂も、二人で同じ幻を見ていたとでもいうのだろうか。脳に埋まった釘を抜かれたことも、出門という人間がいたことさえも――。
我孫子はふと、スニーカーの先に何かが当たったような気がして、地面を見た。
そこには、長さ十五センチほどの釘が落ちていた。
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